園子温監督、染谷将太、二階堂ふみ出演の『ヒミズ』。2012年公開作品。PG12。
サミュエル・バーバー「弦楽のためのアダージョ」
この曲はオリヴァー・ストーン監督の『プラトーン』でも有名。
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自分を捨てて男と消えた母親(渡辺真起子)の残した貸しボート屋に住む15歳の住田(染谷将太)。ときどき姿をあらわしては暴力を振るい「お前、いらねぇんだよ」という言葉を吐いていく“クズ”の父親(光石研)を殺した彼は、世のなかのクズどもを始末するために町を徘徊する。
原作漫画は読んでいません。
なので、映画版についてだけ書きます。
それは「普通の人生」を望んでいる主人公のことでもあるようだが、映画を観るかぎりはあまり深い意味があるようには思われない。
映画館で予告篇を観た時点で「これは観なくていい映画だな」と判断した。
子どもを虐待する親。暴力。
ウンザリだ。映画館で金払ってそんなもん観たくもない。
加えてこの映画で、東日本大震災直後の被災地にロケ撮影に行った、みたいな話を聞いて、ヘドが出そうになった。
そこまでして「映画」を撮らなきゃいけないのか?
“たかが”作り物の映画のために、現実に何万人もの人々が亡くなった場所でなにしてんの?と。
1999年に公開された手塚眞監督の映画『白痴』に、戦災で一面焼け野原になった町で場違いにもほどがあるファッションモデルたちとカメラマンが撮影しているという、鬼畜のような場面があったのを思い出した。
『白痴』 原作:坂口安吾 出演:浅野忠信 甲田益也子 橋本麗香 草刈正雄
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「“美”のためならなんでも許される」という、クリエイターもどきどもの思い上がり。
そんな映画はぜったいに観ることはないと思っていた。
でもおなじ園監督の『恋の罪』をDVDで観て、なんだかもう、この監督の力技に魅了されてる自分がいた。
好きか嫌いか、と問われれば、迷うことなく「嫌い」と答える作品ばかりを撮っているこの監督の、それでもどうしても否定できない業績を挙げるとすれば、それは俳優から“最高の演技”を引き出していること。
嫌いだろうがなんだろうが、その実力は認めざるを得ない。
役者が大声を張り上げて涙を流す。
正直、僕が一番ニガテなタイプの演技だ。
そういうあざといオーヴァーアクトはほんとに見苦しいので。
しかし、この映画の染谷将太と二階堂ふみのリアル10代コンビに、僕は涙を禁じえなかった。
彼らふたりがともにヴェネツィア国際映画祭で新人賞を獲ったのもおおいにうなずける演技でした。
今回はちょっと冷静に感想書けないかもしれないなぁ。
それぐらい主人公に入り込んでしまって。
呑んでたせいもあるけど。
以下、ネタバレあり。
まず、予告篇はなにやら深刻な親子間の問題を描いているように編集されてるけど(そのせいで観る気が失せたんだが)、じつは「苛酷で荒廃した家庭環境」というのはこの映画の本題ではない。
何度も執拗にくりかえされる父親の「お前、ほんとにいらねぇんだよ」という言葉は、主人公自身の心に刻み込まれた言葉でもある。
つまり、「この世に自分など不要」だと感じている者の物語だということ。
これは主人公・住田の脳内ディスカッション・ドラマである。
殴られても住田にまとわりついてつねに彼を心配し、最後まで添い遂げようとする同級生の茶沢(二階堂ふみ)は、精神的に追いつめられた少年の“良心”であり、また彼を捨てた“両親”の代わりのような存在である。
あきらかに彼女が自分に好意をもっていることを知りながら、住田はちょっとありえないぐらい茶沢に対して突き放した態度をとる。
もちろん、押しかけ女房的に距離を詰めてくる茶沢がウザい、というのはわかるが(たしかに映画がはじまってしばらくはその不思議ちゃんぶりに、この人はアレな人なのか?と非常にイラつかされた)、住田がそんな彼女に暴力を振るいつつもけっして性的な乱暴をはたらかないのは、そこになにか現実の男女の関係を超えたものがあるからのように思える。
住田を演じる染谷将太と茶沢を演じる二階堂ふみの顔が、まるで双子の兄妹のように見えるときがある。
住田のまわりにいるホームレスたちも、まるで彼の心のなかのいくつもの声のようだ。
そのように僕は解釈した。
だから、たとえばいいようのない怒りを抱えている者、本気で殺してやりたい奴がいる者、ヤケをおこしてしまったことがある者、自殺しようとしたことがある者などは、住田の姿に自分の分身を見るのではないか。
ちょうど、住田が突然人々を襲う通り魔たちに自分を見たように。
あの通り魔たちの描写にはいいようのない恐怖を感じた。
あれは、いままさに僕たちの身のまわりで起こっていることだ。
両親から捨てられた、というあまりに苛酷な環境にありながらも、住田には住む家があってそこでゆっくり眠っていられるし、経済的にほんとうに困窮しているようには見えない。
そういう部分ではまるでリアリティがない。
だから、これは特殊な環境におかれた人の話ではなくて、自分は「モグラのように普通に生きている」と思い込んでいる僕のような、あるいはあなたのような人間の物語である。
一方で、暴力を振るう父親にも、ヤクザにさえいっさい媚びない住田のぶっきらぼうな物言いには、妙な爽快感もある。
染谷将太は、そんな少年をわざとらしさのない自然体で(しかしそれはじつに巧みな演技力を要するものだと思うが)演じている。
また二階堂ふみは、相当不自然な台詞を吐きつづけるこのエキセントリックな“茶沢”というキャラクターを、ほとんど彼女自身なのではないかと思わせるほどみごとに肉体化してみせている。
どしゃ降りの雨のなか、セーラー服姿でパンツ丸出しにしてゴロゴロと土手を転がっていく姿が可愛すぎる。
なんともいえない若々しいエロスを感じました。
“ヒミズ”とはモグラのことだそうだ、と最初に書いたけど、モグラの逸話というと、僕はふとアレハンドロ・ホドロフスキー監督の『エル・トポ』(感想はこちら)を思い出す。
あの映画の冒頭で、モグラは太陽の光をもとめて地面に出るが、その光で失明する、というナレーションが入る。
事実かどうかというよりもこれはひとつの寓話で、映画では主人公は太陽のもとに出た人々とともに大地にくずおれる。
『ヒミズ』では、主人公に最後に救いをあたえている。
茶沢は住田に「自殺するなんていわないで」とうったえかける。
住田はヤクザ(でんでん)に手渡されたピストルをもって池に入っていく。
銃声。
でも僕はこのとき確信があった。
彼は死んでない。かならず茶沢の前に姿をあらわすはずだ。
いや、そうあってほしいと強く願った。
大震災のからめ方が強引すぎる、茶沢の家庭が異常すぎ(しかも映画の本筋と関係ないし、回収もされない)、窪塚洋介が演じてたスリの男って、別に夜野(渡辺哲)に手伝わせなくたって自分一人で金盗めたじゃん(じっさい夜野は足手まといなだけでなにもしてない)etc.あきらかに無理があったり要らない描写もいくつかある。
後半になるととにかくずっと泣きながら作り手のメッセージを台詞で語りつづける茶沢さんにも住田君にも、多分シラフで観てたら耐えられなかっただろうと思う。
それがアルコールのおかげもあってか理屈を越えたところで彼らの叫びが胸に響いたのだった。
それはきっと住田のなかにある鬱屈や怒りにおぼえがあるからだ。
「自分で自分のルールにしばられて息苦しくなっている」という茶沢さんの言葉には、「たしかに」とも思う。
結婚しよう、という茶沢に、住田は何度も「でもそのうち茶沢さんは大学生を好きになる」という。
彼女の言葉を何度も否定する。
「自分はこの世のなかに要らない人間だ」と思った者は、そうやってみずからの幸せを否定してみせる。
なまじ希望をもって、それをうしなうのが怖いからだ。
茶沢が自分の部屋の壁に貼っていた「住田語録」のなかにも、「失望」についての言葉があった。
これはそんな「傷つき、これ以上失望することを怖れる人」への園子温からのエールだ。
震災をからめたことで、「バカにしてるにもほどがある」と怒りをおぼえた人がいることも知っている。
あの表現が作品としてほんとうにふさわしかったのかどうかはおおいに疑問もあるし(最初に書いたように、「画になるから撮った」という安直な印象が払拭されたわけではない)、さまざまに議論されていいと思います。
個人的には劇中であつかわれていた震災や原発のニュースなどは完全に蛇足だったと思う。
そのためにまるで被災者のかたがたにむけてメッセージを発しているように誤解される作りになってしまっているから。
どう見ても主人公やヒロインの抱える問題や彼らの苦しみは震災とは直接関係のない話で、そこに強引に震災をねじ込んだような印象を受けました。
それでも、錯乱しながら「俺は誰なんだ!」と叫ぶ通り魔の男の姿に慄然としていた住田は、震災では直接被災していない「普通の人生を送っている」はずの僕自身でもあった。
きっと園監督もそうだったのだろう。
凶悪な犯罪や悲惨な事故が多発している現在だからこそ、それをなおさら意識する。
ここでは、なんの前触れもなくある日とつぜん被害者になってしまう恐怖だけでなく、いつなんどき自分が他者を傷つけ殺してしまう“加害者”になるかわからない恐怖が描かれている。
あの震災の瓦礫は、そういう多くの人々の不安や絶望感がうずまく心象風景として使われている。
「がんばれ!」といわれて「うるせーよ」と思う人もいるだろう。
どちらかといえば僕もそういうタイプだ。
映画の冒頭で教師からいわれて住田が感じたように。
あの教師の、いってることは間違ってはいないのかもしれないが(けっして単なる“嫌な教師”として演出されていないのがいい)、その言葉遣いのひとつひとつに押しつけがましさを感じて反発をおぼえたくなるのはじつによくわかる。
でもラストの茶沢さんの「住田がんばれ」にはそれを感じなかった。
それは、映画の作り手が上から誰かを励ましているのではなく、自分自身にむかっていっているように感じられたから。
「嫌い」といいながら、僕にとって園子温の映画が気になる存在になっていることはたしかなようだ。
今回この作品を観て感じたのは、僕はこれからも園子温監督の映画は映画館じゃなくて家でひとりで観たいな、ということでした(だから最新作の『希望の国』はDVDを待ちます)。それも呑みながら。