ステイン・コニンクス監督、セシル・ドゥ・フランス主演の『シスタースマイル ドミニクの歌』。
2009年のフランス=ベルギー映画。日本劇場公開2010年。
1959年のベルギー。パン屋を営む両親とともに暮らすジャニーヌ・デッケルスは、「生きる意味」を求めて修道院に入る。そこでギターを奏でる彼女の歌声が注目されてレコード・デビュー。ここに“歌うシスター”が誕生した。
“スール・スーリール(La Soeur Sourire)”=“シスタースマイル”、またの名を“ザ・シンギング・ナン”=“歌う尼さん”の実話にもとづく映画。
全然かんけーないけど、そーいや昔、モンティ・パイソンのエリック・アイドル主演で『ナンズ・オン・ザ・ラン 走れ!尼さん』ってコメディ映画があったっけ。
一瞬思い出したんで書いただけですが。
シスタースマイルことジャニーヌが歌う、ドミニ~ク、ニク、ニク♪という歌詞の歌「ドミニク」は聴き覚えがある。
ご本人が歌う「ドミニク」(1963)
www.youtube.com
どこで聴いたのかは忘れちゃったけど。
まぁそれだけ有名な曲だということですね。
いろんな人にカヴァーされてもいる。
主演はクリント・イーストウッド監督の『ヒアアフター』で、大津波に遭って人生観が一変するフランス人ジャーナリストを演じていたセシル・ドゥ・フランス。
こちらが本物のジャニーヌ・デッケルスさん。
映画ではかなり美化されておりますが。
よーするにこれはベルギー版『天使にラブソングを』か(って、ちゃんと観てないけど)?などとハートウォーミングな映画を想像してたら、まるで違った。
以下、ネタバレあり。
前半では、ジーン・セバーグみたいな短髪“セシル・カット”のおてんば娘ジャニーヌが自由を求めてたどり着いた修道院での生活が描かれる。
映画では、ジャニーヌはとにかく直情的で思い立ったら即行動、負けん気が強くてしかもかなりの気分屋というふうに描かれている。
良くいえば快活で物怖じしない、悪くいえば短気で世間知らず。
仲の良いピエールと一緒に家族と食事するはずだったのに、友人のアニーの家に外泊してせっかく母が作ったごちそうを無駄にする。
古典的な女性像、家族像を守り、娘が結婚して店を継ぐことを望む母親と、それに反抗する娘。
実にわかりやすい構図ではある。
この映画では一見すると古い考えにとり憑かれた母親が悪者みたいに見えるが、とにかくジャニーヌは必死に両親を説得しようと努力することもなく相談もせずに思いつきで行動するので、母親のとまどいや怒りはもっともである。
逆に娘の味方のような父親は、一方で必要なことを言葉で表わさずに父親らしい厳しさを一切見せないことで、妻に父親のかわりをさせているところがある。
母が娘の主張を鼻であしらうのは、娘がいつもいうことをコロコロと変えて、自分で宣言したことを何一つ実行しないからだ。
そしてジャニーヌは今度は学校に行くのもやめて、一緒に住んでいる従妹のフランソワーズとアフリカで貧しい人たちのために働く、という目標も反故にして修道院に入る。
そもそも「自分を表現したい」などと思っている人間が修道院に入ること自体が間違っているんだが、本人は大真面目。
ちなみに映画では、アニーがいる美術学校の入学試験を受けるのをやめて修道院に入った、ということになっているが、実際のジャニーヌさんはちゃんと美術学校に行って、のちに美術の教師になっている。
それがなんで尼さんになろうと思ったのか。
これまた実に唐突な行動だが、しかし人生の指針が定まらなくて「神」に行き着く、というのはよく理解できる。
自分の人生の柱となるもの、自分を導いてくれるものがない人間は、ときに宗教に走る。
ジャニーヌの友人で彼女と最期までともに過ごした女性アニー役に、同じくベルギーのジャコ・ヴァン・ドルマル監督の『トト・ザ・ヒーロー』(感想はこちら)で主人公の姉アリスの少女時代を演じていたサンドリーヌ・ブランク。
あぁ、またこんな幸薄げな役を。
筋肉質で健康的な体躯のセシル・ドゥ・フランスに比べて、サンドリーヌ・ブランクの折れそうなか細い身体を見てたら、なんともいえない気持ちになった。
修道院で毎日の日課をこなしながら鼻歌まじりに作曲するジャニーヌ。
どこまでも常識破りで破天荒。
で、見習いの身でありながら自己主張が激しいためにことあるごとにシスターたちとぶつかってブチギレる。
ジャニーヌに厳しく接するヴェテランのシスター役に、やはり『トト・ザ・ヒーロー』で主人公の母親を演じていたフェビエンヌ・ロリオー。
いろいろトラブルは続きながらも、自分が作曲した「ドミニク」を他の修道女たちと一緒に歌ったり、最長老の“マザー”が歌に理解があったりと、このままうまくいけばみんなで合唱して大団円、みたいな楽しい展開になりそうな雰囲気。
「ドミニク」は大ヒット。修道院にマスコミが押し寄せて、「シスタースマイル」は一躍時の人となる。
憧れのプレスリーに並んだ、とまで持て囃される。
しかし、やがて「現実」がジャニーヌの前に立ちはだかるのだった。
ジャニーヌは癇癪をおこして修道院をやめる。
彼女の行動は一事が万事こんな具合である。
計画性というものがない。他人の迷惑など考えてもいない。
アニーとともに暮らしはじめるが、またしても癇癪をおこして引き止める彼女をおいて家を出る。
念願のツアーが実現するも、修道衣の“コスプレ”を脱げば彼女はただの人。
“シスター”でない彼女に興味を示す者はいない。
そんな状況でも自分の才能を信じて疑わない勘違いぶりがイタ過ぎる。
修道女だったことなどおかまいなしに酒を呑みタバコを吸って、気分がノれば男とも寝る。
愛嬌があってハスッパな魅力のかげにかくれて目立たなかったが、ジャニーヌの中に最初からあった問題点が次第にあらわになっていく。
彼女が両親と決裂したあとも従妹のフランソワーズはジャニーヌを慕い、アニーも彼女を愛するが、自分を大切に想ってくれた人たちに対して、ジャニーヌは冷たい。
ピエールに対しても、必要なときだけ彼を利用する。
それでも彼女にとってうまくいっているうちはよかったが、やがてこれまでやりたいようにやってきたツケを払わされることになる。
還俗のシスターでありながら避妊ピルの歌を歌って教会から圧力を受け、ついに場末の酒場で酔っ払い相手に歌う羽目になる。
ツアーをともにまわったプロデューサーからは「君は全然自由なんかじゃない」といわれる。
ツアー先のカナダからほうほうのていで戻ったジャニーヌが、彼女が修道院に入るきっかけを与えた神父と交わす会話に、この映画のいわんとすることが集約されている。
ジャニーヌはここで本音を洩らす。
「人を愛せない」と。
彼女は本当に「神」を求めたのだろうか。
ジャニーヌは神のための歌を歌ったが、つねに信仰に揺れている彼女に僕はとても共感をおぼえた。
彼女は自分では本気で神を信じているつもりだったのだろう。
そして神に近づくために努力したと思っている。
しかし、やはり最後の最後までジャニーヌは「自分」を捨てることができなかった。
誰かのためではなく、あくまでも自分のために生きた。
…それのどこが悪い?
この『シスタースマイル』を観ると、ジャニーヌは一発当てたあとすぐに落ちぶれて若い命を散らしたように思えるが、実際は亡くなったのは1985年なので、1933年生まれの彼女は享年51。
残念ながらみずから命を絶ったわけだが、それなりにしぶとく生きたのだ。
カトリック(というか、キリスト教全般にいえるが)では自殺は罪なので、彼女の人生の締めくくり方自体がキリスト教に対する反抗のようなものである。
わがまま娘が好き放題やって身を持ち崩して勝手に死んだだけ、といえばそのとおりかもしれない。
でも僕はこの実に魅力的で、なおかつどうしようもなく愚かな女性を憎めない。
あなたとともに旅立とう 命が果てるまで
今こそ旅立とう 永遠の世界へ
ジャニーヌに「わたしを見捨てないで」と泣きついていたフランソワーズがアフリカで人々のために生きる夢を実現させたラストにおいて、この映画の作り手が本当に大切な生き方とはなにかを意識したうえで、わが道を歩んだジャニーヌに寄り添ってきたことがわかる。
彼女はけっきょく誰のために生きたのか。
やはり自分のため?
それとも、彼女の歌を聴いてくれた人々のためだろうか。
あるいはいつも自分とともにいてくれたアニーのためなのか。
人の人生において、何が正しくて何が間違っているのか、それは一概にはいえない。
かりに人からはどんなに愚かな人生に見えようと、一番大切なのは「直感にしたがって生きること」。
悔いのない人生を送りたいものだ(…って、私の人生は後悔だらけですが(ノ_-。)。
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