ジョン・カーペンター監督、ロディ・パイパー、キース・デイヴィッド、メグ・フォスター、ジョージ・“バック”・フラワー、ピーター・ジェイソン、レイモン・サンジャックほか出演の『ゼイリブ』4Kレストア版。1988年作品(日本公開1989年)。
ある街で建築現場の仕事を得たネイダ(ロディ・パイパー)は、同じくそこで働くフランク(キース・デイヴィッド)に教えられて教会の所有地にあるキャンプでねぐらと食事にありつく。深夜に教会から聴こえてきた賛美歌を不審に思ったネイダは、建物の壁の中に隠されていたサングラスで街なかでものを見たところ、世界が不気味なエイリアンたちによって支配され、人々は彼らの洗脳下にあることを知る。
『ニューヨーク1997』に続いて「ジョン・カーペンター レトロスペクティブ2022」にて劇場鑑賞。
この映画は昔「日曜洋画劇場」でやってて、青いガイコツみたいな顔の宇宙人とか延々続く取っ組み合いの場面のことは知ってたけど、僕はちゃんと観るのはこれが初めて。
面白かったです(^o^)
要するに、実はこの社会にはエイリアンたちが入り込んでいて、彼らに協力する一部の人間たちと結託して世の中を支配していた、という話。彼らエイリアンは専用の転送機でさまざまな星に自分たちを送り込んで、その星の資源を使い尽くすとまた別の星を探しにいく。
いわゆる「宇宙人侵略モノ」の1本で、知らないうちに街だったり世界中が何者かに乗っ取られていた、という話はカーパンターもリメイク版を撮っている『光る眼』だとか、あるいは『SF/ボディ・スナッチャー』など昔から数多くあるけれど、80年代末の、日本でもちょうどバブルが終わりかけの頃の物質主義や拝金主義を批判する内容になっていて、この映画が作られた当時を思わせると同時に2022年の「現在」とも大いに重なるところがあってちょっと驚きでした。
劇中でも鉄鋼業が不況でなかなか仕事がみつからない様子や、どんなに働いても金が貯まらず家族を養えなくて住む家さえも持てない人々の姿が映し出される。
一方で物に溢れた贅沢な生活を楽しむ者たちがいて、経済的な格差の広がりが強調される。
肉体労働者であるネイダとフランク(フランク役のキース・デイヴィッドは、『遊星からの物体X』ではカート・ラッセルと共演していた)は、お互いの厳しい境遇を語り合う。
金持ちたちへの恨み節を連ねるフランクに、ネイダが「もっと気楽に生きろよ」とも。
主人公ネイダを演じているのはプロレスラーのロディ・パイパー (1954-2015) で、理屈よりも腕力と銃の力を優先するところが実に80年代っぽいんだけど、同時にその姿は今の陰謀論者などを思い起こさせる。
街中の看板には「従え」「考えるな」「買え」「眠っていろ」などという洗脳的な言葉が溢れている。
人々はそれに気づかず、エイリアンたちに操られ、搾取し続けられている。
現実の世界の問題を寓話として描いているようでもあるけれど、その解決方法が人間の中に紛れ込んでいるエイリアンたちを銃で撃ち殺しまくって最後は放送局のビルに押し入ってエイリアンたちを人間に偽装させる電波を発するアンテナを破壊する、というものなので、傍から見ると武装した頭のおかしいおっさんが片っ端から人々を射殺してまわってテロ行為に走るという、米議会議事堂に大勢の陰謀論者たちが押し寄せて暴動を起こした例の事件のようなアブナさがあって、主人公たちを素直に応援できないんですよね。
店でぶつかりそうになって「ごめんなさい」と挨拶する上品そうな老婦人にむかって、「あんた顔がチーズみたいに溶けてるな。整形手術した方がいいぜ」などと暴言を吐く男に共感などできない。
だから、この映画はどこかねじれていて、登場人物の誰にも肩入れできないんですよ。
80年代のあの当時は、カート・ラッセル演じるアンチヒーロー、スネーク・プリスケンやこの映画でロディ・パイパー演じるネイダのような無遠慮なアニキたちが喝采を浴びたのかもしれないけれど、科学的根拠や理性よりも直感や思い込み、力ずくで物事を進めることを優先した結果、世の中は声が大きくて乱暴な輩ばかりがのさばるようになってしまった。
ネイダが子どもの頃に父親から暴力を振るわれ続けて13歳で家出したことをフランクに話すんだけど、映画の本筋とは関係ないようなこのエピソードは、ネイダという筋肉男の性格や行動原理を形作った重要な要素だといえる。
フランクにサングラスを無理やりかけさせようとして殴り合いになったり、TV局のADの女性ホリー(メグ・フォスター)に銃を突きつけて彼女の自宅に行ったり(そして油断したせいで彼女に2階から突き落とされてベランダのガラスをぶち破って転落する。ホリーはどんだけ馬鹿力なんだか^_^;)、その行動がいちいち頭が悪過ぎて、最初のあたりでは彼に幾分同情的に観ていたのが、だんだんその暴走ぶりに呆れてしまった。
まぁ、シュワちゃんだって彼の映画ではそんな感じだったし、一応アクション物なので、主人公の行動がぶっ飛んでるのはしょうがないっちゃしょうがないんですが。
だから、虐げられていた弱い立場の者たちが立ち上がって調子に乗ってる金持ちたちに目にもの見せる映画、と捉えることもできるけど、一方ではそうやって「金持ちたち」を「エイリアン=悪」として退治しようとする基地GUYたちの話、というふうにも見えるわけで。
ここでは金持ち=エイリアンは問答無用で悪い奴らで、交渉したり共存したりすることはまったく想定されていない。彼らに協力する人間は地球を彼らに売り渡した裏切り者として描かれる。
ネイダやフランクと同じキャンプにいたがエイリアン側の協力者になったために急に羽振りがよくなった男を演じているジョージ・“バック”・フラワー (1937-2004) は『ニューヨーク1997』でも大統領の発信器を拾ったホームレスの男役で出演していたけど、この人、マイケル・J・フォックス主演の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でも“ホームレスのレッド”役で出ていて、僕は初めて彼を見た時は本物のそういう人を連れてきたのかと思っていた。やたらとリアルな顔つきだったもんだから^_^;
『ゼイリブ』ではしっかりと台詞もあったし、以前ホームレスだった時とは違って服装も髪型もきっちりしていて、その演じ分けがお見事でした。役者さんって凄いよね。
ジョージ・“バック”・フラワー演じる男は、権力だとか体制に擦り寄って私腹を肥やす者を象徴していて、ネイダたちに「寄らば大樹の陰だよ」とドヤ顔で言う。ちょっと前まではネイダやフランクと同じ立場で不自由な生活をしていたのに、贅沢な生活ができるとわかるとあっさり寝返る。
ちょうど、『マトリックス』で主人公のネオたちを裏切って機械側につくサイファーみたい。
彼はネイダたちに撃たれそうになって、時計型の装置で消えてしまう。そしてそのまま二度と出てこない。
金持ちと貧乏人の間の溝は最初から埋まらないものとして描かれている。もちろん、それは主人公ネイダの視点なんですが。
エイリアンたちは警察を使ってキャンプを破壊したり、レジスタンスたちのアジトを襲って彼らを殺すが、一般人の中に紛れ込んだエイリアンたちは一見普通に生活していて、劇中で彼らが人々を襲ったり殺したりすることはない。殺されそうになると反撃せずに時計型の機械で瞬間移動する。
だから、銀行でエイリアンたちを銃で撃ち殺しまくるネイダの方がむしろ悪人に見えてしまう。
この映画は、最後にネイダによって世界中のエイリアンたちの正体が丸見えになって、ベッドで騎乗位でセックスしていた女性の下で正体を現わしたエイリアンが「どうしたんだい、ベイビー」と呟くところで終わる。
その前に、エイリアンの顔をした映画評論家たちが「ジョージ・A・ロメロやジョン・カーペンターなどの映画監督はもうちょっと考えてほしいですね」とホラー映画を叩いているというネタもあって、ジョーク交じりに作られたようなノリだし、大真面目に語るようなものではないんだろうけど、ネイダやフランクたちの活躍を手放しで喜べないのは、こうやってすべてを単純化してしまう怖さを僕たちはもうよく知っているからだ。
金持ちたちを銃で撃ち殺せば問題が解決するわけではない。TV局に押し入って破壊行為をすれば世界が救われるわけではない。
世界はもっと複雑だし、暴力や銃では格差をなくすことはできない。
それに俺たちがほんとにぶっ殺さなきゃいけない奴らは他にいるだろう(あ、映画の中で、ってことですよ、もちろん)。
それでも、大の大人二人が延々プロレス技を駆使しながら殴り合ってる姿はなかなか間抜けでなごんだし、ただのサングラスが特殊な装置として扱われたりエイリアンたちが他の星に転送される機械がなんだか「ウルトラセブン」で描かれていたようなシュールで絶妙にチャチなところもどこか白昼夢めいていて、映画全体が「陰謀論者の目」で見た世界っぽくて、だからこれは深夜にたまたまTVをつけたらやってたような映画なんだな。
そういえば、エイリアンといえば同じ年に公開された『エイリアン・ネイション』という映画もありました。
そちらはTV放映時に観たけど、エイリアンを「移民」のメタファー、というか、そのまんまの喩えとして用いていた。のちの『第9地区』のヒントにもなっている。エイリアンひとつとってもいろんな意味合いで使われてますね。
『ゼイリブ』は、アクション映画としてはやっぱりユルかったけど、現在の世の中のあれこれと照らし合わせて観るとなかなか面白い映画でした。