映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

もう一つのブログとともに主に映画の感想を書いています。

『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART 2』


※以下は、2011年に書いた感想に一部加筆したものです。


デヴィッド・イェーツ監督、ダニエル・ラドクリフエマ・ワトソンルパート・グリント出演の『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART 2』。2011年作品。

2001年公開の『賢者の石』にはじまり、10年間に渡って制作された「ハリポ」シリーズの完結篇。

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ハリー・ポッターと賢者の石』(2001) 監督:クリス・コロンバス 3人ともちっこいのぉ。
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“選ばれし者”である主人公ハリー・ポッターは、かつて自分の両親を殺した宿敵ヴォルデモート卿の“分霊箱”をみつけて彼を倒すために、魔法学校の仲間たちとともに最後の決戦に挑む。


「ハリー」といったら僕なんかにとっては断然クリント・イーストウッドが演じた“ダーティハリー”ことハリー・キャラハンなんだけど、世間一般じゃ今では眼鏡の魔法小僧のことだったりする。

まず、原作でも映画でもとにかく「ハリー・ポッター」のファンのかた、反対に今まで一度も『ハリポ』映画に触れてないかたには、以下の感想は腹が立つだけかまったく参考にならないと思いますので、ご了承のうえお読みください。

なお、【ネタバレあり】ですのでご注意を。


なんと、『PART 1』を観ずに鑑賞という暴挙に出たのだった。

それもIMAX3Dで!

われながら「アホなの?」って感じだが、実はこれでも本作品を含めたシリーズ全8作品中1~5作目までは劇場公開時に映画館で観ている。

そこまで観といてなんで途中でやめたのかというと……。

飽きたから。ミもフタもないけど。


僕はもともとファンタジー映画は好きで、だからこのシリーズも原作は一切読んでないにもかかわらず観はじめたんだけど、なんか話がぜんぜん進展しないし1本1本も特に「ををっ」という驚きや感動もなくて。

ただただとにかく恒例、みたいな感じで観続けてきたんだけど、毎回上映時間も長いし(どれも90分ぐらいにおさまる話だ)いいかげん疲れてしまったのだった。

かつて「24」(…古いか)でも第3シーズンを観終わった時点で「これはキリがない」と戦線離脱。

ちなみにやはりファンタジー映画の『ロード・オブ・ザ・リング』は3本すべて劇場で鑑賞。

ナルニア国物語』は2本観て挫折。

理由は『ハリポ』と同じ。

『寅さん』とか「007」シリーズみたいにどの作品から観ても大丈夫な一話完結方式ではなくて『スターウォーズ』のような続き物だから、途中で観るのやめたらすべてが中途半端なまま終わってしまうんだが。

でも5本だって十分多いよ。

スターウォーズ』だってぜんぶで6作品。それも旧3部作の完結篇『エピソードVI』から新3部作のはじまり『エピソードI』までは16年のインターヴァルがあった。

ハッキリいって『SW』は最初に作られた3本を観れば十分。

ストーリーや登場人物たちに思い入れもないのに、まるで「北の国から」観るように、ハリーをはじめロンやハーマイオニーたち主要キャスト3人の成長を見守るためだけに1~2年に1本の割合で公開される作品を観るのは正直シンドかった。


そんなわけで『ハリポ』とはすでにお別れしてたはずなんだけど、でもいざ「これで、最後」となると、なんとなくいろいろと感慨深くもあったりして。

なので、最後なんだしご祝儀みたいな感じで張り込んでIMAXにしたのです。

最初で最後の3Dだし。

で、観てなかった2本を観ておこうと思って、先日TVでやってた6作目『謎のプリンス』をビール飲みながら観てたら、1時間経つか経たないかぐらいでブラックアウト。気がついたら朝になっていた。

もうそれで過去作を観るのは断念^_^;いきなり完結篇に突入。


僕が『ハリポ』(“ハリポタ”ではなく、三島由紀夫賞受賞作家の中原昌也命名の“ハリポ”とあえて呼称)の映画を観るのは、07年の『不死鳥の騎士団』以来。

その間、シリーズをDVDやTV放映でまともに観返していない。

だからこれまでのストーリーはほとんどおぼえてないし、やたら多い登場人物についても今回はじめて見るんだか前に見たことあったのかどうかももはやよくわからなくなっている。

“分霊箱”ってのはどうやら魂の断片をおさめる器のことらしい(箱の形である必要はないようだ)。

そんな「ハリポ」童貞に毛が生えたような状態(5本も観たのに)。

この「完全いちげんさんおことわり映画」を楽しむには圧倒的に不利である。

なんていうのかな、何年ぶりかでひさしぶりに母校に顔を見せに行ったら、後輩から「…どちら様ですか?」といわれたような(実話)…。

てめ、俺のこと忘れたのかよ!みたいな。

ほんと、顔は知ってるけどプライヴェートでは一切付き合いがない後輩の学内公演を観にきたOBのような気分で。

知らない子ばっかで、でも放っとかれて勝手に盛り上がられてる、といった塩梅。

なにかひとり取り残されたような寂しさをおぼえつつ。


それでもなんとか全身全霊をこめて楽しもうと努力しましたよ。

娯楽映画を「楽しもうと努力」しなければならない、というのはどうなんだろうと思うが。

TBSラジオ「ウィークエンド・シャッフル」の映画批評コーナー「ザ・シネマハスラー」でパーソナリティのライムスター宇多丸さんが、この『死の秘宝』を『スターウォーズ エピソードVI ジェダイの帰還』と比べてて、あろうことか『ジェダイ』の方をクサしていた。

ようするに“どちらも「いちげんさんおことわり映画」だが、『ジェダイ』はヒドかった。それに比べれば『死の秘宝』はまだマシ”ということらしい。

冗談抜かすなと思った。それ以外の『ハリポ』に対する数々の指摘はとても納得がいくし(「ハリー、腹毛!?」には大笑い)“映画博徒”としての宇多丸師匠のことは尊敬してるけど、この件についてはおおいに異議あり


好き嫌いはあるだろうけど、そもそも『ジェダイの帰還』(どうも昔の副題『ジェダイの“復讐”』の方が僕はしっくりくるんだが)は「いちげんさんおことわり映画」なんかではない。

僕はこの映画を観るまで『スターウォーズ』を観たことがなくて、子どもの頃に親に連れられて映画館ではじめて観たけど、面白かったもの。

この映画に文句いってる人は、公開当時中高生以上だった人がわりと多い。

つまり、なんか映画にあれこれイチャモンつけたくなる年頃に、ちっちゃなクマのヌイグルミみたいなキャラクターたちが出てきて、ジェダイの騎士でもかなわなかった悪の銀河帝国軍を倒してしまったのが我慢ならないようなのだ。

それについてはいくらでも反論・論破できるけど、長くなるんで割愛(『ジェダイの復讐』の感想を参照のこと)。


スターウォーズ』は神話やおとぎ話をベースにストーリーが作られていて、非常に単純明快。

まさに“英雄物語”の王道をいくシナリオで、余分なキャラクターも場面もまったくない。

僕と同様それまでこのシリーズを1本も観たことがなくても登場人物たちの立場はだいたい理解できるし、誰がいい奴で誰が悪役なのかも一目瞭然。

あ、ここでいってるのは『エピソードIV~VI』までの旧3部作のことです。

ナタリー・ポートマンが出てた新3部作については、僕は「SWファンが作った同人映画」みたいなもんだと考えてますんで。


一方『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART 2』はどうかというと、こちらはまぎれもなく「いちげんさんおことわり」。

なにがキツいのか具体的にあげると、まずアクション以外の会話シーンがやたら多くて、しかもその内容にはつねにたくさんの人名やアイテム名が含まれているので、それらを知らないとなんのことだかぜんぜん理解できない。

しかも理解できたところで話が面白くなるわけでもない。


この映画、「ハリポ」シリーズでは初の3Dで、たしかにドラゴンのシーンや空中を浮遊する吸魂鬼ディメンターの映像などは立体的で見ごたえはある。


しかし今いったようにとにかく会話シーンが多いんで、ただ登場人物たちが喋ってるだけの、3Dにする必然性がぜんぜんない場面を延々見せられることになる。

IMAXで観たことは後悔してないけど、二千何百円支払う価値があるかというと、それはかなり疑問。

でも2Dだったらもっと退屈だったかもしれないし。

やはりこれは“ご祝儀”だ。

3D効果自体はIMAXでは自然で無理はなかったので(『マイティ・ソー』→感想はこちら とは大違い)、要は使い方。

もったいなかったなぁ、と。


さて、レイフ・ファインズ演じる闇の魔法使いヴォルデモートは、永遠の命を手に入れるためにハリーの命を狙う。


ハリーはヴォルデモートの心を読むことができる。

それはハリーの中にヴォルデモートの一部が入り込んでいるから。

“選ばれし者”である主人公が実は宿敵の「悪」の一部を受け継いでいる、というのはありがちではあるんだけど、「ヒーロー」と「悪役」は表裏一体の存在だから、これは物語としては至極まっとうな展開である。

たとえば先ほどの『スターウォーズ』の主人公ルーク・スカイウォーカーも、ジェダイとしてのその秘めた能力ゆえに敵であるダース・ベイダーや銀河皇帝から「暗黒面」への誘惑をうけることになる。

ヴォルデモートは最初からハリーを殺すつもりなので彼は悪の道に誘惑されることはないが、そのかわりファンタジー映画の中の“選ばれし者”としての存在意義を問われることになる。


僕がこの『死の秘宝』をこれまで書いてきたように少々疲れながら観ていて、ふと興味をそそられたのは、ハリーがホグワーツ魔法学校に入学してからというもの、いってみれば主人公の特権として途中で殺されることもなく(物語的に)甘やかされてきた理由が判明するところ。

魔法学校の教師であるセヴルス・スネイプの「殺すために豚のように育てた?」という言葉。

“選ばれし者=The Chosen One”という言い廻しはハリウッド映画の、特にファンタジーやSFアクション物などでしばしば耳にする。

マトリックス』の主人公もそう呼ばれていた。

そして彼は最後に“救世主”として自分を犠牲にして世界を救う。

神話やヒーロー物のセオリーからすれば、ハリーもまたそうすることが自然なようにも思える。

僕が個人的に関心があるのは、主人公の自己犠牲が美しいから感動する、とかそういうことではなくて、自分が「物語の中の主人公」であることに気づいたキャラクターが自分に課せられた役割について自覚的になって、どういう行動をとるかということ。

つまりメタフィクショナルな展開。

それは僕が「ファンタジー」というものを意識しだすきっかけとなったのが、主人公が本の中の登場人物に導かれて物語の中に入っていく「はてしない物語(映画タイトル:『ネバーエンディング・ストーリー』→感想はこちら)」だったからかもしれない。


みなしごとして叔母一家から冷遇されながらも、類いまれなる魔法の能力を発揮して次第に“選ばれし者”としての資質を開花させてゆくハリーは、まさしく「冒険ファンタジー」の主人公として申し分のないキャラクターとして造形されている。

ハリーが数々の冒険を見事に成し遂げてゆくのは生まれ持った才能と彼自身の努力によるものだが、しかし、もしもそれが意図的に仕組まれたものだとしたら…?

そのハリーがスネイプをとおして恩師ダンブルドア校長の真意を知ったときにうけたであろう衝撃。

自分はときが来たらしかるべき理由で殺される運命にある。そのために今まで「生かされてきた」という事実。

僕がこの映画で物語的に唯一「面白さ」を感じた場面だった。


もっとも、ハリーが「死なない」ことは観る前からほかの人のレヴューを読んで知っていたし、原作者も映画の作り手もハリーに「物語の主人公」を巡る究極的な試練を与える気はなかったようで、予想どおりこの映画の結末は僕が期待するようなものではなかったのだけれど。

あの鼻がない人がずっと自分の物にしたがっていた杖をハリーが最後に「ポキッ」とあっけなく折っちゃう場面は、ちょっと痛快だったけど。

そんな脆い杖を服の中に隠しといて間違って折れちゃったらどーすんだ(;^_^A


ハーマイオニーはがんばって胸の谷間までは見せてくれてたけど、ハリーとロンは上半身裸になって生着替え。

着替えてる彼らのまわりをキャメラがぐるぐる廻る場面はちょっと笑った。

なんのサーヴィスだ^_^;


特に監督がデヴィッド・イェーツになってから僕がこのシリーズのたたかいの場面に“燃えない”のは、いつもハリーが、なんのために、どうやってたたかっているのかがよくわかんないからだ。

ハリーは別にヴォルデモートの「誘惑」に打ち勝つわけではない。

彼は別に何も葛藤していないし、とりあえずヴォルデモートの“分霊箱”を破壊して彼自身の肉体も殺傷できればこの闇の魔法使いを消滅させることができるので、そうする。

ダンブルドアの言いつけどおりに。

そこには英雄や勇者に課せられる、自分の全存在を賭けた本当の“試練”はない。

あるのは「見せかけの困難」だけだ。

僕が(誰がいったか知らないが)この“史上最強のファンタジー”に深みを感じられないのはそのせいかもしれない。

ちょっと「ドラゴンボール」みたいだったりするんだよね。

みんな、オラに力を貸してくれ!みたいな。


知恵を振り絞って相手の隙を突いて勝利する、というような頭脳戦があるわけでもなく(『不死鳥の騎士団』の一場面にそんな要素があったが)、人間世界ではいじめられっ子で友だちもいなかった主人公が魔法界では有名人で友人もたくさんいてスゴい魔法使いになれた、という考えてみればなかなか哀しい現実逃避の物語にきちんとケリをつけることもなく、架空のたたかいに終始することで現実から目をそらさせる作劇。

やはりこれは「少年ジャンプ」的な物語だと思う。


ファンタジーというのは(『スターウォーズ』や『LOTR』のようなハイ・ファンタジーを除けば)本来、現実から異世界へ旅に出た主人公が、ふたたび現実に戻ってくるものだ。

『ハリポ』のラストでは現実に戻ったはずのハリーは、まだどこかあちらの世界に残ったままのように思える。

さんざん殺し合いが繰り広げられたにもかかわらず、そんな魔法学校に自分と同じようにわが子を送り込むハリーの気持ちが僕にはわからない。

作品自体が「あちらの世界」とちゃんとお別れをしていないのだ。

というか、極端につまらない人々として描かれる叔母一家、スネイプ先生のハリーとその父親への恨み節やある女性に長年抱き続けたねじれた恋心など、なんかもう、この作品自体が原作者J・K・ローリングの現実世界に対する「復讐」なんじゃないかと思えてきて。

今や大金持ちになったローリングさんは、もうマグル(フツーの人)に戻ることなどなくて、これからずっとセレブ界で生きてゆくのだ!

よく知りもしないくせにテキトーなことばっか書いてるとファンの人たちにぶっとばされそうだけど。


…とまぁ、書いててこれは『ハリー・ポッター』のことじゃなくてオレ自身のことなんじゃね~の?と思えてきた。

僕にとっちゃ、映画もまたひとつの「現実逃避」ですからね。

こればかりはお別れできそうにないなぁ。

ともかく『ハリー・ポッター』はこれで、おしまい。

主演やそのまわりの子役たちが11歳ぐらいから10年間同じ役を演じ続ける、という壮大な実験シリーズは幕を閉じた。


元子役の、今はティーンエイジャーになったあの3人もようやく長いくびきから解き放たれた。

エマ・ワトソンは役のために伸ばしていた髪を速攻切ったようで。

以前、たまたま友人と『ハリポ』の話題になって、その友人がエマ・ワトソンのことを「…だって、ハーマイオニーってケツアゴじゃん」というの聞いて大笑いした。

でもエマさんはケツアゴじゃないよ(;^_^A

まぁたしかにどんどん顔が鋭角的な“男前”になってきてはいるけど。


彼女がケツアゴだったら、ゴルゴ並みに完全にパックリ割れてるジョディ・フォスターサマンサ・モートンなんて何アゴなんだ。

顔立ちがちょっとエリザベス・シューとかジェニファー・ジェイソン・リーの系統なんだろうな。

いつかまた別の作品で、優等生のハーマイオニーとはまた違った役で再会できる日を楽しみにしてます。

ロン役のルパート・グリントは『サンダーパンツ!』にも出てたりして、これからもコメディとかイケそうだな。

ハリー?

この映画の彼はなにより…胸毛とつながりそうな腹毛のインパクトが(^▽^;)

ハリー・ポッター」シリーズではずっと眼鏡してる顔を見てきたけど、当然それは役柄のうえだったんで、これからはあの丸眼鏡をしないラドクリフ君を見ることになるわけで。

眼鏡を外した彼の顔はなかなか新鮮でした。

※当初はハリーのライヴァル的な存在だったのがどんどんザコ化していった敵役ドラコ・マルフォイを演じたトム・フェルトンは、『猿の惑星:創世記』(感想はこちら)でドラコがさらに残念になったようなキャラクターを演じてました。


スネイプ役のアラン・リックマンさんのご冥福をお祈りいたします。 16.1.14


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