映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

もう一つのブログとともに主に映画の感想を書いています。

『ALWAYS 続・三丁目の夕日』


※以下は、2007年の劇場公開時に書いた感想です。


山崎貴監督、堤真一薬師丸ひろ子堀北真希ほか出演による大ヒットしたノスタルジー映画の続篇『ALWAYS 続・三丁目の夕日』。2007年作品。

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Bump Of Chicken - 花の名
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昭和30年代の架空の町、夕日町を舞台に、小さな自動車修理会社の一家や向かいに住む小説家志望の青年たちなど、人々の悲喜こもごもな毎日を描く。

ネタバレあり。


冒頭に登場する巨大な特別ゲストの登場は愉しく心地よかったが、それを観ながら思ったのは、やはり“彼”が活躍するあのジャンルももはや現在においては「時代劇」としてしか成り立たないのではないか、ということであった。

前作ではかつて手塚治虫が描いたような透明なチューブの中を走る車や超高層ビルが建ち並ぶ「存在しなかった未来」の風景が登場したが、僕はこの正・続二本の映画を観終えて、これらは「存在しなかった過去」を描いたものなのだと解釈した。

淳之介(須賀健太)の実の父親・川渕(小日向文世)の言葉は、まるでこの映画に向けて吐かれるツッコミのようになっている。


茶川(吉岡秀隆)が書いた小説を読んだ川渕はいう。「願望だな」「甘い。実に甘い。現実はこうはいかんよ」。

この映画の中で“とんだ悪役”を割り振られた彼は「金よりもっと大事なものがあるんだ」と淳之介を引き渡すことを拒む茶川の前にたびたび現れて、夢を見続けようとする僕たちに冷徹な現実の認識を迫る。

今回は全篇に渡って「金」の存在が前作以上に強調されている。

この川渕と茶川のやりとりが興味深かった。

もはや単なる子どもの扶養能力についての会話を超えて、観客がみんなして涙するこの映画の「懐かしくて暖かい世界」そのものを揺るがせるかのような素振りで、このまま突然セットが崩れて「全部ニセモノなんだ」とメタ映画みたいな展開になる期待すらした。

が、もちろん娯楽映画だからそんな寺山修司みたいなことはやらない。

少年の夢は叶い、夢の世界の住人たちに現実の厳しさを知らしめたはずの男は最後に「いいんだ」と言って立ち去る。しかし残念ながらこのヴァーチャル・ファンタジー映画の中で、小日向演じるこの「大人」が一番説得力があった。

小雪演じるダンサーと茶川、そして淳之介の三人の疑似家族はお互いに必要とし合っており、それはもうクドいぐらい劇中で強調されているので、そんな小雪の前にインチキ関西弁の渡辺いっけいが現れて彼女を金の力で手に入れようとしたって、そこに「もしや…」という懸念など生じ得ない。


小雪は劇中お約束みたいに涙を流して幸薄き女を演じてはいるが、ハッキリ言って『ラスト サムライ』での役と区別がつかない。

肝腎の彼女が一体何を考えているのかその描写が極端に少ないので、日々の生活の苦しみは形だけのものに感じられ、「私なんかがここにいたらいけない」などという台詞が大変空々しく聞こえてしまう。

この映画は、最初から多くの観客も「ファンタジー」とわかった上で観ているのだろう。それはかまわないが、「互いを必要とし合っている人たち」とか「人の温もり」の存在すら“所詮ファンタジーではないのか?”と疑わせてしまいかねない危うさを感じた。

合成場面が前作より大雑把に見えたのも気になった。

数々の「なんだか懐かしげな風景」の前での芝居が連なるが、けっこう乱暴な合成カットも見受けられて、思わず俳優の後ろに広げられた合成用のブルーバックやグリーンバックが頭の中で見えてしまい、かなり気が散った。前作ではもうちょっと丁寧にやってたように思うのだが。

ささやかな泣かせどころとしてまたしても「夢オチ」があるのも、この映画の作り手たちが実はかなり醒めた目で映画を作っているのではないか、と思わせた理由の一つだ。

僕はこの二本の映画に描かれた世界は、どこかの名もなき哀しい人間が見た束の間の「幻」なのではないかと思った。

消えていったモノ、死んでいった者たちはいつまでも美しく「おもひで」の中に生きている。人生は苛酷で生き続けるのは苦しい。

僕にだって「現実的な金」より大事なものはまだある。しかしそれもまたスクリーンの向こうの幻影となる時がいずれ来るだろう。

「映画」が“現実にはけっして存在し得ないもの”も描くことができる夢の装置なら、この作品はその役割を十分に果たしているのかもしれない。


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