映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

もう一つのブログとともに主に映画の感想を書いています。

「午前十時の映画祭」で『パルプ・フィクション』

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「午前十時の映画祭9」で現在公開中のクエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』(1994)を観てきました。

映画の感想は以前書いていますので、今回はそれ以外のことをちょっと書きます。

ei-gataro.hatenablog.jp

この映画の日本語字幕は初公開時と同じく戸田奈津子さんで、字幕の内容は94年当時とほとんど変わっていなかったけど、いくつか変更がありました。

これはもしかしたらDVD化された時にすでに変えられたものかもしれません。

劇中でユマ・サーマンジョン・トラヴォルタに「あなたって…ね」と手で宙に“SQUARE”を意味する四角を描いて「四角四面」と訳されているところは、以前は「イケズ」となっていた。

また、タランティーノが自ら演じるジミーがジュールス(サミュエル・L・ジャクソン)とヴィンセント(ジョン・トラヴォルタ)にブチギレる場面のやりとりは、以前は、

ジミー「俺の家の前に“ニガーの死体預かります”って看板が出てたか?」

ジュールス「いや、出てない」

ジミー「なぜなら、俺の家はニガーの死体は預からねぇからだ」

となっていたのが、今回は「ニガー」がなくなっていた。

この場面以外にもジュールスの口から「ニガー」という単語は何度か発せられていたけど、もともとは表記されていたこの映画の字幕からはすべて取り除かれている。

アフリカ系の人たちに対する差別用語だから不適切だということだろうか。

いや、94年当時だって別に「適切な単語」ではなかったんだが。

時代の変化で字幕の訳し方が変更されることはあるだろうし、それに異を唱えたいわけではないのだけれど、訳を変えることで微妙なニュアンスが失われる場合がある。

パルプ・フィクション』では台詞の中でハッキリと「ニガー」という差別用語が使われているんだから、字幕からそれを消してもあまり意味がない気がする。

気軽に口にすべきではない単語であることをわかっててわざと使ってるんだし。

それとは別に、マリア・デ・メディロス演じるファビアンがブルース・ウィリス演じるブッチに何度も繰り返す「“モンゴロイド・ヴォイス”は嫌い」という言い回しが気になった。字幕では「野蛮な声」と訳されてたけど、なんかこれも差別的なニオイが。

タランティーノって映画の中であえて差別的な言葉を多用するから、これもその一つなのかもしれませんが、なんか油断ならねぇ奴だよな。

…ともかく、あの当時は戸田さんの字幕に馴染んでいたので彼女のちょっと「べらんめぇ調」の言い回しは嫌いじゃなかったし、この『パルプ・フィクション』の安さ溢れる登場人物たちのキャラとも合ってて悪くないんじゃないかと思うんですよね。「友人」のことを相変わらず「ダチ公」と訳すダサさも含めて(笑)

この映画をこよなく愛する人たちには彼女のイカす翻訳は評判が良くないようですが。

なお、この映画では戸田さんお得意の「~なので?」や「かもだが」は使われていません。「~せにゃ」はあったかもだが。

ブルース・ウィリスが乗る「チョッパー」のことを「ヘリ」と訳そうとして町山智浩さんに指摘されたエピソードもありますね。

そういえば、ゼッドの「天神様の言う通り」は「神様の言う通り」に変更されてました。最初からそうすりゃよかったのに^_^; 初公開時から「Why なぜに天神様?」と思ったもんな。

この映画の字幕を読むたびに、字幕もまた映画の印象に強い影響を及ぼすのだということを実感します。

ところで、僕はもともとこの映画が好きで、今回25年ぶりに映画館で観て(DVDで観たのもすでに数年前)やっぱりとても面白かったし、大勢の人たちがこの作品を賞賛しているのもうなずけるんですが、この映画を製作・配給した“ミラマックス”の会社名を見ると、どうしても問題になったハーヴェイ・ワインスタインの性犯罪のことを連想せずにはいられないし(ユマ・サーマンは本作品の公開後や撮影の打ち合わせの時にワインスタインから襲われたことを告白している)、ここでそれを無視すべきではないなぁ、と思います。

タランティーノもまた、まったく無関係ではないのだし(ワインスタインの性的暴行の事実を知っていたがそれを黙認、また『キル・ビル』撮影時に拒否するサーマンに無理に運転させて大怪我をさせたうえ、その事実を隠した、とされる)。

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面白くて自分がお気に入りの映画の裏でこんな醜く酷いことが行なわれていた、という事実にやりきれない気持ちになる。

つい最近、日本でもある俳優が女性への性的暴行の容疑で逮捕されて話題になってますが、彼が出演した過去作が観られなくなってしまうのでは、と心配されてもいる。

一番心配されなければならないのは被害者であることは言うまでもないですが、そのこととは別に、関係者の犯罪や不祥事によってその作品自体が悪い印象を持たれてしまったり、場合によっては封印されてしまうことについては映画の一観客としては複雑な思いがする。

MeToo運動の高まりもあって多くの監督や俳優など映画関係者が性暴力の加害者として告発されているけれど、では彼らが残した作品も否定されるべきかというと、実に悩めるところだ。

性暴力が許されないのはもちろんだし、関係者のそれが発覚した時点で公開や制作が予定されていた作品が中止を余儀なくされるのも当然だろうと思う。

でも、過去の作品もその対象となるべきだろうか。

その作品の裏側でどのようなことが行なわれたのかは、詳らかにされてその記録も残されるべきだとは思いますが。

僕はこれからも『パルプ・フィクション』を観るだろうし、その面白さを公言するでしょうが、その一方でそんな映画を作った人たちがどんな問題を起こしたのか、そのことも記憶していたいと思います。

それはまったく他人事ではないのだから。


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