※以下は、2012年の金曜ロードSHOW!での放映時に書いた感想です。
監督:宮崎駿、声の出演:森山周一郎、加藤登紀子、桂三枝、上條恒彦、岡村明美、大塚明夫ほか、スタジオジブリのアニメーション映画『紅の豚』。
世界恐慌時のイタリア・アドリア海。自分に「魔法」をかけて豚の姿になった一匹狼の飛行艇乗りマルコ・パゴット(森山周一郎)は、みなから“ポルコ・ロッソ(紅の豚)”と呼ばれている。空中海賊マンマユート団たちや彼を勝手にライヴァル視するアメリカ人カーチス(大塚明夫)に狙われたり17歳の少女フィオ(岡村明美)に懐かれたりと休む暇もない。おまけにイタリア空軍からも追われて大混戦。ポルコの昔からのなじみの歌姫ジーナ(加藤登紀子)は「どうやったらあなたにかけられた魔法がとけるのかしらね」とつぶやく。
「カッコイイとは、こういうことさ。」
89年の『魔女の宅急便』(感想はこちら)につづく宮崎駿の1992年作品。
彼が「疲れた中年男たちのために」作ったという映画。
加藤登紀子が歌う「時には昔の話を」は好きでときどき聴きます。
時には昔の話を 唄:加藤登紀子
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さて、『ラピュタ』(感想はこちら)『カリ城』(感想はこちら)とここんとこ僕はベタ褒め気味の宮崎駿監督作品ですが、今回の『紅の豚』については少々、あるいはけっこう辛口になるかもしれません。
ただ僕もこの作品を本気で嫌いで文句いってるわけではないので、好きな映画をケナされた!と怒らずに「なるほど、こんなふうに感じた奴もいるのか」程度に思っていただければ。
なお、今回はストーリーを追うんではなくて、テーマをしぼって書きます。
以下、ネタバレあり。
ほとんどの人たちにとってはおそらくきわめてどーでもいいことだと思うんですが、ず~っと疑問だったことが。
ホテル・アドリアーノで歌うマダム・ジーナを見てて気になったんだけど、彼女はどうして胸がペッタンコなんだろう?
ジーナは劇中でシャンソンを歌うのでフランス人の可能性もあるが、主人公ポルコ・ロッソことマルコ・パゴットとは幼なじみという設定なので、普通に考えればイタリア人ということになる。
イタリア女性といえばグラマーなイメージがあるし、たまたまおなじ名前のイタリアの女優ジーナ・ロロブリジーダにしても、あるいはクラウディア・カルディナーレやソフィア・ローレンなどもみなボンキュッポンのグラマラスな体型でふくよかな胸をもっている。
宮崎監督は『風の谷のナウシカ』(感想はこちら)でもまだ10代のナウシカの胸を必要以上にデカく描いていたし、『ラピュタ』のおかみさんやドーラ婆さんだって立派なおっぱいをもっていたのに、「大人の女性」の代表格みたいなキャラクターのジーナをなぜわざわざペチャパイにしたのか。
少年のように平らな胸で華奢な体躯というのはどこか中性的で、「マダム」という言葉からは遠い印象がある。
ちょっと痩せすぎではないか?
ジーナは加藤登紀子の低音の落ち着いた声や物憂い雰囲気もあってどこかマレーネ・ディートリッヒをおもわせもするが、ディートリッヒも中性的な魅力を漂わせながらも特別バストが小さかったわけではない。
宮崎駿はこれまで成熟した女性の胸を極端なまでに大きく描いてきた人なだけに、どのような意味を込めてジーナをあのようなスタイルにしたのか妙に気になる。
失礼ながらジーナの場合、成熟を通り越してちょっと枯れかけてる気もしなくはないが。
ほんとに下世話な話で申し訳ないけど、でも「大人のための」あるいは「中年男性のための」映画を標榜するのならば、それってけっこう重要なことではないだろうか。
だってポルコも、そしてマンマユートや空賊連合の面々も歌姫ジーナに恋してるわけで、そこにはあきらかに母性を求めてやってくるマザコン男の心情がある。
でもジーナの外見には男たちを包み込むような色香が希薄なのだ。
今回の僕のこの映画に対するイチャモンは、そのあたりのことについてです。
※追記:その後、1920年代は「フラッパー」と呼ばれる胸の薄い脚線美が売り物の女性たちが人気で、おそらく宮崎監督はジーナをそのような当時流行していたスタイルにデザインしたのではないか、と思い至りました。
『紅の豚』は、これまで子どもたちのために映画を作ってきた宮崎駿が、自分の趣味を前面に押し出した作品といわれる。
だからこそ、これは「自分と同世代の疲れた男たち」に観てもらいたいのだ、と監督みずから語っていた。
でも公開当時に映画館で観て、飛行艇の描写に宮崎監督の趣味がおおいに発揮されているのはもちろんよくわかったが、はたしてこれが「大人のための映画」だったかどうかはなはだ疑問で。
当時の宮崎監督と同世代の人たちがこれを観てどう感じるのかはよくわからないが、正直僕には主人公ポルコが「大人の男」には見えなかった。
ほんとうに男があこがれる男というのは、どこか危険な香りがするものだ。
しかしワルぶってはいてもポルコは安全でカワイイおじさんなんである。
いや、森山周一郎の声はシブいし、いまだにいろんな人が口真似する「飛ばねぇ豚はただの豚だ」などところどころ小粋なこともいうんでなんとなくカッコ良く見えるんだけど、なんというか、酸いも甘いも噛み分けた大人の男、というにはなにかが決定的に足りない。
どこか大人の外見をした子どものようにも思える。
無論、この映画がいい年こいたオッサンたちの稚気を描いているのはわかっている。
「戦争ごっこ」をしているオヤジたちの話なのだから。
また、ファシスト政権下の時代を舞台にして、古き良き時代への感傷も滲ませているあたりは僕も好きだ。
でも、こと「女性」のことになると、やはりどうも及び腰なんである。
多くの宮崎アニメと同様に、この映画にもダブル・ヒロインが登場する。
先ほどのジーナともうひとりは、ポルコのなじみの工場経営者ピッコロ親父の孫娘フィオ。
ナウシカのようにメカに強くてキキのように溌剌としたフィオは、これまでの宮崎アニメのヒロインたちよりもさらに等身大の少女に近づいたといえるかもしれない。
彼女はポルコのビジネスパートナーであり、ともに飛行艇を愛する同志でもある。
派手に動き回るキャラクターではないジーナのかわりにポルコといっしょに活躍するフィオだが、ジーナがポルコのマドンナであるために若干割を食っている。
この映画の真のヒロインはジーナのはずだからそれはかまわないにしても、宮崎さんのロリコン趣味がジャマして大人の恋の物語がけっきょくは少女の争奪戦に終わってしまうのだ。
一番違和感があったのは、ポルコがフィオにキスされて赤面しながら戸惑った表情をするところ。
豚の姿のときのポルコの服装は海外ドラマ「刑事コジャック」のテリー・サヴァラスのそれをもとにしているらしいが(サヴァラスの吹き替えも森山周一郎が担当していた)、おそらくキャラクターとしては往年のフランスの名優ジャン・ギャバンあたりもモデルにされているのだろう。
サヴァラスもギャバンもいかにも大人の男性、といったいぶし銀の俳優たちだ。
だが、大人の男、それも女好きとして世界的に有名な(?)イタリア人の中年男が、17歳の少女に軽くチューされたぐらいで頬を赤らめたりするだろうか。
あとでカーチスから、ジーナはてめぇに惚れてんだ!といわれて顔を真っ赤にするのもしかり。
ヨーロッパのあのあたりの人たちにとってほっぺたにキスなんて挨拶代わりなんだから、ジャン・ギャバンなら気にも留めずに憮然としてるか軽く笑うぐらいだろう。
フィオが「あたし泳ぐ!」といって服を脱ぎだすとあわてて目をそらす場面なんかも、これじゃただの童貞かいつものロリコン親父じゃねーかと。
主人公が照れ屋で純情なのはかまわないが、ダンディな「大人の男」なら小娘の下着姿ぐらいでいちいちうろたえないでほしい。
いきなりここだけ主人公が“宮崎駿”そのものになっちゃってる。
『カリオストロの城』のルパンとクラリスには喝采を送れた僕も、さすがにこの豚オヤジのロリコンぶりにはちょっと引く。
ちなみに『紅の豚』のフランス語版でポルコの声をアテたのはジャン・レノなんだそうだ。
『レオン』(感想はこちら)でやはり少女だったナタリー・ポートマンに迫られて狼狽する殺し屋を演じていたジャン・レノには、まさにぴったりの役だと思う。
『レオン』もまた殺しに関してはプロフェッショナルでありながら、女性に対しては「大人になれない男」の物語だった。
だからおなじように、『紅の豚』は女性に対しては「カッコ悪い男」の話なんである。
いや、そういった惚れた腫れたの男女の睦事はもう卒業した人たちの物語なんだ、といわれるかもしれないけど、それはポルコがこれまで幾度も大人の恋愛を経てきた成熟した男だと感じられてはじめて成立する話。
でもさっきから書いてるように、僕には彼は若き日のジーナとともに飛行艇を飛ばしていたあのあどけない少年からいきなり森山周一郎のダミ声オヤジになってしまったように感じられる。
フィオの前で一瞬だけ見せた人間のときの顔。あそこに至るまでの彼の人生が想像できないのだ。
途中の回想シーンでイタリア空軍時代のポルコが出てくるが、ヒゲ生やしてるのに子どもみたいに妙に声が甲高くてとても同一人物には思えない。
ここでちょっと連想するのは、山田洋次監督の『男はつらいよ』(感想はこちら)における車寅次郎(渥美清)と旅回りの歌手リリー(浅丘ルリ子)の関係。
寅さんはリリーに気があるが、なんだかんだいってはけっきょく離ればなれになって、また別の女性といい仲になったりする。
ところでこれは特に寅さんファンの人は冗談のつもりで読んでほしいんですが、『男はつらいよ』には、寅さん童貞説、もしくは寅さん性的不能説というのがある。
僕もシリーズをずっと観てるわけじゃないけど、どう考えたってマドンナとヤれる展開になっても、そういうときにかぎって寅さんは急に躊躇してやめてしまうのだ。
インポなんでは、と思われてもしょうがないだろう(乱暴すぎる推論)。
そりゃお年寄りも観る映画なんだから渥美清とマドンナ役の女優さんの濃厚なラヴシーンがあったら困るのかもしれないし、リリーの存在があるから、ともいえるが、じゃあとっとと彼女とくっつけばいいのに、寅さんはそうしない。
ポルコとジーナの関係もこれにソックリである。
そういえば、リリーを演じた浅丘ルリ子もずいぶんと痩せていた。
「プラトニック」といえば聞こえはいいが、寅さんにもポルコにもまるっきりセックスが欠落している。
たしかに寅さんは魅力あるキャラクターだけど、『男はつらいよ』が「カッコイイ大人の男の映画」といえるのかどうかは微妙だろう。
寅さんがいくら前田吟やほかの若い奴ら、三船敏郎たちに色恋の極意を語ろうと、彼自身はあくまでも「道化」であってけっして恋愛の達人ではない。
ポルコ・ロッソもまた道化なのだ。
いまでも寅さんにあこがれる人が多いように、ポルコ・ロッソのことも「あこがれの大人」として見る人がいるのは知っている。
しかし主人公ポルコのことを「カッコイイとは、こういうことさ。」とわざわざもち上げてみせるこの映画は、僕には恋愛経験のともなわない冴えない中年男性の幻想のように思える。
ただし、山田洋次にとって寅さんが自分とはまったくかけ離れた環境に生きている、ゆえにあこがれのキャラクターであるのにくらべれば、ポルコは宮崎駿の実人生がもっとかさねられてはいる。
特に仕事に対する姿勢なんかは、すでに本人が語っているが、ピッコロのあの飛行艇工場はジブリのアニメーションの制作現場そのものだろう。
寅さんが渥美清の実体験にもとづく啖呵の切り方や口上、下町仕込みの台詞廻しによって実在感をもったように、ポルコ・ロッソは森山周一郎の貫禄のあるしゃがれ声とユーモラスな受け答えによってキャラクターが補完され、「カッコイイ大人の男」の一種のパロディになっている。
この映画には恋愛要素以外のドンパチの魅力があるし、そもそも最初からフィオもジーナに言い寄るカーチスも“賑やかし”であって、ジーナとポルコの間に割って入れる者など誰もいないのは観客にはすぐにわかる。
ポルコとジーナがくっつくかどうかなんてことは眼目ではない。
だからブタさんはほんとうのマドンナをほったらかしにして、ケンカ仲間たちと小娘の獲り合いっこをして殴り合ったり飛行艇で遊んでたりする。
じつにたわいない映画だ(それが悪いとはいいませんが)。
僕がこの映画に物足りなさを感じた理由は『ナウシカ』や『ラピュタ』のような大作感がなかったのと、もうひとつはラストにある。
浜辺で殴り合うポルコとカーチス、空賊たちのところへイタリア空軍が向かってくる。
ポルコはカーチスとともに追っ手を撒く。
フィオはジーナとも親しくなって、ふたたび戦争を経てさらにときは過ぎて…とこれらはすべてフィオのモノローグ(独白)で説明される。そしてエンドロールへ。
ここが僕はどうも不満だった。
というのも、宮崎監督は基本的に物語のすべてを登場人物の「芝居」で見せる人で(『ナウシカ』や『魔女宅』ではエンドロールでも本篇の“その後”が描かれる)、彼の監督した劇場公開作品で観客に向けて登場人物のナレーションが入るのは、いまのところこの作品だけなのだ。
だからこれは本人も意図的にやったことなんだろうけど…なんだかあっけないなぁ、と。
これはもっとグッとくるラストにできたんじゃないだろうか。
たとえば、時はうつろい、アドリアーノでくつろぐ老齢のジーナらしき女性と大人になったフィオの後ろ姿を映して、彼女たちが空を見上げると小さく赤い機体が見える、といった感じで締めくくるとかさ。
カーチスや空賊たちのその後についても、「絵」で見せてくれればじゅうぶんだ。
あれからずいぶんと年月が経ったはずなのに、最後のナレーションのフィオの声が若いままなのも違和感があったし。
宮崎アニメの最大の魅力はキャラクターたちの「芝居」なんだから、それをすべて言葉で説明してしまったら感動は半減してしまう。
それは監督自身わかってるはずなのに、どうしてああいう処理にしたのだろう。
エンディング次第では誰もが号泣必至の感動作品になっていたかもしれないのに。
でも僕は物足りなかった。
「…えぇ~?これで終わり?」と思ってしまった。
上映時間は93分。これは88分の『トトロ』(感想はこちら)に次ぐ長さで、『カリオストロの城』や『魔女宅』よりも短い。
ジーナが唐突に部屋の一室でイタリア空軍の無線を傍受しはじめる場面で、僕は「もしかして彼女は…スパイ?」などと、このあとの怒涛の展開を期待してしまったのだ。
しかし、ジーナはただその情報をポルコたちに伝えただけだった。
う~ん。
やっぱり殴り合いのあとにもう一回ぐらい大きな山場があってもよかったんじゃないかと思う。
『ラピュタ』で冒険活劇を卒業した宮崎駿はもうそういう世界にもどる気はなかったんだろうけど、飛行艇とか機関銃とか出すんだったら、やっぱり僕みたいに大きなカタルシスを期待しちゃう奴がいてもしかたないじゃないか。
でも出来上がった作品はそういうんじゃなかった。
ダンディをキメてるオヤジがじつはロリコンだったことがわかる、というだけの話だった(暴言)。
いや、別にいいんですけどね、ロリコンだろうがショタコンだろうが。
でもそれは「大人」じゃないでしょ。
さて、あーだこーだとイチャモンつけてきましたが、ここまでは劇場公開時に感じたこともふくめての感想。
今回ひさしぶりに観たら…。
イイ映画じゃねぇか(ニヤッ)。
1988年、『となりのトトロ』(感想はこちら)の公開前に宮崎監督が僕の地元をおとずれて講演をして(いま思えば貴重な体験だったわけだけど)、どんな内容だったかくわしくはおぼえてないけど、「ブタが女の子を人質にとって戦車で暴走する」という豚版『馬鹿が戦車(タンク)でやって来る』みたいな企画「突撃!アイアンポーク」について話されていました。
それから映画評論家の森卓也さんとの対談中に「モノクロ」と「モノラル」をいい間違えて照れていた(ハヤオ萌え)。
「アイアンポーク」がまわりまわってこの『紅の豚』になったのかもしれない。
ちなみにハナ肇主演の『馬鹿が戦車でやって来る』は山田洋次監督の映画で、寅さんもそうだったがなにか宮崎駿は山田洋次作品と相通ずるものがあるんだろうか。
もっとも“ブタが戦車でやってくる”「アイアンポーク」の方は主人公のブタが女の子を“戦利品”としてかっさらっていくのだが、『紅の豚』でポルコがフィオを人質にとるのは秘密警察の目をあざむくためで、おなじ豚でもそれぞれのキャラクターはかなり違う。
前者のブタが良くいえば“情熱的”であきらかに性衝動のメタファーである砲台のついた戦車で突っ走る「馬鹿」なのに対して、ポルコは「現実社会から降りた男」で自分から女の尻を追いかけることはない。
ただそのかわり、一見寡黙なようでいてじつはポルコはけっこうゴタクが多い。
宮崎アニメの男性キャラとしては意外とおしゃべりなのだ。
そういえば宮崎さんも一時期はアニメーション制作以外の分野で妙に饒舌だった。
『紅の豚』の直接の原案となるのは、宮崎監督が「モデルグラフィックス」に連載していた「飛行艇時代」というマンガ・エッセイ。
僕は友だちがこの雑誌をもっていて1度だけ読んだことがある。
たしか映画のなかにも出てくる、まるでポニョの妹たちみたいな大量のちっちゃな女の子たちに主人公がてこずるエピソードだったと記憶している。
マンマユート団のボスの「志を高くもて」という台詞もあった。
壮大な物語を期待してたら主人公たちが殴り合いをするシーンがクライマックスという小粒な作品だったんで少々ガッカリした10代の頃とくらべると、普通にこの映画を楽しめて、あれほど抵抗のあったラストも案外すんなり受け入れられたのは、僕がオッサンになったからだろうか。
宮崎監督は年とったジーナやフィオを描くつもりなどなかったのだろうし、観る者に時のうつろいを実感させて過度に感傷的なラストにする気もなかったのかもしれない。
さらっと終わるのがカッコイイんだとばかりに。
この映画が作られて20年が経った。
すでにこの映画自体が「昔の話」なのだ。
設定ではポルコは36歳ということだが、嘘つけ!! (;^_^A
ジブリ作品のなかで『豚』が一番好き、という人もいる。
寅さんと同様に、もはやポルコ・ロッソは「あこがれの男」のスタンダードとなったのだろうか。
『男はつらいよ』の最終作で、寅さんはリリーにいう。
「俺と所帯もつか」
フーテンの寅さんは、ついに最愛の人といっしょになるかもしれないことが示唆されてシリーズは幕を閉じる。
はたしてポルコ・ロッソはジーナと結ばれたのだろうか。
彼がおとなしく身を固めるとは思えないが。
「男のロマン」とはかようにハタ迷惑なものである。
※ポルコ・ロッソ役の森山周一郎さんのご冥福をお祈りいたします。21.2.8