園子温監督、神楽坂恵、冨樫真、水野美紀出演の『恋の罪』。R18+。2011年作品。
21世紀直前の東京。渋谷円山町のラブホテル街の一角で女性の切断された遺体が発見される。現場の古アパートの壁には赤い字で「城」と書きなぐられていた。作家の妻いずみ(神楽坂恵)は貞淑な妻を演じつづけることに疲れ、町で出会った男カオル(小林竜樹)とベッドをともにする。しかしポン引きだったカオルにだまされて美津子(冨樫真)という女性と知り合い、彼女から売春の手ほどきをうけることになる。
昨年、園子温監督の『冷たい熱帯魚』(感想はこちら)を観て、でんでんの怪演とグロ描写に瞠目させられて面白かったけど、まぁこういうのはもういいかな、と思っていた。
でも今回のこの映画はエロティックな作品ということで、しかも水野美紀が脱いでるというんでちょっと興味をそそられたんだけど、公開時には観られず。
ようやくDVD借りてきました。
グロ度は抑え目だけど、しょっぱなから蛆のわいたバラバラ死体が出てくるんで、やはりそういうのが苦手な人はご注意を。
以下、ネタバレあり。
まず、題名の意味がよくわからない(サドの短篇集のタイトルからとったそうだが)。
ストーリーに「恋」はまったくからまない。
「言葉の意味」というのがキーワードになっているので(そのあたりも正直よく理解できていないのだが)、なにか謎かけめいたものを感じなくもないが。
「セックスの相手に愛情をもっていないなら、かならず金をとれ」という美津子の言葉のように、これはむしろ「恋」や「愛」の介在しないセックスを描いた映画である。
宣伝では水野美紀が主役のようなあつかいになっているが(出演者のなかで一番メジャーな女優だから無理もないが)、彼女が演じる女性刑事はいわば映画の進行役で、主人公は神楽坂恵演じる有閑マダム。
浮世離れした小説家の夫(津田寛治)が留守のあいだ暇をもてあました主婦がバイトをはじめ、そこからずるずると夜の女へと変貌していく様子が描かれるのだがこれがまたあいかわらず安い展開で、『冷たい熱帯魚』でもでんでんにおっぱい揉まれて悶えていた神楽坂恵が、ここでも操り人形のように男たちに手玉にとられていく。
「昔のAV女優みたい」と評している人がいて笑ったんだけど、まさにそんな感じ。
『冷たい熱帯魚』でも感じたことだが、園子温作品でなにが不快って、それは登場する男たちの加虐性と、対する女性たちのひたすら受身な態度だ。
男から「お前は俺の女だ」といわれて抵抗できない女性刑事、夫に献身的に仕えて、その欲求不満をゆきずりの男との性行為で晴らす妻、父親にゆがんだ執着心をもち、やがて娼婦という裏の顔をもつようになる大学助教授。
紋切り型の「男に支配されている女たち」。
「AV的」に思えるのは、そういう男たちからの一方的な願望や幻想を反映した女性ばかりが出てくるから。
それはちょっと、僕が石井隆の映画などにも感じる不快感に似ている。
こういう一種の「男の支配欲」の表出みたいな話を描かれると僕はかえって男の不全感のあらわれのように受け取ってしまうのだが、「女」を“聖母”と“娼婦”に二分するような園監督の女性観には「あぁ、またこういう感じか」と流して観ることにした。
水野美紀が演じる女性刑事は、夫や娘がいる身ながら変態的な愛人(児嶋一哉)と付き合っている。
そして惨殺死体の身元を捜査していくうちに、いずみがかかわった事件にたどり着く。
ラストは後輩刑事がいっていた、ゴミ収集車を追いかけるうちに失踪した主婦のエピソードとおなじ状況で終わる。
彼女とアンジャッシュ児嶋演じる愛人との関係がどうなるのかは、映画が終わってもわからない。
この女刑事のパートはいまいちピンとこなかったが、話としては、彼女がいずみと、白昼の路上で自分を刺した女が美津子と対になっているのはわかる。
んで、肝腎の水野美紀のヌードは最初にほんのちょっと出てくる。おっぱいも毛も出してる。
まぁそれだけ。
裸なら神楽坂恵の方が長々と映しだされるしスタイルもいいので、さほどありがたみはない。
水野美紀もアスリート体型の身体を張ってがんばってたとは思いますが。
だから即物的な「エロ」を期待して観た僕としては「もっとハダカを!」って感じでしたが、でも映画はそれなりに面白かった。
ストーリーに関しては観る前にはまったく予備知識がなかったので、この映画がサイコサスペンス調ではじまると「おや?」と。
壁に書かれた「城」という文字。
それはカフカの小説「城」からとられていて、ラブホ街で白いコートの男カオルがいずみに語る言葉のなかに出てくる。
みんな城のまわりをぐるぐるまわっているだけ。けっして城にはたどり着けない。
「城」は読んだことないけど、なんとなく云わんとしていることはわからなくもない。
昼は大学で教鞭をとる美津子が読む詩「帰途」(作:田村隆一)の内容とそれを解説する彼女の台詞となると、もうなんのことだかさっぱりわからないが、それでも「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」とくりかえされるフレーズは妙に耳に残る。
園監督は詩人でもあるそうだからなんかそういうポエティックなものをもってきてるんだろう、と無知ならではのテキトーな解釈をしておく。
「言葉」は「肉体」をともなってはじめて実感がわく。
よーするに、言葉をおぼえるだけじゃなくて身体で実践してみろ、ってことかいな。
そんなわけで、自分の人生になにやら疑問を抱きだしたらしいいずみは、美津子のレクチャーによって売春の道を歩みはじめる。
美津子の“講義”から、いずみは「男たちはただでヤラせる女よりも、金を要求する女の方をさげすむ」ということを知る。
これは男女の立場の違いを明確にあらわしている。
「ただの女」は男にとっては都合のいい存在だが、女性から見れば愛してもいない男とただで寝るのは自分を大切にしていないと映る、というわけ。
この作品は「東電OL殺人事件」と呼ばれるじっさいにあった事件をもとにしている。元被告のネパール人男性が無罪になってニュースでも取り上げられていた。
この映画の、エリートの女性が売春をしていて何者かに殺害された、という部分とその現場である円山町を舞台にしていること以外はフィクションである。
映画では、被害者の女性は一流企業の社員から大学の助教授に変更されている。
現実の事件を下敷きにした映画、というと『冷たい熱帯魚』もそうだったし、内藤瑛亮監督の『先生を流産させる会』(感想はこちら)なども思い浮かぶ。
一見すると人や世情をネタにしたそのやり方(園監督の最新作は原発をあつかった『希望の国』。僕は未見)は軽薄に感じられて、興味本位の下賎な商売にも思える。
しかし、映画というのはそもそもが見世物小屋の出し物がはじまりだったわけで、つまり扇情的でいかがわしいものだったのだ。
園監督はその正当な後継者ともいえるのではないか。
彼の映画が妙に人気が高いのは、下品なもののなかに“美”を見いだそうとする“詩人”としての姿勢があるからではないか。
美津子の母親は、彼女のことを「生まれながらに下品」といってさげすむ。
家柄が良かったという母親は、若気の至りで身分違いの夫と結婚して美津子を産んだ。
美津子は下劣な夫の血を受け継いでいるから「下品な娘」なのだ、と。
これはなにをいっているのだろう。
やがて美津子は父に近親相姦的な敬慕の念を抱いていたことが語られ、母親が娘を憎むわけがあきらかになるのだが、そのへんのエログロナンセンス的な猟奇趣味は僕には正直どうでもよくて、それよりもいつしかここに「女=映画」という構図を当てはめて観ていた。
念のためにおことわりしておきますが、これらは「もののたとえ」ですので誤解なきよう。
そもそもこれは「女性を描いた映画」なのか。
ここで描かれている「堕ちていく女」は、なにを意味しているのだろうか。
園子温という人はどうやら父親との関係になにがしかの強迫観念をもっているらしく、『冷たい熱帯魚』でもでんでんにそれらしきことを語らせていた。
だから、この映画には監督自身の父親へのこだわりがこめられてもいるのではないか。
つまり、これは園子温が女優の姿を借りて父を追い求め、男たち相手に売春してみせる映画と考えることもできるのではないかと。
想像するだにウゲェッとなるが。
でもそういうふうに考えると、さっきの『先生を流産させる会』もそうだけど、男性の映画監督が女性を主人公にして映画を撮るという行為がなんとも奇妙で興味深いものに思えてくるのだ。
女性が撮る女性と男性が撮る女性はどこが違うのか。
ちょっと前に公開された蜷川実花監督、エリカ様主演の『ヘルタースケルター』は僕は未見だけど、純粋にこの『恋の罪』と比較してみたい気はする。
僕にとってこの映画を観て一番の収穫だったのは、冨樫真という女優さんの存在を知ったことだ。
おもに舞台で活躍している冨樫真は、フィルモグラフィを確認すると僕がこれまでに観た何本かの映画に出演しているけれど、ハッキリ認識したことはなかったのでほぼはじめて見る人といっていい。
この映画のもうひとりの主人公といえる美津子を演じる冨樫さんは、ここでまさに“熱演”といえる体当たりの演技をみせている。
すっぴんに近い薄化粧のときはちょっと深津絵里をおもわせる丹精な顔立ちで(この二人は同い年でもある)、これが目張り(^^)のバッチリ入った「夜の顔」になると雰囲気がガラッと変わる。
声も猫なで声からドスの効いたハスキーヴォイスに瞬時に切り替わる。
もっとも化粧の有無でキャラが替わるというわけではなくて、この美津子という登場人物は昼間の大学でも学生相手にただ同然の金で(しかしどんなに安くても金はとる)身体を売っている。
基本的には完全なビッ○である。
僕はいわゆる“熱演”というのに対してちょっと複雑な気持ちをもっていて、青筋立てて大声張り上げたり裸体をさらしたりすることが「熱演」というのなら、ほんとうの意味でそれは「巧い演技」といえるんだろうか、という疑問があるのだ。
ただ、それは演技があまり達者でない俳優が「無理してがんばってやってる」のがわかるからそう感じるんであって、やはり「巧い役者」が演じていればそれは素人にはできない「芸」を観ている興奮を味わえる。
それを今回の映画でも感じたのでした。
演劇畑の俳優の演技は、演出方法を間違えると非常に大仰でわざとらしいものになりがちだけど、園監督はそのあたりの塩梅を心得ているようで、冨樫真の演技には圧倒されるようなパワフルさと繊細さとがあり、惹きこまれる。
冨樫真という女優の演技を見られたということだけでも、僕はこの映画を観た価値がじゅうぶんあったと思う。
同様に、美津子の母親役の大方斐紗子のおだやかな口調でありながらまぎれもない狂気をはらんだ演技なども、まさにしっかりとした演技の下地があるからこそ可能な“技”だろう。
また、先ほどは「AV女優みたいな演技」と大変失礼な書き方をした神楽坂恵も、この映画ではなかなか健闘している。
たしかにインパクトや演技面では冨樫真に食われ気味だが、それは彼女たちが演じているキャラクターの関係ともかさなっていて、むしろ効果をあげている。
美津子やいずみがしばしば口にする「城の入り口」とは、「救済」といい換えることができるかもしれない。
現実の「東電OL殺人事件」の被害者の女性が、一流企業のエリート社員でありながらなぜ同時に売春婦の顔ももっていたのか、どのような理由で誰に殺されたのかはわからない。
しかし、彼女が金が目当てで売春をしていたのではないことはたしかだろう。
この映画のヒロイン・美津子は「救済」を求めていた。
彼女は“死の向こう側”に「救済」があると信じた。
高貴なものともっとも卑しいものが同一視される、あるいはその立ち位置が逆転する、という物語は昔からある。
堕落と汚濁から世界をのぞいてみようとする園子温のこころみは、カラーボールのピンク色に染まった薄っぺらで安っぽい「AV的」世界観で描かれるこの物語によってみごとに達成されている。
映画のタイトルをマルキ・ド・サドの作品からとった、というのはピッタリの選択といえる。
いずみは夫に扶養されて経済的には何不自由ない暮らしをしていた家を出て、身体を売る「街の女」になる。
それは彼女が自分の意志で決めたことだ。
みずからの身体で稼いだ金は(ソーセージ売り場のバイトだって自分で稼いでいるわけだが)、たとえその金額がわずかであっても生きている実感を彼女にあたえるようだ。
男に痛めつけられて地面に這いつくばっても、彼女の表情は晴れ晴れとしている。
こうして園子温版「人形の家」は幕を閉じる。
これははたして「女」の物語なのだろうか。
それとも女の姿を借りた、もっと開かれた“なにか”を描いたものなのか。
園子温監督の映画はやっぱり予想どおりのこってり風味でした。
観るたびにぐったりする。
でも疲れながらも、『冷たい熱帯魚』のでんでん、そして今回は冨樫真と、俳優たちからすさまじいパワーの演技を引き出す彼の作品にはおおいに魅力も感じるのだ。