映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

※2019年の“はてなダイアリー”終了に伴い、2018年9月にブログを移行しました。

『インサイド・ヘッド』


監督ピート・ドクター、声の出演:エイミー・ポーラーフィリス・スミスリチャード・カインドビル・ヘイダールイス・ブラックミンディ・カリングカイル・マクラクランダイアン・レイン他、ピクサーのアニメーション映画『インサイド・ヘッド』。

第88回アカデミー賞長編アニメーション賞受賞。

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11歳の少女ライリーはミネソタから両親とともにサンフランシスコに引っ越してきた。彼女は努めて明るく振る舞っていたが、本当は地元で仲良しだったメグやアイスホッケーの仲間たちと離ればなれになったことが辛くて堪らない。一方、ライリーの頭の中では、「ヨロコビ」をはじめとする5人の感情たちが“司令部”で日夜ライリーの行動を見守り、彼女が無事に成長し続けられるように働いていた。ところが、感情の一人「カナシミ」がライリーの大切な思い出に触れたために彼女は悲しみに囚われてしまう。


ピクサーの映画を観るのは2013年公開の『モンスターズ・ユニバーシティ』(感想はこちら)以来2年ぶり。

すべてではないけれど、ここ数年のピクサー映画はわりと観てきました。

だからこの映画も普通に楽しみにしていたんですが、僕の住んでるところでは日本語吹替版しかやってなくて、しかもどうやら映画の前にドリカムのMVが付いててそれがすこぶる評判が悪いようなので、映画館で観るのやめてしまったのでした。

僕はドリームズ・カム・トゥルーのお二人には個人的になんの恨みもないし、また、吹き替えを担当した竹内結子さんや大竹しのぶさんのことだって、別に彼女たちに対して悪い印象を持っているわけではないです。それは前もってお断わりしておきます。

竹内さんの出演した映画やTVドラマはほとんど観たことがないけど、彼女が見せる竹を割ったような溌剌とした演技はこの映画のヒロインにはピッタリだと思うし、実写映画『海街diary』(感想はこちら)での大竹さんの演技もよかったし。

ただ、ご本人やファンのかたには申し訳ないんですが、僕は大竹さんがヒロインの母親の声をアテてたジブリの『借りぐらしのアリエッティ』(感想はこちら)での彼女の声の演技が生理的にアウトで。

あれはご本人のせいというよりも、あの演技にオッケーを出した監督のせいだと思いますが。

あの映画では、アリエッティの老け顔のお母さんが特徴ある“大竹しのぶ”の声で慌てふためく姿がひたすら目障りかつ耳障りで、だから今回も大竹しのぶが声を担当、という時点で絶対に字幕版を観ようと思っていたのです。

ところが吹替版しかやってないときた。

かなり遠くの映画館まで調べてみたんだけど、県内には字幕版で上映している映画館は1館もありませんでした。

どーゆーことだよ!!


ここ何年かの間、日本の配給会社はピクサーやディズニーに限らず洋画が日本で公開される時に不快な日本版の予告篇を作ったり、*1芸能人による吹き替えがあまりにヒドかったり、オリジナル曲を勝手に日本版の歌に差し替えたりと、いろいろ腹立たしいことをやらかしてくれてるんでいい加減頭にキてるんですよね。

それらは観客が求めているからじゃなくて、すべて売る側の都合によるものだから。

いらないでしょ、日本のミュージシャンのMVとか。*2

そうやって本来映画本篇とは関係ない人たちを無理矢理抱き合わせてくるのがほんとに我慢ならない。

そういうのどうしてもやりたいのなら、それこそ劇場ではなくてDVDの映像特典にでも入れればいい。金取って求めてないものを無理矢理見せるのは暴力だ。

この『インサイド・ヘッド』に関しては、映画館やTVでは竹内さんと大竹さんが喋ってる予告篇がやたらと流れていて、でも僕は吹き替えの人じゃなくて映画本篇の予告が観たかったからそれらを目にするたびにイライラした。ちょうどこの映画の「イカリ」みたいに。

ある女の子の心の中の“感情”を擬人化したキャラクターたちが繰り広げる物語、というのは知ってたんだけど、日本版の予告のおかげで理屈っぽい映画かと思ったんですよね。

最近の日本のアニメの理屈っぽさ、無駄な説明の多さにウンザリしていたんで、その手の作品なら御免だと。

あれはやっぱり日本版の予告篇が最悪ですよ。面白そうだな、観たいな、と思わせるような作りになってないもの。*3

これまでのように普通に映像で物語を紹介してくれれば、あんなに警戒しなかったのに。

なんで洋画を日本で公開する時に最近はやたらと余計な手を加えるの?

予告篇なんてあちらのものに字幕や日本語のナレーションを入れればいいだけじゃん。

…ここまで書いてるのは映画の出来とか内容についてではなくて、それを売る側の日本の関係者に対する文句です。

マジで観客を無視した迷惑千万な商売は速攻やめろ、と思う。

映画そのものはほんとは観たくて仕方なかったんだから。全部つまんないことしやがる奴らのせいだ。反省しやがれ(しねーだろうなぁ)。


で、ようやくソフト化されたんでDVDで観たのですが。

…いやぁ、別の意味で映画館では観なくて正解だったかもしれない。

だって大勢の子どもたちがいる客席で泣いちゃったかもしれないから。おっさんなのに。

といっても、たとえば『トイ・ストーリー3』(感想はこちら)の“号泣!”みたいのとはちょっと違って、じんわり涙が滲んでくるような、そんな映画でした。

まぁ、せっかくなんで字幕版*4と吹替版の両方を観てみました。

僕は基本的には洋画は字幕で観ます。

特にあちらの長篇アニメーション映画はキャラクターの唇の動きと声優の台詞が完全にシンクロしていて、架空の「絵」によるキャラクターによりリアリティが感じられるから。

IMAXとか4DXの時には吹き替えで観ることもあるし、ディズニーやピクサーは吹き替えを丁寧に作っているので*52Dでも吹き替えで観ることにそんな抵抗はないんですが。今回は大竹さんの件とドリカムの件が二つ重なったので敬遠してしまった。


さて、ようやく内容についてだけど、よくもまぁ、こんな映画を子ども向けに作ったもんだと感心する。

だって人の心の中のさまざまな感情の動きを、その中の「喜び」を主軸にして冒険映画として描く、という作業は想像するよりもはるかに困難なものだろうから。

それをこの映画ではライリーの心の中の仕組みの設定なんかも、冒頭で手際よく見せていく。


難しいこと考えなくても、そういうもんだ、と納得して観てしまう。

これ、日本のアニメだったら説明的な長台詞のオンパレードでしょう。

この『インサイド・ヘッド』も基本的にはキャラたちの会話を中心に物語が進行していくんだけど、今の日本のアニメの中二病みたいな作り手による「なんでもかんでも世界や人物、状況すべてを言葉で説明しようとする」稚拙なシナリオ・演出との違いは、あちらのクリエイターたちはキャラクターたちの喜怒哀楽を映像とキャラクターの“動き”で表現すること。解説や説明ではなく“出来事”で物語が進む。

アニメなんだからそれは基本なんだけど、それができていないアニメが日本には多過ぎる。

それと、この映画は「主人公が悪者と戦う」みたいなものではなくて(この映画には“悪役”や“憎まれ役”は登場しない)、“感情”たちは彼らの持ち主である一人の少女が前向きに生きる意欲を失ってしまうことをなんとか避けるために奮闘する。

それは僕たちがしばしば日常生活で直面することだ。寂しさに襲われて笑顔を忘れてしまったり、大切な家族にあたってしまったりすることは誰にでもある。

人生におけるさまざまな困難によって痛みを覚え、やがて身近な家族や他者との新たな関係が生まれる。そしてそれが人の成長に繋がっていく。そういうことを描いている。

僕たち観客はヨロコビたちの目を通してライリーという少女を見守る。


同時に、自分がどれほどの“愛”によってこれまで守られてきたのかも実感することになる。

両親の愛だけでなく、自分の心の中では小さなクリーチャーたちが健気に働いているのだ。

そういう捉え方は、孤独で挫けそうな時に勇気を与えてくれるだろう。

以下、ネタバレあり。


僕は観る前はもっと“感情”たちが司令部でワイワイ騒ぎながらライリーの行動に振り回されたり、逆に彼らがライリーを振り回したりする展開が続くんだとばかり思っていたんだけど(僕は未見ですが、よく引き合いに出されていた邦画の実写映画『脳内ポイズンベリー』はそういう作品なのかな?)、感情たちが全員司令部に揃っているのは物語の序盤で、それ以降はほとんどヨロコビとカナシミ(&ビンボン)が物語を引っぱっていく。

このヨロコビは常にポジティヴなキャラクターなので、いつもネガティヴでやる気もなさそうなカナシミがどんなに勝手なことをやっても彼女はけっしてブチギレるようなことはなく、また物事がうまくいかなくても落ち込んだり投げやりになることがない。

とにかくどんな困難でも自分のモチベーションを下げずに前へ進もうとするその姿が見ていてとても気持ちいい。

それでも最初のうちは陽気でポジティヴ・シンキング、ちょっと騒々しかった彼女がカナシミと行動をともにするうちに変化していく。

頑張ってもうまくいかないことがある。大切なものが失われてしまうこともある。

そのツラさを経験することで、ともすると押しつけがましく感じられなくもない前向き志向オンリーだったヨロコビが、他者への「共感」というものを得てさらに複雑な感情へと進化していくのだ。

ライリーの大切な思い出に触れたために司令部から飛ばされてヨロコビと一緒に行動することになったカナシミは、どんなに「それには触らないで」と注意されても勝手にライリーの思い出に触ったりと、前半ではかなりウザいんだけど、そういう僕たちの意のままにならずに時に勝手に動きだす「悲しみ」の感情をうまくキャラクター化しているといえる。


この“ウザかった”カナシミが、実は大切な“感情”の一つだったことが最後にわかる。

悲しみという感情がなければ、苦しんでいる人に共感したり同情したりすることもできない。

だからこそカナシミには、自分がライリーに忘れられつつあることを悲しむビンボンの気持ちがわかるのだ。

悲しみと喜びが手を取り合って化学反応が生まれ、人はさらに成長していく。

それを「説明」や上からの「説教」ではなく、「物語」として見せていく。

この映画に「悪役」が登場しないのは、実に正しい作劇だと思う。

悲しみに囚われてしまうことや突発的に無謀な行動に走ってしまうことを「悪」だと決めつけてしまうと、それはこの映画が語っていることに反してしまうから。

人の感情は制御が難しくて時に問題を起こしてしまうこともあるけれど、それもすべてひっくるめて大切な心の動きである、ということを語っている。

だから一見「負」の存在にも思える感情も行動も単純な「悪」として描いたりしない。

ライリーは転校先の学校での初登校日の自己紹介の時にみんなの前で泣いてしまって、それからふさぎこむ。新しいホッケーチームの入団テストにも身が入らず、ある朝思い立って故郷の友人たちに会うために学校をサボって家出しようとするが、我に返って引き返し両親が心配して待つ家に帰る。

彼女に起こった出来事はたったこれだけのことだが、それは無駄な経験ではないし、両親の前で顔を歪めて泣きながら想いのたけを語ったことも、彼女にとっても両親にとってもかけがえのない経験になるはず。

大切だった思い出が消えていくこと、幼い頃からの友人との関係に亀裂が入ること、両親と揉めること。

続いていたもの、楽しかった時間が終わってしまうことはとてもツラいが、その経験自体は無意味でも無駄でもなくて、ライリーがさらに成長していくうえで必要な糧なのだ。

お父さんもお母さんもけっしてライリーに対して横暴でも無関心でもなく、むしろ親バカなくらいに娘への愛情に溢れた両親だが、それでも彼らはライリー本人ではないから四六時中彼女のことだけに関心を向けてはいられないし、そんな必要もない。


お父さんの頭の中はサッカー中継のことで一杯だったり、お母さんは時々空想の中でラテン系の色男に夢中になることで憂さ晴らしをしている。

そのどこにでもいる家族の丹念な描写がとてもいい。

何よりもライリーの表情。



アニメだからもちろん顔つきはデフォルメされた造形だけど、『アナと雪の女王』(感想はこちら)のヒロインたちみたいな整ったお姫様顔じゃなくてちょうど『アイアン・ジャイアント』(感想はこちら)の主人公の少年のように前歯が左右で非対称で愛嬌があって、彼女が劇中で見せる数々の表情は誰もが日常でふとした拍子に見せる生身の人間の表情をきわめて写実的に再現したものだ。

ライリーは見た目が奇抜だったり特別に秀でた特殊な能力があるから主人公なのではない。ただのホッケー好きのスポーツ少女だ。しかも彼女のホッケーの腕前がどうなのかということと彼女という存在のかけがえのなさは関係がない。

自分のシュートの失敗でアイスホッケーの試合に負けて泣いているライリーに寄り添って肩を抱いてくれた両親にとって、娘はそこにいるだけで大切な存在。

ライリーと彼女の笑顔が、日々生活に追われて気が立つこともあるパパとママに安らぎと生きる希望を与えていた。

子を持つ親や親を持つ子ならば、身に覚えのあることじゃないだろうか。

また、ミネソタのホッケーチームのみんなもそれぞれが悔しさや悲しさを知っているからこそ、試合に負けてもライリーを胴上げして励ましてくれたのだ。

人生は勝ち負けじゃないとか、愛が一番大事だとか、ナンバーワンじゃなくてオンリーワンだとか口で言うのは容易いけれど、この映画はそれを言葉だけじゃなくて“描写”でしっかりと表現している。


リアルな題材ではあるけれど、シリアス一辺倒ではなく適度に笑いもまぶしてあるから(これも日本のアニメに不足がちな要素)観ていてしんどくならない。

ライリーに声をかけられて固まってしまう男の子の頭の中で「女の子!女の子!」と警報が鳴るところは笑いましたw そうそう、奥手の男の子の頭の中ってああだよね、と。

感情たちの顔はヨロコビやカナシミ、イカリにビビリにムカムカの顔は誰でも共通していて、でも顔は同じでも持ち主によってそれぞれ髪型や性格、役割が異なっているのが面白い。


そして“イマジナリー・フレンド(空想上の友だち)”ビンボンとの再会と別れ。


捨てられた思い出が次々と消えていく奈落の底に落ちたヨロコビとビンボンは、ライリーが幼い頃に空想の中でビンボンと遊んだ歌のパワーで空を飛ぶガラクタ製のロケットで飛び上がろうとするが、何度挑戦しても二人の重さで墜落してしまう。

そして3度目にロケットが飛び立つ直前に、ビンボンは自ら飛び降りてヨロコビ一人を送りだす。

ここはかなりの落涙ポイントでした。

物心つく前から僕たちといつも一緒に居てくれた心の中の友だちは、ああやって僕らの成長を後押ししてくれながら僕たち自身が気づかないうちに消えていったのだ。

空想上の生き物はピンクの象の姿をしてるのって、元ネタはどこからきてるんだろう。ディズニーの『ダンボ』?それ以前は?

ビンボンがヨロコビにライリーを託して消えていく場面は『トイ・ストーリー3』のラストに似ているけれど、「別れ」というものを単なるお涙頂戴の道具にするんではなくて(“ドラ泣き”とか謳ってた某日本製CGアニメの作り手たちは、この映画の爪の垢でも煎じて飲んだらどうだろうか)人生における必然的なものとして描いている。本当に誠実な姿勢だと思う。


僕はこの映画によって、ピクサーは『モンスターズ・ユニバーシティ』で達成された「悪役を倒してめでたしめでたし」という従来のこういうジャンルの映画からの脱却の、さらに先まで進んだと思います。

大好きな『トイ・ストーリー3』にはググッと感動の涙がこみ上げてくる場面がいくつもあったけれど、映画の中で描かれる「主人公たちが陥る危機が“悪”ではない」という視点においては、『インサイド・ヘッド』はあの作品さえも超えている。

吹き替えもよかったですよ。特に声優ではないにもかかわらず、竹内結子さんの声の演技はかなり達者でした。

あと、吹替版ではビンボンの声を佐藤二朗が担当してるんだけど、声や喋り方がスゲェ『アナ雪』のオラフ役のピエール瀧っぽかった。どっちがどっちを演じてもわかんないぐらい。

わざとそういう声の人選んでるの^_^;?

そして大竹しのぶさんの演技もお見事で、オリジナル版のカナシミに声や口調がとてもよく似ていた。事前に知らなければカナシミを大竹さんが演じているとは気づかなかったかも。『アリエッティ』はやっぱり演出の問題だったようですね。おみそれ致しました。

でも、僕はやっぱりできれば最初はオリジナルの音声で観たいので、これからは映画館で字幕版もちゃんとやってください。*6


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*1:一般客の「泣きました!」コメントとか、いまだに「全米が泣いた」という情けない惹句を恥ずかしげもなく使ったりと、宣伝の担当者は日本の観客を舐めてるとしか思えない。

*2:字幕版でもドリカムのMVは強制的に見せられた模様。拷問か。

*3:公開が始まってしばらくすると本篇が映し出されるヴァージョンも流れたけど。

*4:映画を観たあとでオリジナルキャストを確認したら、ライリーの両親の声をやってたのカイル・マクラクランダイアン・レインだったのね。さすがに声だけではわからなかった。

*5:ディズニーは実写版アメコミヒーロー物の吹き替えは最悪との話ですが未確認。

*6:その次の最新作『アーロと少年』も日本語吹替版しかやっていない模様。あ~あ。