※以下は、2012年の金曜ロードSHOW!での放映時に書いた感想です。
監督:宮崎駿、声の出演:島本須美、松田洋治、榊原良子、家弓家正、永井一郎、納谷悟朗ほかの『風の谷のナウシカ』。1984年作品。
82年からアニメ雑誌「アニメージュ」で連載中だった同名漫画を作者の宮崎駿自身がアニメーション映画化。
予告篇の最初に入ってるのは同時上映の「名探偵ホームズ」。当然ながらというか、安田成美が唄うイメージソングは映画本篇では流れません。
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巨大産業文明崩壊より1000年後。世界は“腐海”とよばれる猛毒の森と広大な砂漠に覆われようとしていた。小国“風の谷”の族長の娘ナウシカ(島本須美)は、蟲たちと心を通わせる不思議な力をもっていた。彼女は人の住めない腐海の謎を解くためひそかに腐海の植物を研究し、巨大な蟲の“王蟲”に心惹かれる。腐海で王蟲に追われていた旅人を救うナウシカだったが、それは父ジルの古くからの盟友で谷の人々にも慕われる師のユパ(納谷悟朗)だった。
“その者青き衣をまといて金色の野に降り立つべし。失われし大地との絆を結び、ついに人々を青き清浄の地に導かん” ──伝承の言葉
僕は『ナウシカ』を劇場では観ていなくて(ヘタすると公開当時この映画の存在を知らなかった)のちに近所の友だちの家でヴィデオではじめて観たんだけど、この映画はなによりも僕にとっての“ファースト・インパクト”でした。
冒頭から、これはいままで見たことがない世界の物語がはじまるのだ、と思った。
そして宮崎駿が描く、はるか未来の異世界に魅了されたのでした。
それ以前にも、もしかしたら彼がかかわった作品を目にしたことはあったかもしれないけど意識したことはなかったし、“宮崎駿”という人を知ったのもおそらくこの作品がはじめてだったと思う。
久石譲についても、作曲家として彼の名前をちゃんと認識したのはこの作品が最初。
その後、近くの図書館に原作漫画が置いてあるのを知って借りて読んで、やがて自分でも買うようになった。
そして94年に完結するまで集めました。
だからそれなりに原作漫画にも愛着はある。
でも映画版と原作、どちらが好きかといったら圧倒的に映画の方が好き。
以下、なにかと原作漫画と『もののけ姫』(感想はこちら)を引き合いに出してゴチャゴチャ文句いうので、お好きなかたは気を悪くされるかもしれません。あらかじめご了承の上お読みください。
映画のネタバレもあります。
まず、ひさしぶりに観てあらためて思ったのは、この作品が宮崎アニメのなかではかなり異色の部類に入るものだということ。
宮崎アニメは基本どれも時代を越えた作品群だが、それでも『ナウシカ』にはこの映画が作られた「時代」をおおいに感じる。
冒頭からナウシカは、腐海のことや彼女の心のなかをすべて台詞で説明している。
もしもこれが実写映画だったら、観客の目にはかなり奇異に映るに違いない。
ほかに誰もいない場所で主人公が延々と独り言をいっているのだから。
『ナウシカ』はもともと原作があってそれに沿って映画版が作られているというのはあるが(原作は独白や説明文が多用されている)、宮崎駿の映像作品はヴォイス・オーヴァーやナレーションを使うことはめったにない。
状況を説明するつぶやきもだいたい一言二言ぐらいで、基本的にはキャラクターたちの“芝居”でストーリーを進める。
だからこの処理はとても不思議な感じがする。
宮崎アニメ以外の作品ではめずらしくない手法だが。
そのほかの部分でも、いまこの作品を観ると強烈に「80年代」を感じる。
最近の宮崎作品ではなかなかその声が聴けなくなったおなじみの声優たちが大勢参加しているのも、その理由のひとつではあるだろう(アスベルの声を、その後『もののけ姫』で主人公アシタカの声を演じる松田洋治がアテている)。
ただ『ラピュタ』(感想はこちら)も『トトロ』(感想はこちら)も『魔女宅』(感想はこちら)だって80年代に作られたのだが、それでも『ナウシカ』にはそれら以上に“80年代アニメ”の香りが濃厚に漂っているのだ。
これより5年前に作られた『カリオストロの城』(感想はこちら)の方が正調活劇漫画映画であるだけに、むしろ時代を感じさせない。
たとえばユパがガンシップからペジテのブリッグに飛び移って戦うシーンで、一瞬画面全体が黒味になって、いなづまのような閃光が走る。
次のカットではトルメキア兵たちは蹴散らされている。
以後、このようなアニメ的な省略技法を宮崎駿は使っていない。
また、おなじ船から愛機メーヴェで飛び立ったナウシカがふりかえると、その瞳が涙でウルウル光る、といった効果もその後の宮崎アニメには見られないものだ。
それら日本のアニメ特有のお約束的表現を、おそらく意識的に宮崎監督は自分の作品から排除していったのだろう。
宮崎アニメは昔からパロディにされることが多いが、歴代ジブリ作品のなかでもナウシカほど幅広くさまざまな方面で取り上げられたキャラクターはいないのではないか。
そういえば、当時TVアニメ「うる星やつら」のなかでも何度かナウシカが描かれてるのを目にしたっけ(けっこうおもいっきりメーヴェで飛んでたりした)。
特別アニメファンというわけでもない僕でさえ、よく学校で友だちと「ユパさま~!」とか「なんだろう、胸がドキドキする」などと真似して(残念な子だな…)遊んでいた。
まだジブリブランドなど存在しなかった時代に、そのへんのガキにモノマネさせてた浸透度と影響力はすごいものがある。
ところで、この映画にはほかの宮崎アニメに多くみられるコミカルだったりユーモラスな場面がほとんどない(トルメキア軍の参謀クロトワや風の谷の3人の城おじたちがわずかにそれを提供するが)。
宮崎駿の代表作でありながら、のちに『もののけ姫』が作られるまではそのフィルモグラフィのなかでも特異な位置にあるシリアス作品だった。
ほかの作品以上に思い入れも強いこの映画が僕にとって宮崎アニメのなかでベストワンじゃない理由はそこにあって、子どもの頃はむしろ真剣に観ていたのだが、いまではちょっとしんどかったりもする。
だから『カリオストロの城』や『ラピュタ』の漫画映画の「面白さ」に順位を譲らざるをえない。
それでも僕が『ナウシカ』を観てうけた衝撃は、ほかのどの宮崎作品よりも強かった。
最終戦争から千年後というぶっとんだ時代設定や、これほどまでに舞台となる架空の世界がこまかく作り込まれた作品は宮崎アニメのなかにはほかにない(普通はだいたい時代が決まっていてモデルとなる国がある)。
「ナウシカ」はアーシュラ・K・ル=グウィンの「ゲド戦記」やM・ジョン・ハリスンの「パステル都市」、フランク・ハーバートの「砂の惑星」やリチャード・コーベンの「ロルフ」、惜しくも2012年に亡くなったメビウスなど、さまざまなアーティストや作品から影響をうけているというが、それらが宮崎駿の異国的でファンタスティックな絵のタッチと溶け合って、誰とも違う、誰にも真似の出来ない独自の世界を生み出している。
そしてなによりもナウシカのキャラの立ち方は宮崎作品のなかでも群を抜いている。
この映画の公開当時のキャッチコピーは「少女の愛が奇跡を呼んだ…」というものだった。
しかし宮崎監督自身はこのコピーを気に入っていなかったらしい。
のちに「ナウシカを救世主にするつもりはなかった」と語っている。
でも映画を観ると、やはりナウシカはそういう存在として描かれていると思う。
王蟲の暴走を食い止めて命をうしなったナウシカが無数の王蟲たちの触手によってよみがえり、金色の野に降り立った彼女こそ伝説の“青き衣の者”だった、というところでこの映画は終わっている。
じっちゃんたちも「奇跡じゃ、奇跡じゃあ~」っていってるし。
この“奇跡”が当時多くの人々の涙と感動を呼んだのだし、それはいまでも変わらないからこそこうしてTVで幾度となく放映されているのだろう。
80年代から『ナウシカ』を観て号泣する子どもは大勢いたし、これは一種の「宗教映画」と呼んでもいいのではないかとすら思う。
ところが、やがて宮崎駿はこの映画版『ナウシカ』を「安易な奇跡」によって締めくくったことを自己批判して、原作で主人公の聖人化を否定してみせた。
また原作版「ナウシカ」の映画化といってもいい『もののけ姫』では、物語的なカタルシスを犠牲にして簡単には光と闇、白と黒には二分されない混沌とした世界を描いた。
このことを高く評価する人たちも多い。
でも僕はあくまでも映画版『ナウシカ』の方を強く支持していて、漫画版についてはファンの人々が熱っぽく語るほど好きではありません。
映画化された2巻あたりまでと最終巻近くとでは、見くらべるとわかるけど絵柄や線が違う。
はじまって最初のうちは丁寧にペン入れされていて、ナウシカの顔も大人っぽい。
連載がつづくにつれて彼女の顔は幼くなっていった。
原作は長大な「戦記物」で、映画版は主人公ナウシカと王蟲の交流を主軸にした1つの「物語」として構成し直されている。
連載中の長篇漫画がそれを描いた本人によってアニメ化された作品といえばほかには『AKIRA』が有名だし、ちょっとマイナーになるけど安彦良和の『アリオン』などもある。
映画版『AKIRA』(感想はこちら)は好きなんですが、大友克洋はのちの『スチームボーイ』を観ても思ったんだけど、すくなくとも映像作品においてはストーリーテリングの人じゃないな、と。
つまりご本人はお話自体にはあまり関心がない。なのでわりと投げっぱ。
「クラッシャージョウ」や「ガンダム」のキャラクターデザインなどでも有名な安彦良和の『アリオン』は、当時原作漫画を読んでいなかった僕にもダイジェストのように感じられた。
『ラピュタ』とおなじ年に作られた映画(音楽も久石譲)だが、あの当時に観た人以外ではたしてどれだけの人がこの作品を知っているのだろうか。
多くの作品が時間とともに埋もれていくなかで、アニメ『風の谷のナウシカ』がいまも多くの人々に記憶されているのは、初期宮崎映画に多くみられるその語り口の明瞭さによるところが大きい。
よく『ナウシカ』は原作漫画の方が「深い(ダジャレではない)」などと評されることがあるけど、深いかどうかは知らないが、映画版の方が断然「面白い」。
なにをもって「面白い」とするかは人によってさまざまだと思いますが。
映画版では原作の設定や登場人物、ストーリーが整理され、単純化されている。
つまり、漫画版が80~90年代にかけて自然だとか人間だとかについてあれこれと考え悩みつづけてきた宮崎駿の頭のなかを、混乱や迷走、多くの矛盾も含めてそのまま作品化したものであるのに対して、映画版ははるかにウェルメイドで古典的な「物語」となっている。
そのことをもってこの映画を原作よりも下に見る向きもあるが、僕はこれらはまっとうな改変だと思うし、もしも『ナウシカ』が原作どおりに映像化されていたら、ここまでの人気作品になったかどうかは疑わしい。
主人公が救世主、という結末をいまでは作り手みずからが問題としているが、それのどこがいけないのだろう。
少女の愛が奇跡を呼んでなにが悪い?
1980年代、映画(それ以外のジャンルでもいいが)の作り手たちは、あきらかに巫女としての“少女”に何かを仮託して、彼女たちによって救われることを願っていたフシがある。
少女たちは世界を救う“依童(よりわら)”だった。
ナウシカは人でありながら木々や森の蟲たちと交感できる、自然と人間の仲介者である。
この映画のすごいところは、ナウシカという現実には存在し得ないキャラクターをここまで魅力的に描き出したところだ。
だからこそ、彼女が王蟲の大群に跳ね飛ばされたときには観る者はショックをうけ、やがて彼女の復活に涙を流した。
これこそ映画のマジックではないか?
97年に作られた『もののけ姫』が宮崎駿にとって90年代の「ナウシカ」だったことは間違いないだろう。
しかし、僕は原作の「ナウシカ」や『もののけ姫』の方が映画版『ナウシカ』よりも優れている、といった意見にはまったく同意できない。
まぁ、どちらが優れてるとか劣ってるとかなんてほんとはどーだっていいんですが、なんとなくある時期から「ナウシカ」の原作漫画が妙にもち上げられる一方で、映画版が不当におとしめられているような印象があるので。
さらに、好きな人には悪いけど、じつは僕が唯一苦手な宮崎作品が『もののけ姫』なのだ。
満席の映画館で観終わったあと、軽く途方に暮れてしまった。
上映時間は133分とジブリ作品のなかではもっとも長く*1、シリアスだった『ナウシカ』よりもさらに深刻な話で映画のほとんどが物の怪と人間たちの殺し合いで占められている。
宮崎アニメを観て「つまらなかった」と思ったのは、あとにも先にもこのときだけだ。
宮崎監督が『ナウシカ』の反省を踏まえて『もののけ姫』を作ったというのなら、逆に僕は残念としかいいようがない。
仮にどんなに高尚なことをいっていようと、エンターテインメントとして僕はあの映画が面白いとはまったく思えなかったので。
また、「ナウシカ」の原作漫画を幼い子どもが読んで理解できるとも思えない(特に後半)。
というか、僕はいまでも理解できてないが。
後半はほとんど登場人物たちの問答ばかりで、それはようするに宮崎監督の「一人ごっつ」みたいなもんだ。
まるである時期以降の富野由悠季のアニメのように、登場人物たちが作り手自身の心のなかの葛藤を代弁してたがいにわめき合う。
それは「物語」ではない。
以前にもちょっと述べたけど、僕は宮崎監督から「世界」や「人間」をめぐるご高説を賜りたくて彼の映画を観ているわけではなくて、彼のアニメーターやストーリーテラーとしての才能に惹かれて観るのだ。
膨大な台詞で宗教や哲学について長々と講釈を垂れられても退屈なだけである。
やはり黒澤明の『影武者』や『乱』のような「神の視点」からの説教臭さを感じてしまう。
一方で映画版の方は小学生だった僕にもじゅうぶん理解できたし、なによりも圧倒的なヴィジュアルの迫力に魅せられた。
オープニングクレジットのタペストリーに描かれた絵。
世界を焼き尽くして歩く“巨神兵”の群れ。
当時からこの映画は「環境問題をうんぬん」みたいなことをいわれてきたけど、僕はまずこれを“異世界ファンタジー”として観た。
ちょうどロールプレイングゲームなどが流行りはじめて、『ナウシカ』の世界観はまさにそれらと同時代的だった。
その後のファンタジー系のさまざまなメディアにあたえた影響も大きいと思う。
文明が崩壊したあとの超未来、という設定も、ほかの多くの作品にみられる。
宮崎駿自身が、世界が一度滅びたらそのあとにあらたに清浄な大地が生まれるのではないか、という幻想を抱いていた。
本人がそう語っている。
まだ世界の終末は甘美だった。
この映画では、そのほかの宮崎アニメの多くとおなじようにダブル・ヒロインになっていて、いうまでもなくそれはナウシカとトルメキアの皇女クシャナなのだが、彼女たちは一見対照的なキャラクターに見えながら、たがいに気性の激しさをもち合わせている点でよく似ている。
そして女性でありながら民や軍を率いる立場にいることも共通している。
蟲に襲われて身体の一部が欠損している、という映画版独自の設定をほどこされたクシャナは蟲たちを憎み、巨神兵によって腐海を焼き払おうとする。
原作では腐海を焼き払うという発想そのものがなくて、彼女は蟲よりも血のつながらない父王や兄皇子たちと血で血を洗う権力闘争を繰り広げていた。
映画のなかではクシャナと父や兄たちの確執は直接は描かれず、「あの化け物を本国の馬鹿どものオモチャにしろというのか」という台詞で彼女の“血塗られた道”をにおわせている。
クシャナは傷ついた元少女である(原作では少女時代のクシャナが描かれている)。
まるで人間と大地の精霊のハーフのような存在のナウシカと、あくまでも人間の側から大地は利用するものだと考えるクシャナ。
このふたりに象徴されたものがなんなのかを考えてみるのは、なかなか興味深いことだ。
ところで、クシャナが率いるトルメキア軍は風の谷に侵攻してそこの長であるナウシカの父ジルを殺すのだが、それが昔から不可解でしかたがなかった。
なぜクシャナは風の谷の族長を殺したのだろうか。
人口わずか500人の風の谷(避難する人々はそれ以上の人数にも見えるが)を制圧するのに、いきなりそこの長を殺す意味がわからない。
ジルにしても寝たきりの老人ひとりが抵抗してどうにかなるとは思っていないはずだが。
この謀殺がナウシカに怒りで我を忘れさせるのだが、族長はまったくの無駄死にといっていい。
ちなみに、原作ではトルメキアが谷を占領するという展開はなく、ジルは腐海の毒による病いで息を引きとる。
疑問といえば、なんでユパさまはモヒカンなのか?というのもあるが(しかもヒゲと色違い) ^_^;
この映画では巨神兵をめぐるトルメキアとペジテの争いがその後の戦いのそもそもの発端なのだが、巨神兵とはいうまでもなく「核兵器」のメタファーである。
「あんなものにすがって生きのびてなんになろう」という大ババさまの台詞もある。
米ソ冷戦時代の80年代、核のメタファーとしての「最終兵器」はしばしばフィクションのなかに登場した。
宮崎駿もまた「未来少年コナン」のギガント、『ラピュタ』のロボット兵や“インドラの矢”など、たびたびその作品のなかに魅力的な超兵器を登場させてきた。
それらに共通しているのは、世界を滅ぼす力を有していながらそれを最大限に発揮する前にもろくも潰えてしまうことだ。
あの当時、宮崎駿にはあきらかに巨大な破壊力をもつものへの畏れとあこがれ、その滅びの美学の表現にこだわりがあった。
「旧世界の怪物」である巨神兵もまた、肉体が完全に復活しないまま駆り出されて王蟲の大群にプロトンビームを放つが、やがて崩れ落ちて化石となってしまう。
クロトワに「腐ってやがる、早過ぎたんだ」といわれ、クシャナからは「どうした、それでも世界でもっとも邪悪な一族の末裔か!」と過重労働を強いられてけなげに命令に従うその姿が目に焼きついて、よくお風呂場であの「ん゛ん゛お゛お゛お゛」といううめき声の真似をしていた。
この巨神兵を描いていたのが「エヴァンゲリオン」の庵野秀明だったというのは有名な話。
そういう意味でも、巨神兵はじつに「アニメ史的」な存在だったのだ。
先ほど「ナウシカが救世主として描かれている」「物語が単純化された」と書いたけど、この映画は別に“奇跡”ですべてが丸くおさまるわけではない。
クシャナやクロトワは「悪役」として最後に倒されるわけではないし、トルメキアが滅びるわけでもない。
“奇跡”によって生き返っても、ナウシカにはこれからも果たさねばならない多くの役目がある。
エンドロールで船に乗って本国へ還るクシャナたちの姿が映る。
物語は終わっていない。
風の谷で凧に乗る練習をする幼い子どもたちのなかから、第2のナウシカが生まれてくるのかもしれない(原作ではナウシカのあとを継ぐ少女が登場する)。
単純なハッピーエンドとはいいがたい深い余韻。
この映画は、劇中では描かれていない背後の物語を想像する楽しさにあふれている。
何度もいうが、この叙事詩的アニメーション映画は宮崎アニメのなかでも特別な作品である。
汚染された腐海の底で大気と大地の浄化がはじまっていた、というこの映画の逆説を宮崎駿はまたしてもその後原作漫画でくつがえしたが、すでに書いたように、僕は宮崎駿のアニメは好きでも彼の「世界」についてのゴタクには興味がないので、アニメ版の美しいラストにこそ賞賛を送りたい。
というか余計なお世話だけど、環境問題や地球がどーのこーのというんだったら、その前に宮崎監督はまずタバコをやめるべきだ。
かつて映画『風の谷のナウシカ』といえば名作の誉れ高い作品だったし、アニメーションにとどまらず日本映画のなかでも特筆されるべき存在だったが(大袈裟ではなく当時の映画史の本のいくつかにはそのように記されていた)、最近では意外と冷めた感想も見受けられる。
公開からずいぶんと年月が経ったし、80年代を知らない人も多い。
あの当時に思い入れもなにもない人たちが冷静に、あるいは無知ゆえに(と、あえていわせてもらう)作品にあれこれツッコミを入れているのを見るとまとめて巨神兵のビームでなぎ払ってやりたい気分にもなるが、それでも優れた作品は今後も時代を越えて残っていくのだと信じたい。
ナウシカという少女はまぎれもなく80年代のアイコンだと思う。
ナウシカは「オデュッセイア」に出てくる島の娘ナウシカァと「堤中納言物語」の“虫めづる姫君”がモデルとなっているが、彼女は少女であり、また母のように皆を包み、ときに荒ぶる巫女でもある。
ナウシカは宮崎駿が描く「少女」の代名詞として語られてきたし、しばしばそれは批判の対象にもなったが、ほかの宮崎アニメのヒロインたちと彼女が決定的に違うのは、いつもなら少女を守るべき「少年」の役割をもみずから担っていたことだ。
師であるユパや城おじたちに支えられながらも、彼女は独りきりで世界と対峙する。
まさしく神話的なキャラクターなのである。
宮崎駿が描いたナウシカのイラストをながめていると、はるか未来に生きているはずの彼女がとても懐かしく感じられる。
僕は自分が彼女の年齢である16歳を越えたときにそれを意識したし、そのことにはなにか一抹の寂しさすら感じたのだった。
ナウシカは僕の少年時代のある部分に格別な場所を占めている。
そんなキャラクターはほかの宮崎アニメではいなかったし、それ以外の作品でももちろんいない。
かつてアニメ『白蛇伝』を観てヒロインの白娘(パイニャン)に恋をしたという宮崎駿のように、僕は天翔る鳥の人「姫姉さま」に恋をしていたのかもしれない。
※ユパ役の納谷悟朗さん、ミト役の永井一郎さん、クロトワ役の家弓家正さん、ギックリ(城おじ)役の八奈見乗児さんのご冥福をお祈りいたします。
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