きわめて個人的なことについての文章で、かなりショボくれた内容です。
以前、映画『桐島、部活やめるってよ』や『幕が上がる』の映画版と原作小説の感想でちょっと書きましたが、僕が高校時代に所属していた演劇部がこのたび廃部になることを風の便りで聞きました。
もともとは美術部にいた先輩たちが80年代の半ばに立ち上げた部だったんですが、ついにその“幕を下ろす”時が来てしまったわけです。
といっても高校を卒業してからもう20年以上経つので直接的には関係がないんですが、やっぱり現在の自分を作り上げた青春時代の想い出の場所がなくなる、というのは少なからずショックで。
自分が引退したり卒業したあとも、演劇部というのはずっと存在し続けるものと勝手に思い込んでいたから。
自分がかつていた場所にも「終わり」があるのだとあらためて思い知った。
そこは僕に「創造」する楽しさを教えてくれた場所だった。
10年ほど前に校舎の全面改築によって取り壊される前に旧校舎の見納めということで文化祭にお邪魔したんですが、これでとうとう想い出深い部室や校舎が消えただけでなく、僕の人生における一つの“歴史”が幕を閉じるのだ。
母校の演劇部についてインターネットで検索してみても何も出てこない。
僕はもう長らく演劇部とはご無沙汰だったから、これまでの歴代の部員たちの名前も、同学年や一つ上の先輩たちぐらいしかわからない。*1
夏の大会は最高どこまで行ったのかもすでにさだかではない。
僕が在学中に(すでに引退していたが)県大まで行ったことはわかってるけど、それ以降のことは知らない。*2
顧問の先生にも、先輩や後輩たちにも10年前に挨拶してから会っていない。
もう会うこともないかもしれない。
90年代、高校を卒業してからも僕はたびたび演劇部に顔を出していた。
後輩たちの稽古の様子を見学したり、それを8ミリやヴィデオで撮影したりしていた。
当時どこにも居場所がなかった僕には、そこがホームグラウンドのように思えたんだろう。
行けば顔見知りの後輩たちが笑顔で迎えてくれたし、なんだかまだ演劇部の一員のような気持ちになれたから。
やがて物理的に足を運ぶのが難しくなったので、縁遠くなった。
演劇部には楽しい想い出とともに恥ずかしいことや情けないこともいろいろあって、それらをすべて挙げていたらきりがないしずいぶん忘れちゃってもいるんですが、大きな悔いが一つあって、それはあそこで公演のための台本を書いて演出する、という目的を果たせなかったこと。
「幕が上がる」もそうだったけど、“演出”が芝居の台本も書くことになっていて、希望者が自分が書いた台本(それまでは基本オリジナルだったが、途中からは既成の台本でも可になった)を提出して、部員全員で台本決めを行なう。
僕はそこですでに決定した後輩の書いた台本にケチをつけて、白紙に戻させて「俺が書く」と豪語した。
しかし、連日眠らずに机に向かって唸ったが原稿用紙に一行も書けず、締め切りの日に全員の前で詫びて泣いた。
大勢に迷惑をかけただけでなく、その後もずっと尾を引く最悪の想い出になった。
それ以来、僕はなんとかして「自分の物語」を作りたいと思っていた。
高校を卒業して演劇とは無関係な身になっても、何か形のある作品を生み出したかった。
ところが、自分には「物語を作る」才能がない、ということを思い知って、それ以降無駄なあがきをやめた。
「作品」を生み出すには努力と何より才能が必要なのだ。自分にはそれがない。
演劇の台本を書きたい、と頭でいくら念じていたって、ノートや原稿用紙、パソコンに向かって実際に指を動かし文字を綴り文章として残さなければ、ただ「願う」だけでは作品は自動的には生まれない。
けれど、自分の頭におぼろげに浮かぶイメージはこれまでに観た映画とか読んだ小説やマンガなど、すべてどこかから借りてきたものの断片でしかなかった。
今ちまたではいろんな分野で「パクリ疑惑」が取りざたされているけれど、まさしく僕の頭の中には誰かからパクってきたものしかなかった。自分で生み出したものは微塵もなかったのだ。
これまで生きてきてそのことをつくづく痛感した。
それだって、そういういろんな「借り物」をまとめる力があれば、それはそれで一つのオリジナル作品にもなり得るのだが、そういう能力さえも僕にはなかったのだ。
僕にとってシナリオを書くという行為は、中身のないチューブ歯磨きから無理矢理何かを搾り出そうとするようなもので、苦痛以外の何ものでもない。
そんなわけで、自分が作った(つもりでいた)キャラクターや書き始めたいくつもの物語たちは、そのまま形あるものとしてこの世に生み出されることもなく、まるで水子の霊のように僕のまわりをずっと浮遊していた。
今回、かつて僕に「創造」する喜びを教えてくれた演劇部がなくなることで、それらは永遠に行き場を失ってしまった。帰る場所がなくなったのだ。
今年『幕が上がる』という映画に巡り逢ったのは、偶然とはいえ実に象徴的だ。
弱小演劇部の主人公は七転八倒しながら「自分たちの物語」を書き上げて、部員全員で奮起してついに県大会に勝ち上っていく。
あの作品の中には、僕が得ることができなかった「幻の想い出」が詰まっていた。
だからこそ惹かれるんだろう。
中学の時から憧れていた女の先輩に会いたくて同じ高校に入り、彼女が所属していた演劇部に入った。
校舎で寝泊りしながら毎日稽古に励んだ合宿。
同じ部内での恋愛模様。
他校の生徒たちとの交流。
泣いたり笑ったり喧嘩しながらともに学校生活を過ごした先輩や同輩たち。
それらの体験を作品として昇華させたかった。
でももうほとんど思い出せないのだ。
想い出は想い出のまま、形がなくなり、そして記憶からも徐々に消えていこうとしている。
母校の演劇部がなくなる、というのは、僕にとって久しく会っていない“想い人”との死別にも思える。
“あの人”との出会いは、僕には大切なものであり、また呪いのようなものでもある。
“あの人”は行ってしまうのだ、僕を置いて。
もうこの世には“あの人”はいない。
ずっと片想いしていて、なんとか彼女に自分を見てほしかったが、それは叶わなかった。
本当にもう一度「さようなら」と言う日が来たようだ。
30や40にもなっていまだに青春時代を引きずってるのって、心底気持ち悪いと思う。
それでもことあるごとに僕の心は「あの頃」にタイムスリップして、悔しさに歯噛みする。
年々楽しい想い出よりも悔しさや怒りの感情の方が強くなっているのは、現状の自分には何一つやり遂げたり積み上げてきたものがないからだろう。
これまでの自分になにがしかの達成感があれば“今”を肯定できるし、過去は過去できちんと切り離して考えられるはずだ。
自分にはそれがないのだ。だから今も過去に囚われている。
あらためて別れを言おう。
彗星のごとく現われて、その美しく妖しい輝きはいつも僕を照らしていた。
そして、今日のうちに遠くへ行ってしまう私の“故郷(ふるさと)”よ、涙が降っておもては変に明るいのだ。
ありがとう。そしてさらば、青春の日よ。