監督:高畑勲、声の出演:朝丘雪路、益岡徹、荒木雅子、五十畑迅人、宇野なおみ他。スタジオジブリのアニメーション映画『ホーホケキョ となりの山田くん』。1999年作品。
原作は、いしいひさいちの同名の4コマ漫画(のちに「ののちゃん」に改題)。
矢野顕子 - ひとりぼっちはやめた
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山田家は、たかし(益岡徹)、まつ子(朝丘雪路)の夫婦と、のぼる(五十畑迅人)、のの子(宇野なおみ)の二人の子どもたち、そしてまつ子の母・しげ(荒木雅子)による5人家族(+犬のポチ)。彼らの悲喜こもごもな日々を綴る。
最新作『かぐや姫の物語』(感想はこちら)の公開に合わせて『火垂るの墓』(感想はこちら)以降の高畑監督の過去作が金曜ロードSHOW!で放映されましたが、1本だけ完璧に無視された作品、それがこの『ホーホケキョ となりの山田くん』である。
ジブリ作品としては興行的に振るわなかったため、「失敗作」「黒歴史」と陰口も叩かれるこの映画は、これまでに金曜ロードショーでは2000年に1度放映されたきりで、最新作の前の作品なのにこの機会にすら頑ななまでにやらないってことは、どうやら日テレは今後も『山田くん』を放映するつもりはないようで。
ちょっとあんまりな扱いだと思うんですが、23億円かけて作ったにもかかわらず儲けが8億足らずだったこともあって関係者にはよっぽどトラウマになったとみえる。
なんか「地上波では二度と放映しない」とかペナルティでも科せられてるんだろうか^_^;
その後、高畑勲が長らく映画を作れなかったのは、『山田くん』でのスタッフの消耗ぶりが尋常ではなかったせいもあるらしい。
どんだけスタッフ酷使したんだ、パクさんσ(^_^;)*1
まぁそんないわく付きの映画ですが、久しぶりに高畑監督の作品を通して観て『かぐや姫』にも涙した今年中に再見しておきたいと思ったので、DVD借りてきました。
ジブリ作品をDVDで観るのはかなり珍しいんですが。
僕は13年前のTV放映時には観ていないので、劇場公開以来14年ぶり。
さて、映画の感想にいく前にまた寄り道しますが、「山田くん」と聞いて僕なんかは子どもの頃に観ていた同じいしいひさいち原作のTVアニメ「おじゃまんが山田くん」を思いだします。
おっじゃまじゃまじゃま~おじゃまんが♪っていう、ウッチャンナンチャンの南原清隆が替え歌で「オッカマカマカマ~、カマ拳法♪」ってパロってたあのw
「カランカランカラ~ン、イイ人ね カランカランカラ~ン、イイ人よ♪」って主題歌はよく覚えています。
同じ山田姓ながら『となりの山田くん』とは家族構成も登場キャラクターも異なる別の作品だけど、世界観は当然似ている。
もっとも「おじゃまんが」の方は両親、長女夫婦、子どもたちに孫娘という8人同居世帯(最終的には9人)で、サザエさん一家よりもさらに大家族。
子どもたちは、結婚して娘(さなえ)がいる長女の他は男ばかりで、浪人中の長男に高校球児の次男、中学生の三男と、各世代に渡る。
それは放映されていた1980年代でさえ、すでにあまりない形態の家族像だった。
とはいいつつも、大人たちの滑稽なやりとりなどは「サザエさん」のリアル版といった感じで、ほのぼの系ではあるもののどこかシニカルな視点があって、哀愁漂うオチも散見した記憶がある。
「山田荘」に住む老け顔の大学生トリオがレギュラーキャラとしていい味出していた。
今思えば、小学生がよくあんなシブいアニメ観てたよなぁ、と不思議だけど、毎週普通に観てたんだから子ども心に面白いと感じていたんでしょうね。
同じ時期にやってた「じゃりン子チエ」(高畑勲がチーフディレクターと劇場版の監督も務めている)とともに、「子ども向け」という体裁をとりながらけっこうシビアな世界が描かれていた。
ああいうTVアニメは今はもうないのかもしれないですね。最近TVでアニメ観ないんでよく知りませんが。
おっさんが主題歌唄うとか(「チエ」もそうだったが)、今だったら絶対やんないだろうなぁ。
作詞・作曲は「タイムボカン」シリーズの山本正之だから、毒と哀愁があるのよねw
なので、今回の映画『ホーホケキョ となりの山田くん』とは似た世界観なだけに、その差異が際立つ。
どちらかといえば、『となりの山田くん』よりも「おじゃまんが」の方がいしいひさいちの原作漫画のテイストに近かったんじゃないだろうか。
別に、だからどちらが優れているとか劣っているとかいうことではないんですが。
『となりの山田くん』は、おばあちゃんと同居している5人家族、ということで、見た目は「おじゃまんが」よりも現代の一般家庭の姿(平均的な家族像)に近くはなっている。
でも僕はこの映画に、80年代の「おじゃまんが」よりもいっそうファンタスティックというか、ふた昔ぐらい前の理想化された家族を見ている感じがしたんですよね。
せんべいかじりながら居間でくつろいでたり息子に内緒でうどん食べてるステレオタイプの主婦像、そして一緒に暮らす彼女の母親はまだ70歳なのにまるで「いじわるばあさん」のような風貌の昭和30~40年代風の老婆、夫はこれまたあいかわらず大昔からかわり映えのしない「しがないサラリーマン」(そのわりには妻に「おい、お茶!」とか時代錯誤な亭主関白ぶりを発揮)。
会社から自宅に私的な電話とか、雨の日に旦那のために駅に傘持っていくとかさぁ…。
一体これはいつの時代の話なんだ。
『山田くん』ってこんな古臭い映画だったっけ。
玄関の蛍光灯が切れたから息子の電気スタンドから拝借する描写など、庶民派ぶってはいるけれど、そこで描かれているのは実は現在の庶民の生活なんてよく知りもしない人間の乏しい想像の産物のようだ。
昭和が舞台なのかしら。でもプリクラ出てくるけど。
今回久しぶりに観始めて、わりと好きだったと思っていた高畑勲のこの映画にちょっと乗り損ねてしまっている自分に気づいたのでした。
いや、この監督さんの映画がただ単に「いつとも知れない時代のイイ人たち」を描いてそれでおしまい、なんていう『ALWAYS 三丁目の夕日』みたいな話で終わるはずはないだろう*2、と思いながらさらに観続けました。
ではこれ以降、映画の内容について書いていきますので、未見のかたはご注意ください。
映画が始まってまもなく、長男で中学生ののぼるは「どうして勉強しなければならないのか」「違う両親から生まれればよかった」など、ボンクラ少年が必ず一度は考える疑問に悩まされる。
のぼるは今見るとちょっとウツっぽいというか「自分探し」をしちゃいそうな危うさのある少年で、「誰にも親は選べないんだ」という両親に「そんなの納得できないよ」と言って、「あなたは誰、僕はどこから来たの。ここはどこ、僕って誰」とブツブツ呟きながらノソノソと居間を立ち去る。
映画のしょっぱなからなんだ、この「エヴァンなんちゃら」みたいな話は^_^;
意識的に当時話題になった「悩める中学生」を描いてみたのかもしれませんが。
たかしとまつ子は、そんな息子の言葉に自分たちの結婚式のこと、子どもたちを授かってともに生きてきたこれまでを思い返す。
そして、ミヤコ蝶々が声をアテる親族のおばあさんが若かりし頃のたかしとまつ子の結婚式で語る、「独りきりで頑張り抜くのはキツいが、かなりええかげんな男女でも二人だったらたいがいのことは切り抜けられる」「人生の荒波を乗り越えるためには、子どもほど励みになるものはない」という教え。
この言葉を肯定的に捉えられればいいが、「なかなかそう都合よくいくとは限らないよな」と考え込んでしまうとツラい。
ミヤコ蝶々のあの口調で言われると、ちょっと楽な気持ちになるのはたしかだけれど。
キャベツ畑で生まれた赤ちゃんたちがコウノトリに運ばれて飛んでゆき、川をどんぶらこと流れてきた大きな桃の中からはのぼるが誕生、たかしが竹林の竹を切ると中から“かぐや姫”の格好をしたのの子が現われる。
子は宝。
ちなみに、ミヤコ蝶々ご自身は2度結婚、離婚されてますが。彼女は生半可な「ええかげんな人」じゃなかったんですね。人生山あり谷ありだった人の口から発せられる言葉だからこそ、それは真実のように聞こえもするし皮肉ともとれる。
そしてミヤコ蝶々さんは、この映画の公開の翌年に80歳で死去。合掌。
このあとに、のの子がデパートで迷子になるエピソードが続く。
車に乗って家に帰る途中で、デパートにのの子を置いてきたことに気づく山田家の面々。
『ホーム・アローン』じゃあるまいし、5人家族で一人いないのに気づかないなんてことがあるかよ、とか、道路で車から「道を空けてくれませんか、娘が誘拐されそうなんです」なんて口走る親父がいるか?とも思うが、ほとんど「サザエさん」的な強引なノリで無理くり描ききる。
一方、のの子は独り置いてけぼりになっても動じない。
同じく母親とはぐれた男の子に話しかけると、彼は「知らない人とはね、お話したらね、ダメ…」と消え入りそうな声で答える。
「知らぬ人、声かけられたらまず用心、ってヤツだね。偉いなぁ、君は。用心したんだもん、もうお話しても大丈夫だよ」と言って、デパートの店員に男の子の親を呼び出ししてもらうのの子。
店員から「あなたは?」と聞かれて、のの子は「家族が迷子」と答える。
慌てて戻ってきた家族と入れ違いに、のの子は知り合いのおばさんの車で走り去る。
誘拐されたのでは?と大騒ぎの山田家に電話があって、のの子は知人宅で晩ご飯までごちそうになっていたことがわかってホッ。
これも、今だったら(公開当時の90年代末だって)ちょっとないだろう。
映画の中でも「だからケータイ買おうって」とあるように、まず電話で確認とるだろうし、ケータイがないとしてもしばらくすれば親が迎えに来るはずなのに、連絡がつかないからって他人の子どもを勝手に車に乗せて帰ったりしないと思う。
昭和40~50年代頃にはあったかもしれない光景ですね。まだお隣ご近所の付き合いが濃密で互いに信頼し合えていた時代には。
で、家族みんなで、そ~のうちなんとか、な~るだ~ろう~あっはっは♪ by 植木等 と唄って終了。
…う~ん。
頼まれた買い物を覚えきれない夫とか、中華料理屋で「早く決めろ」とせっつく夫に「そういうお父さん、決めてまんのんか」とコテコテにもほどがある関西弁で尋ねる妻、しかし妻が決めると夫は即座にそれと同じものを2つ注文する、みたいな「あるあるネタ」が延々と続くのだが、それがもう“いにしえ”の香りを漂わせていて、だんだんしんどくなってきた。
ハッキリ言って、クスリともしなければほっこりもしない。
オチらしいオチすらないものもある。
そこはかとない「おかしみ」を狙ってるのかな。“わび”“さび”みたいな。
この映画について「映画館で観て、物凄くつまらなくて腹が立った」と感想を述べてる人がいて、僕はなんとかそういう批判に対してこの映画を擁護しようと思っていたんだけど、ヤバい、これはほんとにつまらんかもしれない、と感じてきた。
高畑勲の映画でここまでピンとこないのは初めてだ。
映画館で僕は一体どういう心持ちで観ていたんだろうか。
この映画で描かれる山田さんちの人々は、「サザエさん」と同じように今の時代の“平均的な庶民”からはずいぶんとかけ離れた生活感覚の持ち主たちで、そこに心地よさを感じられるか違和感しかおぼえないかで作品に対する評価もかなり違ってくるかもしれない。
子どもたちの年齢を考えると山田夫妻は見た目に反してそんなに年配ではないはずだが、彼らが住む土地は妻・まつ子の母・しげの名義で、家はたかしの稼ぎで建てたという話が出てくる。
金持ちではないが一戸建て住まいだし、あの世代としては比較的余裕がある方だろう。
「うまいことすれば親の土地と建物もあてにできるかも」というミヤコ蝶々の言葉も、そのどちらもない人間にしてみれば「いい気なもんだ」と思えなくもない。
現実では遺産のことなんかよりも、狭い家と乏しい蓄えで年老いた親の面倒をどう見るかということの方がよっぽど切実な問題だろうに。
「人生の中では大嵐や激流よりも“なぎ”のときが一番危険である」というのは一面では真理かもしれないけれど、やっぱり大嵐や激流は何より怖ろしいだろう。
僕は、これらは全部「人生」をある程度無事切り抜けてこられた人が言ってる言葉だと思うのだ。
しかし、それはいまだ荒波にもまれながらの航海の途上にある人間にとっては気休めでしかない。
何年か前に、この映画の中でのの子の担任の藤原先生(主題歌を唄ってる矢野顕子が声を担当)が「今年の決意」として習字紙に「適当」と書いて黒板に貼るシーンについて、友人が発した「なんかああいう姿勢が好き」というような何気ない発言にカチンときた僕は、彼に思いっきりカラんでしまったのだった。
「適当」というのは、ここではおそらく「ええかげん」のような意味で使われてるんだろうけど、本当に「テキトー」な人間はわざわざ「適当」を標榜したりしない。
ほんとはマジメな人間がテキトーぶってるような姿は鼻持ちならない。
そういう人ほど、ホンモノのテキトーな人間≒なまけ者がまわりにいたら顔をしかめるくせに、と。
その友人はマメでいつも真面目に忙しく働いている人なので、たまには肩の力を抜いた「適当」という生き方に憧れがあったんでしょう。
ただそれだけのことを呟いただけなのに妙な難癖つけられて、きっと「めんどくせーな、なんだよコイツ」とイラッとしたことだろう。その後、本人に確認してないけど。
…まぁ、俺がどうかしてたんだな。友人には申し訳ないことをしました。
ただ、「真面目な人間だからこそ“テキトー”に憧れるんだろう」という考えは今でも変わってなくて、たとえば金持ちが「質素な生活」に憧れるとか、都会の人が田舎に憧れるとか、そういう胡散臭さがある。
『山田くん』のこの女性教師は授業中でもいつもやる気がなさそうな態度で、そういうパンキッシュな姿が面白いってのはわかるんだけどね。
でも現実にそんな先生がいたら、速攻で生徒の保護者から吊るし上げられるんじゃないかな。今なら特に。
いしいひさいちが生み出した『山田くん』のそういう戯画化された世界にいちいち文句言ったってしかたないんだけど、原作にはあるボケとツッコミの面白さがほとんどないこの映画版(原作漫画をそのまま映像化してるのかもしれないけど、ギャグが壊滅的なほどに笑えない)では、高畑勲によってさらに山田家が聖家族のごとく理想化されている。
ミヤコ蝶々の含蓄のあるお言葉も、人生経験が乏しく未熟な僕にはいまだに「そうだよなぁ」とは同意しかねるのだ。
もしかしたら僕の友人がそうだったように、この映画が「好き」だという人は一所懸命頑張ってて毎日を忙しく生きてるからこそ、フィクションの中のこういう「のほほん」とした雰囲気を愛せるのかもしれない。
ぐーたらな僕が「適当」の一件にムカついたのは、ほんとにぐーたらな人間にはそんな心の余裕なんかないからだ。
観ててまず思ったのは、「これはたしかにヒットしないだろうな」ということだった^_^;
だって、まるで『ギブリーズ』(キャラクターデザインは、同じくいしいひさいち)みたいな絵柄で、映像にも話にも余白の多いこんな映画を観客がこぞって観にくるとは思えないもの。
あくまでも「ケ・セラ・セラ(なるようになるさ)」といった体の、さらさらっとスケッチしたような世界なのだ。
だから、この題材で製作費が23億というのはどうなのか?というおおいなる疑問はある。
「こんな落書きみたいな絵のどこにそんな大金かけたんだ」というツッコミも理解できるし、何よりも映画の内容とそれにかけた膨大な予算の額が釣り合っていないんじゃないか、と。
お茶漬け1杯に何十万円もかけた、みたいな違和感。
特に日本においては、アニメーションというのは実写よりも安価で作れるから量産されているということもあるのだが、ジブリ、とりわけ高畑作品ではその常識は通用しない。
23億かけられる邦画というのは、今だって実写映画にすらそうそうない。
長篇アニメーションで「登場人物と背景の絵を同一の質感で描く」「墨のような輪郭線や水彩画のような淡い色合い」というのがいかに技術的に大変なのか聞き知ってはいますが、そうやって手間ひまかけて作られた映像には見た目の派手さやゴージャス感はないから、そりゃ「物凄くつまらなかった」と文句言ってる人がいるのもわかる。
同様のツッコミは最新作の『かぐや姫の物語』にもされていて、Twitterで「黄桜のカッパのCMみたいなアニメに50億もかけるな」というツイートには笑いました。
なので、これはもう高畑勲のクリエイターとしての“狂気”による産物としかいいようがない。
僕は高畑監督の作品が好きだからそれを否定したくはないですが、自分のこだわりのために金を湯水のごとく使うということでは、もしかしたらかの黒澤明に近いのは宮崎駿よりも高畑勲の方なのかもしれない。
良くも悪くも器用貧乏が多い日本映画界の中で(それが美点でもあるのだが)、これだけ躊躇なく映画に金をつぎ込めるクリエイターというのはなかなかいない。
それだけとっても、“世界のクロサワ”がそうだったように、タカハタは結局は特権的なブルジョワの人であって一般大衆ではないのだ。
『となりの山田くん』の中で使われている俳句を詠った芭蕉も与謝蕪村も山頭火も、貧民ではなく金持ちの家の子息だったり経済的にそれなりに恵まれた環境にあった人たちで、その後みずから選んだ生活は大変だったにせよ、選択肢があった時点で選ばれた存在だったといえる。
高畑勲と宮崎駿という両巨頭に共通しているのは、二人とも高学歴のお坊っちゃんだったということ(高畑は東大文学部卒、宮崎は学習院大卒)。
そんな彼がどんなに『おもひでぽろぽろ』(感想はこちら)で農業の大切さを、『平成狸合戦ぽんぽこ』(感想はこちら)で反環境破壊や民衆の団結を熱っぽく訴えようと、どこか“当事者”を俯瞰で見ているように感じる。
本当にテキトーな人間が「適当」に憧れたりしないように、あるいは質屋の息子で精神的な高等遊民(こういう表現に抵抗をおぼえるかたもいらっしゃるようですが、否定的な意味で使っているのではありません)だった宮澤賢治*3が、農民たちの苦境を憂いて「空想的農業」にのめり込んだのとどこか通じるものがある。
高畑さんは「巧い」作家だから、なかなか馬脚を現わしませんが。
そして、バブル期に才能も技術もない人間が大予算をかけて作った「大作映画」がことごとく成金の浪費だったのとは違って、これまで高畑勲が作った映画は黒澤作品同様に非常にクオリティが高い。
たしかな技術を見極めて采配を振る彼のセンスは本物だった。
大向こうにウケるかどうかは別として(大衆娯楽である映画では、それはけっこう重要なんですが^_^;)、さすが金をかけただけのことはある作品に仕上げていた。
宮崎駿の作品とともに高畑勲の作品が時代を越えて支持される証左でもある。
しかし『となりの山田くん』について、技術的な面はなんとか評価できても「絵は凄いんだろうけど、お話がつまらない」という身も蓋もない批判に関しては、僕は今回観直して残念ながら同意してしまうところはある。
「絵は凄い」どころか、この題材でなぜこの手法でなければならないのかもよくわからない。
ストーリーは4コマ漫画をほぼ数珠つなぎにしたオムニバスのような形式で、それらには一応話の流れとしての関連性は持たせてあるしときどきちょっと趣向を凝らしたエピソードが挟まれるものの、基本小ネタが延々と続くので観ていて疲れてしまった。
30分ぐらいのTVアニメとしてならともかく、それで104分は長い。
どのエピソードも極端に短くてたわいないもので、さっき言ったようにこういう微温的な「劇的なことは何も起こらない日常のあれやこれや」の描写が好きな人はいいかもしれないが、こちらとしては大笑いできるわけでも身につまされるわけでもないため、「…いつ面白くなるんだろう」とひたすら困惑しながら観続けるしかない。
これは退屈だ、たしかに。
DVD早送りしたくなってきた。
ってゆーか、「ジブリ映画の中でこれが一番好き」って言ってる人、すげぇな!!
もう一度ハッキリ言いましょう。
これはコケるってσ(^_^;)
少なくとも、独り身の人間が観るものではないな。
『となりの山田くん』の配給がいつもの東宝ではなく松竹なのは偶然だが、かつては「家族モノ」を得意とした松竹でこの映画が配給されたのは興味深い*4。
松竹の『男はつらいよ』の監督・山田洋次は寅さんのようなフーテンではなく高畑勲と同じ東大出身だし、彼の大先輩で『東京物語』などの小津安二郎はその作品の中でしばしば山の手の人々を描いた。
“余裕”がある作品を創れるのは、余裕がある生活を経験したことがある者なのだ。
ただ、高畑さんは「となりの山田家」よりももうちょっと経済的に裕福な家族を描いたらちょうどよかったのかもしれないな。
僕が高畑勲の1つの到達点だと思っている『火垂るの墓』の清太と節子も、いいとこの子どもだった。あの映画は、当時としては恵まれた環境にいた子どもたちが貧しく不自由な生活に堪えきれずに死んでいく物語だったのだし。
まつ子の声をアテている朝丘雪路は東京出身ながら関西弁がなかなか達者でいい感じだけど、でもこの人だって実際は“庶民”とはほど遠いからね。
※朝丘雪路さんのご冥福をお祈りいたします。18.4.27
ところで、この映画は舞台となっているのがどこなのか劇中で明言されないが、しげとまつ子の親子は関西弁なんだけど夫のたかしや子どもたちは標準語(関東弁)。
だから東京なのかと思えば、ご近所やしげの昔なじみ、おまわりさんやチンピラたちはみんな関西弁を喋る。
じゃあ、「じゃりン子チエ」のときみたいに関西が舞台なのかというとそれもさだかではなく、学校の先生もデパートの店員も迷子になった男の子やのの子の家に野球のボールをとりにくる小学生たちもみんな標準語だし。
どこなんだここはw
かつて「おじゃまんが」の舞台が、原作の「大阪市東淀川区」からアニメでは「東江戸川三丁目」という架空の地名に変更されたけど、その名残りかなんかなんでしょうかね。
関東人と関西人がエリアごとに棲み分けられている不思議な土地。
それとも、この世には存在しない場所なのか(;^_^A
なかなか面白くならないんで観てるうちにかなり不安になってきたんだけど、山田夫妻がTVのチャンネルの争奪戦のあといきなり社交ダンスを始めたり、まつ子さんの「勉強しなはれ」の大合唱とか、桜を見ながらしげさんが「この桜もあと何回見られるやろか…30回ぐらいやろか(ばばぁ、100まで生きる気マンマンである)」と言うと、まつ子がボーリングのピンみたいにぶっ倒れるとこなどリアリズムを超越した漫画的表現にはちょっと笑えたり、雨の中、お父さんに家族が傘を持ってくるエピソードに矢野顕子の歌が重なるとふと潤んだり、夜遅く帰ってきてやつれた顔でひたすらバナナをモグつくお父さんに妙な哀愁が漂ってたり、魅力的な場面もないではない。
「正義の味方」のエピソードで、急に絵柄が劇画タッチになるのがブキミ。
あやしげな関西弁で凄む珍走団。
結局まつ子とともに踊りながら乱入したしげ婆ちゃん(この場面、なんかコワい^_^;)の機転でなんとか血を見ずに済むのだが、ここはいかにも説教臭くて、あぁ、なんか山田洋次の映画を観ているようだ、と。
月光仮面の場面はなんとなく印象に残ってたけど、あらためて観てみると、珍走団の騒音を注意できずにビビってしまった父親が空想の中で月光仮面に変身してスクーターに乗って悪をやっつける、というとても空しいお話でした。
その後もまた小ネタが続き、結婚式での祝辞でよりによって「人生あきらめが肝腎です」という一言。
これがこの映画のテーマなのかσ(^_^;)
いや、ひとりぼっちよりも家族と一緒がいい、ってことでしょうね、多分。
そして、
ケ・セラ~セラ~なるように~なる~♪
未来は見えない~お楽~しみ~♪
このミュージカルシーンは好きなんですが。
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ちなみに、最後にほんのワンシーンだけ出てきた「適当」の先生は、別にやる気なさげな態度ではなかった。
…あれ?それは原作漫画の方だったのかな。
いずれにしろ、14年ぶりに観たこの映画の例の場面は、別に僕がキレる必要もないようなささやかなものでした。
ケ・セラ~セラ~♪
いやぁ、かなり戸惑っています。
なんというか…ほのぼのとしててホロッとさせて、みたいな作品だったと記憶していたんだけど、どうも僕が思い込んでいたものとは違ったようで。
一言でいうと、ちょっと怖かったです。意外と暗いし。
美術館で現代アートをみつめているような、そんな気持ちでした。
見ているうちに、その単純な線や色が怖ろしくなってくるような。
でも『かぐや姫』の50億には納得できるけど(ってしかし考えれば考えるほど凄い金額だな)、いくらアートだとしてもこの映画に23億もかかってるのはやっぱりおかしいと思う(^_^;)
最後はケ・セラ・セラと矢野顕子の歌で「なんかいい映画だった」よーな気にもなったけど。
ショックだったのは、僕はこれまで高畑勲の映画はそのすべてが「面白かった」と思ってたのが、この映画によってそれが覆されようとしてること。
う~ん、つまらない、とは言いたくない。
何だかんだいって山田家の人々が笑ってると和みましたけどね。
がしかし、「面白い」とは言い難かった。
日テレが再放映したがらないのもわか…いやいや。
でも今回収穫だったのは、『かぐや姫の物語』で大活躍したアニメーターたちがすでにこの映画でその才能を余すところなく発揮していたのを確認できたこと。
この映画の中でちょっと見入ってしまうような場面は、その技術のどれもが『かぐや姫』でさらに洗練された形で活用されていた。
だから、この映画は『かぐや姫』への大切な布石だったんですね。
と、自分を納得させることにしました。
あー、もう一回『かぐや姫の物語』観に行こうかな。
※高畑勲監督のご冥福をお祈りいたします。18.4.5
素晴らしい作品の数々を本当にありがとうございました。
高畑監督作品感想
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『おもひでぽろぽろ』
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