大島渚監督、藤竜也、松田英子、中島葵、殿山泰司ほか出演の『愛のコリーダ 修復版』。1976年作品。R18+。
昭和11年 (1936年)、東京中野の料亭「吉田屋」で女中として働く阿部定は、主人の吉蔵と互いに惹かれ合い、やがて二人で待合旅館を転々としながら身体を求め合う。吉蔵の妻にも嫉妬するようになった定は、吉蔵を自分一人だけのものにしようとする。
僕はこの映画を劇場で観るのは初めてだし、ぼかしやトリミングを施したり場面自体をカットした1976年の初公開ヴァージョンも2000年に大部分を修復して劇場公開された『愛のコリーダ 2000』も観ていません。*1だからどのあたりが「修復」されたのかもわからないんですが、せっかくの機会なので同じく大島監督による『戦場のメリークリスマス』の4K修復版に続いて映画館で鑑賞。
『完全版』ではなくて、あくまでも『修復版』とあるように、やはり「ぼかし」は入っているので、フランスなど海外で公開、ソフト化されているものに比べれば“不完全”な状態なんですが、とりあえずこの国で観られるヴァージョンとしては一番まともなものだということで。
成人向けではなく一般向けの作品が上映されているミニシアター系の映画館のそれなりに大きさのあるスクリーンでこういう作品を観るのはなかなか新鮮で、なんでしょう、ちょっと「春画」を鑑賞するような気持ちで観ていた。
この映画が海外でどのような評価を受けているのかも知らないけれど、おそらくはアーティスティックな映画として観られているのでしょう。
正直なところ、僕はこの映画に「美しさ」よりもグロテスクなものの方をより感じるし、もっと言えば下品で汚い、とさえ思うんですが、そういう要素も含んだうえでの「美」ということなのだろう、と勝手に解釈。
ジャポニスム、と呼ばれる西洋文化圏での「日本趣味」というのは、多分にこの「グロテスク」で「下品」で「汚い」、さらには「醜い」ものを反転させたものなんじゃないだろうか。 キモノだったりゲイシャだったりサクラとかフジヤマだとか、そういったきらびやかで鮮やかな色彩と「醜さ」の融合。珍奇なものとしてのオリエンタリズム(東洋趣味)。
日本のエロアニメが海外で「ヘンタイ」として面白がられるのも、きっと全部繋がってるんだよな。春画の滑稽さや気持ち悪さと大いに通じるものがある。 だって、この映画に出てくる白塗りの女たちは一部の美人女優(監督の妻含む)たちが演じる芸者を除くと僕には美しいとは思えなかったし、まるで寺山修司の前衛劇みたいで気持ち悪くさえあった。
68歳の老いた芸者とセックスする場面なんて、もうわざと悪趣味をやってるとしか思えなくて^_^;
だけど、実際、あの当時の日本の料亭だとか旅館だとか、芸者というのはあんな感じだったのかもなぁ、と思わせるんですよね。何か、ほんとに爛(ただ)れているというか、荒廃している。 青年将校たちが政府の要人を次々と殺害してクーデターを企てた二・二六事件が起きたのと同じ年に起こった猟奇的な「阿部定事件」。
事件が起こった当時、大変なセンセーションを巻き起こしたということだけど(だからこそ、80年以上経った現在でも記憶され続けているのだが)、それは不穏な空気に包まれた時代に暴力と“エロ”が人々の抑え込まれたヤケクソ美味な気持ちを代弁していたからだろうか。
この映画で描かれていること(って、ほぼ全篇セックスしてるだけだが)が史実にどれぐらい忠実なのかといったことは僕にはわからないけれど、日の丸の旗を振られて行進する兵隊たちを尻目に、世の中のことなど知ったことかといった感じで性に溺れていく吉蔵と定(さだ)の姿には、むしろ時代を越えた感覚を覚えるし、一方ではこの映画が作られた70年代半ばのアナーキーでアンニュイな時代の匂いも感じさせる。
吉蔵を求めてどんどん行動がエスカレートしていく定の姿が異様だが、以前観た『ラスト、コーション』を思わせるところもある。他のことはどうでもいい、ただ「あなた」だけが欲しいのだ、と。
身体が合う、というのは、それだけで人を暴走させてしまう力があるということだろうか。
最初は主人の吉蔵の方がちょっかいを出したのが、やがて主導権を定に握られていく可笑しさ。老いた芸妓とヤれ、と命じたのも定だし。
“行為”の最中に首を絞めると気持ちがイイらしい、と教えたのも吉蔵だが、相手の首を絞めることにハマり込んでいくのは定の方だ。
吉蔵は別に死にたくなどなかったのに、あまりに定がしつこいものだから、だんだんどうでもよくなってきて彼女の言いなりになっていく。
アソコの元気がないと叱られるし、油断していると首を絞めるかチ○コをちょん切られそうになる。すごく厄介な女だ^_^; まぁ、彼女に火をつけたのは吉蔵なんだから自業自得なんですが。
吉蔵自身が起立してたり縮んでたりする様子が物語と深くかかわってもいるのだから、ぼかしが入ってたらそのあたりがわかんないんだよね。
定を演じる松田英子はまるで寝起きの木村佳乃みたいな顔で(すみません、冗談です)大熱演だけど、その渾身の演技も「本番」をやりながら、というところに意味があるのだから、それを隠してしまっては彼女の努力も報われない。
この映画は撮影前から「本番行為」が話題になってて撮影を見学しようとする者が続出したらしいけど(勝新まで見たがったそうでw)、要するにそうやって世間の注目を集めるとともに警察を挑発することも狙いだったわけで、どうせ撮影した映像を無修正のまま上映することなんてできないんだから(それどころか現像したフィルムを国内に持ち込むことさえ不可能だった)、「してるフリ」で誤魔化すことだってできただろうけど、そこはちゃんとやったからこそポルノ映画としても価値があるのだと思う。
それはクライマックスの「合体」の場面でわかるんだけど、ぼかし入りではなんであんなに定は自分の“おソソ”に吉蔵のおち○ち○を入れたがったのか、肝腎のその部分が伝わらないんだよな。
〽おソソは女のキャピタルでぇ~♪
アンダーグラウンドで流通している「ブルーフィルム」ではなく、普通に公開される商業映画でこういうことをやろうとする、そのこと自体が表現活動の一つでもあった。
藤竜也さんは現在、朝ドラの「おかえりモネ」に主人公・百音の優しい祖父役で出演されてますが、その前にこの映画を観ちゃってるもんだから、おじいちゃん若い頃はエロエロだったんやで!とw モネちゃんもこの映画観たら仰天すると思いますが(18歳未満は鑑賞不可です)。
このあとしばらく役者の仕事がなくなってしまったという藤竜也さんもそうだけど、松田英子さんの勇気こそを大いに称えたい。AVが当たり前にある現在、「本番行為」それだけにありがたみを感じるのは難しいけれど、今だって「映画」で同じようなことをするのは難しいでしょう。作られてる目的がAVと違うので。
阿部定という女性がどんな人だったのかは、NHKの「アナザーストーリーズ 運命の分岐点」でやっていた「阿部定事件 ~昭和を生きた妖婦の素顔~」を観たり、Wikipediaで彼女の生涯について読んだぐらいしか知りませんが、異常なまでにセックスにのめり込む人がその心の奥底に何を抱えているのか興味が湧くものの、阿部定のような境遇の女性がみんな彼女のような事件を起こすわけでもなければ、その後の彼女のような人生を送るわけでもないから、これは永遠の謎としてこれからもずっと歴史の中で語られ続けていくのでしょう。
ある男を自分の中に丸ごと入れてしまおうとした女の、しかしそれはただ「狂気」と呼ぶにはなんとも純粋な、それゆえどこか共感も覚える物語。
ある時、姿を消したまま行方が知れなくなったという「阿部定」という女性の存在は、今も多くの表現者たちにインスピレーションを与えて新たな作品を生み出している。
*1:クインシー・ジョーンズの同名曲をこの映画の主題歌だと思ってたほど。