NHKのBSプレミアムでチャールズ・チャップリン監督・脚本・主演の『キッド』(オリジナル版1921年。サウンド版1971年)と『黄金狂時代(放送タイトル:チャップリンの黄金狂時代)』(オリジナル版1925年。サウンド版1942年)、またその次の週に『街の灯』(1931年)を視聴。
2/17から「チャップリン特集」と題して彼の作品が放送されていて観ています。
以前放送された長篇に今回は中篇の『キッド』も加わっていたので嬉しかった。
芸術家の恋人に捨てられた女性が産まれたばかりの男の子を金持ちの家の自動車の中に置いていくが、車は盗まれて赤ん坊だけ捨てられてしまう。その子を拾った放浪者がジョンと名付けて我が子のように育てる。
チャップリンの映画は80年代にやはりNHKでたまに放送されていて、その時にこの『キッド』もラインナップの中にありました。
“キッド”役の子役ジャッキー・クーガンがとても芸達者で可愛いですね。彼は舞台で活動していたのをチャップリンに見出されて、この『キッド』で一躍有名になったのだそうですが。同じ1921年に出演した『My Boy』では『キッド』の時とほとんど同じ服装で身寄りのない子どもを演じています。
BBCのドキュメント番組「知られざるチャップリン (Unknown Chaplin)」(1983年。日本では89年に短縮版がNHKで放送。日本版では淀川長治、萩本欽一、加賀美幸子アナウンサーが出演)の中で、『キッド』の撮影前にチャップリンが共演者の幼いクーガンにダンスをさせて、この作品に不安を持っていた劇場主たちを納得させたエピソードをクーガン自身が語っていました。
『犬の生活』(1918年)でワンちゃんとコンビを組んで「笑いとペーソス」を描き出したチャップリンが、今度は人間の男の子とともに見事に観客から「微笑と、おそらくは一粒の涙」を引き出す。
一時期、このチャップリンの「笑いとペーソス」を冷笑して、もっとドライなバスター・キートンの笑いとアクションを褒めるのがシネフィル(映画狂)っぽい、みたいな勘違いをしている手合いの文章やTwitterでの呟きを目にすることがあったんだけど、阿呆なのか、と思った。
そもそもチャップリンとキートンを比べてどちらが上だの下だの云々すること自体がナンセンスだ。それぞれどちらも素晴らしい。ジャッキー・チェンは彼らの(それからハロルド・ロイドのも)笑いとアクションを受け継いでいる。
チャップリンの映画のペーソスとか涙ってけっして欺瞞などではなくて、やはり彼自身の中にあった暗さや哀しみに裏打ちされたものだったんじゃないだろうか。
『キッド』にはそれらがもっとも色濃く出ていると思う。その後のいろんな映画の雛形のような作品になってますよね。
そういえば、キッドが他人の家の窓ガラスをわざと割ったあとでガラス修理屋としてチャーリーがやってきてまんまと修理代をせしめようとする、というエピソードは、そのまんま漫画「はだしのゲン」の中で再現されてました(「はだしのゲン」では同じくチャップリンの『殺人狂時代』についての言及もある)。
ところで、YouTubeでこの『キッド』の1時間を越える長尺版(オリジナル版に1971年のサウンド版の音楽を被せたもの。音声がツギハギのため、ところどころ聴き苦しい)を観たんですが、そのヴァージョンではエドナ・パーヴィアンス(パーヴァイアンス)演じるジョンの母親が有名になったあとにかつて自分を捨てた男とパーティで再会する場面があった。
僕は英語の字幕が読めないんで細かい会話の内容についてはわからなかったけれど、それまで『キッド』にロングVer.があるなんて知らなかったからちょっと驚きでしたね。
1971年に音を付けた時に再編集して53分にまで縮めたんだな。
僕が80年代の半ばに初めて観た現行ヴァージョンの『キッド』は、そのわずか10何年か前にチャップリン自らの手で完成したものだった。作品が作られて50年後に今のような状態になったんですね。
キッドの母親とその元恋人とのくだりは主人公チャーリーの物語とは直接かかわらないので、確かにない方が映画のテンポアップにはなる。おかげで53分の中に面白さが凝縮されることになった。
オリジナル版はオリジナル版でなかなか捨てがたいと思いますが。
チャップリンは『黄金狂時代』もサウンド版を作る際にサイレント時代のオリジナル版を再編集して大幅にカットしてるけど、ちょっとコッポラが最近やってることを思わせて面白い。
以前から疑問だったことがあって、ジョンが母親に引き取られることになって、最後にチャーリー*1が彼女の家に招かれてジョンと再会して映画は終わるんだけど、結局チャーリーとジョンはその後どうなったんだろうか。女性はジョンの父親とは完全に決別したんだろうか。一応ハッピーエンドだけど、チャーリーとジョンの今後を想像してちょっとだけ心配になったのでした。
今年はこの映画が初公開されてからちょうど百年目なんですが、レストアされて画質が鮮明になっているからというのもあるけれど、なんともスゴいことだなぁ、と溜め息が出ます。
百年前の映画をこうやって普通に笑ったり涙ぐんだりしながら観てるわけだから。
それはこれがスラップスティック・コメディ(ドタバタ喜劇)というジャンルだからこそだし、チャップリンの生み出すギャグがもはや時代を越えているからでもあるでしょう。
彼の演技──その体技はもちろん、ちょっとした仕草、顔の表情など、その細かな演技がそれ自体はベタなギャグにけっして古びることのない面白さや新鮮さを与えている。
真似なんかとてもできないけれど、それでも思わず真似したくなるんですよね、チャップリンのあの動きを。それはちょうど世界中の多くの人々がブルース・リーの物真似をしたくなるのとよく似ている。
サイレント映画での俳優の演技って誇張された大仰なもの、というイメージがあって実際誇張されてはいるんですが、でも孤児院の男たちに“キッド”=ジョンを無理やり連れ去られて警官に押さえ込まれている時のチャーリーの表情、チャーリーが家々の屋根をつたってキッドが乗せられた車を追いかけて、ついに二人が抱き合って頬を寄せ合いキスする時の彼らの表情には涙を禁じえない。そこはとてもリアリズムなんですよね。
それで、映像に寄り添う音楽がまたイイんだ。いつの間にか口ずさんでしまうような耳によく馴染むメロディ。美しく、また滑稽で。
それらは後年、映画に“音”が付くようになってからチャップリン本人が作曲してあらためて映画に付けられたものですが、この音楽が映像の笑いや感動をさらに倍増させる役割を果たしている。
チャップリン自身は譜面が読めなかったので(諸説あり)プロの作曲家たちとの共同作業だったということだけど、メロディそのものを作ったのはチャップリンだから、やはり素晴らしい音楽的な才能も持っていたんだと思います。『キッド』も『黄金狂時代』も『街の灯』も、それぞれ“あれらの曲”じゃなければ絶対に成り立たなくて、他の曲では代わりにはならないのだから。
『黄金狂時代』のサウンド版には音楽と一緒にチャップリン自身のナレーションも入っていて、まるで紙芝居のように場面の解説をしてくれるんだけど、正直チャップリンの映画にナレーションは不要だと思うんで、音楽だけ付けてもらいたかった。
ゴールドラッシュで金鉱を求めて雪山に登ったチャーリーは吹雪に遭い山小屋にたどり着くが、そこにいたのはお尋ね者の男ブラック・ラーセンだった。同じく金鉱探しのビッグ・ジムとなんとか吹雪をやり過ごして1人で麓の小さな町にやってきたチャーリーは、酒場の女性ジョージアに一目惚れする。
他にも何本かナレ付きの作品があるようだけど、でも『黄金狂時代』の次の『サーカス』(1928年)(なぜか前回も今回も放送されないのが不思議なんですが)も、さらにその次の『街の灯』にも『モダン・タイムス』(1936年)にもナレーションは付いてないんで、チャップリンもたとえ“音”が入るようになっても自分の映画にナレーションはいらないことをわかっていたのでしょう。昔の自分のサイレント作品をトーキーの時代の観客たちが受け入れられるようにいろいろ模索していたんだな。
『黄金狂時代』で切り立った崖の上で山小屋が傾く場面では、小屋のセット全体が傾いだり衝撃で揺れたりしていてなかなか大掛かりですが、ドリフとか後年のコントでもこういうことやってますよね。
ミニチュア特撮も凝ってて楽しい(^o^) しっかり俳優たちとミニチュアの合成も駆使してますし。
『黄金狂時代』のチャーリーのお相手でヒロインのジョージアを演じるジョージア・ヘイルは、チャップリンの他の映画ではあまり見ないタイプの気が強そうな女優さんで、そこが盛り場の女性という役柄によく合っていたし、男にダンスを強いられて抵抗したり、チャーリーとの約束を忘れてみんなと一緒にドンチャン騒ぎをしている軽薄さもよく出ていた。
単なる可愛くて健気なだけではない女性像が今見てもリアルではある。
その後の『モダン・タイムス』『独裁者』(1940年)でポーレット・ゴダードが演じた、自分の意見をしっかり主張するヒロイン像を先取りしていた感じも。
ジョージア・ヘイルは、『街の灯』でヒロイン役のヴァージニア・チェリルがチャップリンにクビにされそうになった時に代役として呼ばれて試しに撮影も行なわれたんだけど、ヘイルは『街の灯』の薄幸の娘のイメージとは合わないし、結果的にはヴァージニア・チェリルがヒロイン役を務め上げたのはよかったと思います。申し訳ないけど、ジョージア・ヘイルが『街の灯』でヒロイン役だったら、あの映画はあそこまで感動的な作品にはなっていなかったんじゃなかろうか。
才能の有無の話ではなくて、映画にはその俳優に向いてる役とそうでない役とがあるということ。
ジョージア・ヘイルは前述のドキュメント「知られざるチャップリン」で、ヴァージニア・チェリルのことを「女優失格」とこき下ろしていた。彼女のことをずっとライヴァル視していたんでしょうかね。
『黄金狂時代』のオリジナル版でチャーリーとジョージアがキスをするエンディング(現在普及しているサウンド版では、二人が船の階段を昇っていって終わる)で、チャップリンが必要以上にキスシーンを長く撮影したことを恍惚の表情で語っていた。
盲目の花売り娘に恋をした放浪者チャーリーは、金持ちのフリをして彼女に親切にする。ある金持ちが自殺しようとしていたのを思いとどまらせたチャーリーはその金持ちに気に入られるが、彼は酒が切れるとチャーリーのことをすっかり忘れてしまうのだった。花売り娘と彼女の祖母は家賃が払えずアパートを追い出されようとしていた。彼女の目の治療費を稼ぐために働き始めたチャーリーだったが、職場の休憩時間に娘の家に行っていたために遅刻してクビになってしまう。
先ほどもちょっと書いたように、『街の灯』ではチャップリンはヒロイン役のヴァージニア・チェリルのことをあまり気に入ってなくて彼女をクビにする寸前までいったし、「知られざるチャップリン」の中でもヴァージニア・チェリルご本人が「チャップリンさんは私のことを好きではなかったんだろうと思います」と証言しているぐらいなんだけど、完成した映画からは撮影時のそんな険悪な雰囲気は微塵も感じられないのがスゴいですよね。さすがプロ。
この映画のヴァージニア・チェリルって、とっても「チャップリン映画」のヒロインっぽいなぁ、と思うし、彼のフィルモグラフィの中でも『街の灯』はかなり人気があって評価も高い作品だから、すべてをワンマンで撮っていたチャップリンでさえも判断を誤りそうになることがあったってことですね。
劇中で、娘の目が見えない時と手術が成功して見えるようになってからのチェリルの演技の変化が見事なんですよね。わざとらしくないのに明らかに以前とは違っているのがわかる。
貧しくていかにも幸薄げだった娘が目が治って自分のお店も持てるようになったら、みすぼらしい放浪者を見て思わず笑ってしまう残酷さ。
最後の「…あなたでしたの?」のあの再会は、ハッピーエンドなのだろうか。それとも失望や憐れみを伴うどこか哀しいエンディングなのか。
観る人の人生観によっても解釈が違ってくるだろうし、どのようにでも受け取れるところが深いな、とも思う。
あのエンディングは「チャップリン映画」を代表する名場面ですね。
この映画でチャップリンは初めて音声が付いたサウンド版を制作したんだけど、冒頭では喋っている人物の台詞を加工してわざと何言ってんのかわからないような滑稽な“音”として表現して(ピングーとか、ひつじのショーンっぽいw)トーキー(発声)映画を茶化しているし、効果音や伴奏を使ったギャグもやっていて、自分の映画に音を入れるとなったらどう使うのかしっかり考え抜いているのがよくわかる。
サイレント時代でも上映時での音楽のタイミングなどを細かく指示していたそうだから、もともと“音”に対してとても敏感で意識的だったのでしょう。
チャップリン自身の肉声が初めて流れるのは、この次の『モダン・タイムス』。台詞ではないけれど、何語なのかもわからないデタラメ言語で歌を唄います(^o^)
3月に入ってもチャップリンの映画はまだ続きます♪
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*1:ここでは便宜上“チャーリー”と呼んでますが、役名は“The Tramp”(放浪者)。