監督:高畑勲、声の出演:今井美樹、柳葉敏郎、本名陽子ほか、スタジオジブリのアニメーション映画『おもひでぽろぽろ』。1991年作品。
原作:岡本螢、作画:刀根夕子による同名漫画をもとに、オリジナルの設定、ストーリーを加えて映像化。
主題歌は都はるみによる「愛は花、君はその種子」(原曲はベット・ミドラーの「The Rose」)。
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東京に住む27歳のOL・タエ子(今井美樹)は、10日間の休暇を取って義兄の地元である山形の農家に泊まりこみ、紅花摘みをする。そこで分家の青年トシオ(柳葉敏郎)にレクチャーを受けながら農業体験をするタエ子。そんな彼女の脳裏に小学五年生のときの思い出がよみがえってくる。
“私はワタシと旅に出る。”
金曜ロードSHOW!で鑑賞。
今回はこの『おもひでぽろぽろ』と高畑勲監督の最新作『かぐや姫の物語』(感想はこちら)の内容について触れますので、もしごらんになっていないかたはご注意ください。
『おもひでぽろぽろ』は高畑勲監督作品の中でも一番好きでした。
…でした、と過去形なのは、今では一番好きなのは『かぐや姫の物語』だから!(^o^)
でも、先日TVで久しぶりに観て、この2本の映画はつながってるな、と思いました。
それについてはまたあとで述べます。
劇場公開当時、この『おもひでぽろぽろ』を観て思わず原作漫画も買っちゃいました。脚本家・岡本螢の小学生時代の思い出がもとになった短篇集で、全2巻。
映画では台詞のみの説明だった楳図かずおの恐怖漫画のエピソードもあった。
ギャグがない「ちびまる子ちゃん」といった感じの、ようするに『ALWAYS 三丁目の夕日』…というより、どちらかといえばその原作漫画の方に近い雰囲気の作品。
映画はそこに27歳になったタエ子の現代パートを加えて、彼女が原作で描かれた思い出の数々を回想するという形になっている。
ところで、映画の公開は1991年だが現代パートの舞台は1982年。
映画の中では現代パートが何年なのかはハッキリとは言及されないんだけど、わずかに冒頭で映るタエ子が勤める会社のデスクの上の本立てに「'81」と年数が入った書物が見えることと、山形の農家でタエ子がそこの娘のナオ子と人差し指をくっつけ合う『E.T.』(1982年公開)の真似をするから。
映画館で観たときも「なんで今頃E.T.?」と当惑した記憶が。
それはタエ子が原作者と同じ昭和31年(1956年)生まれという設定で、91年が舞台だと彼女は35歳になってしまうためと思われる。ギリ20代にしておきたかったのだろうか。
ちなみに、タエ子の生年月日は昭和31年2月22日ということだけど、82年(昭和57年)では彼女は26歳なのでは?という細かいツッコミも入ってたりしてw 数え年なのかな?
じゃあ、83年ってことにしとけば?σ(^_^;)
いずれにしてもあの当時、ジブリ映画は少年少女が主人公というのが定番だったから、それだけでもヒロインを意識的に高めの年齢に設定したことがわかる。
当時「トレンディドラマ」に出演していた今井美樹と柳葉敏郎を起用したことからも、高畑監督なりの若い男女の物語をやりたかったんでしょう。
今のところ、20代後半の女性が主人公のジブリアニメはこの映画以外にない。
この作品の特徴として、27歳のパートは『火垂るの墓』(感想はこちら)のときのような隅から隅まで徹底した写実的な絵で、小学生のパートはいかにもアニメっぽく可愛く描かれていて、背景も白っぽくソフトフォーカスがかかったように処理されている。
回想場面での小学生のタエ子は、同学年の広田くんと言葉を交わして心が躍ってそのまま空を泳いだり、おめめが少女マンガみたいにキラキラしたりする。
現代パートではそういうデフォルメは一切排されている。
よく言われるのが、「小学生のときのエピソードと27歳のエピソードに関連性が感じられない」というもの。
まぁ、もともとは小学生の話しかないところにもって紅花農家の話を強引にぶっこんできたんだから、映画としてはかなりイビツであることは確かなんだけど。
この現代パートでの手法に抵抗をおぼえる人がけっこういるようで、今回のTV放映でもTwitterで「これをなぜアニメでやる必要があるのか」と疑問を呈している人もいた。
僕も『火垂るの墓』のときにそれを感じたので、さらに現代が舞台ならよけいアニメでやる必然性が薄れるよなぁ、という感はありました。
ただ、映画館の大きなスクリーンで観たときはこの現代パートの美術がとても美しくて、高畑監督の「あえて写実的に描きこむことによって観客に注視させる」というやり方は効果的だったのではないかと。
この実写的な現代場面があるからこそ、回想場面でのノスタルジックな雰囲気がよりいっそう強調されるわけで。
もっとも、この現代パートでのタエ子やトシオの顔は、立体感を出すためか特に笑ったときに浮き出る頬骨の線まで描いたために、それがまるで“ほうれい線”みたいに見えて妙に老け顔に映ってしまっていた。
これは失敗だったと思います。
僕はタエ子の小学生時代のエピソードが好きなのでこれだけで1本作ってくれてもよかった気はするんですが、それだと懐かしい気分だけで終わってしまうし、おそらく監督が描きたかったのは再び「さなぎの季節」を迎えた女性が飛び立つ姿なんだろうから、27歳のタエ子のパートは必要だったんでしょう。
とは言っても、やっぱり記憶に残ってるのはどうしても小学生のときのエピソード。
特に父親にひっぱたかれる場面はせつなくて。
思わず靴を履かずに玄関の外に駆け出してしまった、というだけでぶたれる理不尽さ、それが今までで唯一父親に手をあげられたということがずっとタエ子の中で謎として残ったまま、というのは原作でも映画でも同じ。
このお父さんがまた亭主関白の権化みたいな「ザ・昭和の親父」で、ほとんど喋らず、食事時でも新聞読んでて家族の前でタバコも吸うし、最後は「…メシ」の一言。
これは91年当時でさえ「あー、嫌だこんな父親」ってぐらいだったから、今の人が観たらもうブーイングの嵐だろうな。
しかも、学芸会での演技を観た地元の青年団の人からタエ子に「子役としてお芝居に出てほしい」と言われて、算数も苦手で他にとりえのない彼女がやっと自分が得意なものと出会えたってときに、またしてもこの父親の横ヤリが入る。
「演劇なんてダメだ。芸能界なんてダメだ」「そんな、芸能界なんてオーヴァーよ」「そうよ、ねぇ…」「ダメだ。メシ」って。
いや、地元の青年団主催のお芝居ぐらい出させてやれよ、と^_^;
「父親」という存在が社会の厳しさの象徴として機能していた時代の話ですね。
ちょっと向田邦子の短篇小説みたいな味わいも。
向田邦子だと、四人姉妹が阿修羅のごとくになってしまいますが。
僕は女のきょうだいがいないので(どーでもいい情報)、タエ子のような3人姉妹というのは未知の存在でちょっと憧れがあったというのもあるし、とにかく小学五年生のタエ子(本名陽子)がなんとも可愛くて。
しっかり者の姉と頼りなさげな妹、というのは、その後、近藤喜文監督の『耳をすませば』(感想はこちら)でも描かれているけど(ヒロインの雫をタエ子役の本名陽子が再び演じている)、同学年の男子とイイ感じになっちゃってる『耳すま』のヒロインよりも、クラスメイトたちから「広田くんと相合傘~!!」みたいにからかわれてポッと赤面しちゃうような初々しいタエ子の方が僕は好きだな。
クラスの中で特別目立つわけでもなく、かといっていじめられっ子でもない、ほんとに普通の女の子。
末っ子でわがままなところもあって、どちらかといえば年のわりには幼い。
“生理”のエピソードで同級生のリエちゃんとのやりとりでも、一見おっとりしているように見えるリエちゃんはすでに1年前に初潮を迎えていて、「体育を休むのは生理だから」という情報に動転したタエ子が「わ、わたしは違うのよ、風邪なのよ!」とドギマギしながら言い訳するところなど、微笑ましいというかなんというか。
リエちゃんの「タエ子ちゃんは病気だもんね」という、まるで妹に対するような優しい受け答えがまたw
男子から「生理がうつる」と言われて「バッカみたい」と笑うリエちゃんはもう大人なのだ。
僕は小学校でその手の話題が出た記憶がないんですが(たしか男子も保健体育の授業で説明を受けたような気がする)、なんか、あの何もわかってない男子の「保健室でなんでパンツ買うの?」っていうアホな質問とか、わかるよーなw
関係ないけど、昔バイト先で女性の先輩が「あー、腰痛い」と言ってたので、「あぁ、立ち仕事だと腰にきますよねー」と答えると、「そうじゃなくて生理痛。それぐらい男でも知っときなさい」と言われた。
また、さらに別の仕事先で女性の先輩が腰に手を当てて身体を傾けているので、「何か落し物ですか?」と尋ねると、「生理痛なんだけど」とムッとして言われた。
それ以降、腰に手を当ててる女性は生理痛なんだと思うことにした。
最新作『かぐや姫の物語』でも姫が初潮を迎えたことを示唆する場面があって(なんか『キャリー』→感想はこちらといい、ここんとこ生理ネタが続いて若干食傷気味なんですが^_^;)、そういうエピソードが原作の「竹取物語」にあるのかどうかは知りませんが、高畑監督は意図的に“少女”から“大人の女性”になっていくヒロインを映画の中に組み込んだとみえる。
御門との一件など、あきらかに「性」について描いている。
でもタエ子は大人に成長したが、かぐや姫は娘になったと思ったら月に帰ってしまう。
「竹取物語」自体がそういう話なんだからどうしようもないけど、普通の人間のように年を重ねる前に地上から去ったかぐや姫に高畑監督は何を託したのだろうか。
宮崎駿が描くヒロインが彼の理想の中の少女像であるのに対して、高畑勲が描くヒロインはより生身の人間に近いと思うんですが、どうなんでしょう。
もちろんそこにはある種の「理想」が込められてはいるのだろうけど、彼女たちはただ可愛くて健気なだけではなくて、場合によってはワガママだったりちょっとめんどくさかったりする。
高畑勲が描くヒロインが宮崎駿のそれよりも人気がなくて、27歳のタエ子、そしてかぐや姫が観る人によっては「可愛くない」「嫌な女」と評されるのは(絵柄の好みの問題もあるが)、彼女たちが男に都合がいいだけの人形ではなくて、自分の意志で行動する女性だからでもあるのではないか。
彼女たちの言動はかならずしもすべての人に納得のいくものではない。
そういう女性は男の意のままにはならないので、未熟な男どもには敬遠される。
そんなこと言ってる僕も、とてもタエ子やかぐや姫にお相手していただけるようなタマではありませんが。
宮崎駿が描くヒロインはあくまでも男の子から見た憧れの少女だが、高畑勲は少女の傍らに寄り添って、あるいはみずからが少女となってともに成長していく姿を描いているようにも思う。
多分、僕は高畑勲が描くヒロインのそういうところに惹かれるのだ。
後半、本家のおばあちゃんからトシオと一緒になって農家を継いでくれないか、と言われて思わず家を飛びだしたタエ子は、車でやってきたトシオと合流する。
事情を知らないトシオに、車の中でタエ子は唐突に小学生時代の思い出を語りだす。
それは隣の席になった“あべくん”が、転校するときにタエ子だけに「お前とは握手してやんねーよ」と言った逸話。
あべくんは不潔な身なりでクラスメイトたちから嫌われていた。タエ子はつとめて彼とは普通に接しようとしていたが、あべくんは彼女の中にあった偽善を見透かしていたのだ、と。
タエ子の話に黙って耳を傾けていたトシオは、それはあべくんがタエ子に甘えていたのだ。あなたにだけは本音が言えたんですよ、と答える。
あべくんのエピソードは原作にもあるけれど、トシオの解説はもちろん映画のために付け加えられたものだから、これは高畑監督からの原作者へのアンサーでもあってなかなか好きなシーンです。
ギバちゃん、いやトシオの嫁にならなってもいいな、とちょっと思いましたwww
この場面は、27歳のタエ子が「田舎はいい」と連呼していたことと結びつけられる(かなり強引な気がするが)。
「東京なんてゴミゴミしていて人が住む所ではない。それに比べてここは…」と、まるで農村を楽園のように語っていたタエ子。
そんなタエ子のどこかお気楽な言葉を複雑な表情で聞いていたトシオ。
車の中での会話はまさしくそういうタエ子の欺瞞を露わにする場面だったのだが、『かぐや姫の物語』の後半に、かぐや姫が都の屋敷の中の庭に植えていた植物をなぎ倒して鎌でぶった切りながら「みんなニセモノ!」と暴れるシーンがある。
今回、『おもひでぽろぽろ』を久しぶりに観て、あれは高畑勲自身の叫びだったのではないかと思い至った。
自分の作品の中で農業の大切さを力説してきた高畑勲は、「自分は農家にはなれない」ということを自覚したのだろうか。
だからかぐや姫はタエ子のように「農家の嫁」にはならず、月に帰っていった。
『おもひでぽろぽろ』のタエ子も、自分の農業や田舎への憧れが「ニセモノ」であることに気づいている。
だからこそ、いざ「嫁に来てくれ」と言われてうろたえたんだろう。
『おもひでぽろぽろ』に対しても、劇場公開時には「そんなに農業が大事ならアニメ作ってないで農家になったらどうか」という批判があった。
僕は思うんですが、高畑勲にとっての「農業」というのは、ちょうど宮崎駿にとっての戦車や飛行機、理想の少女みたいなものなのではないだろうか。
自分に生きる活力を与えてくれるもの。
憧れはするものの、自分はけっして農業で生きてはいけない。
『かぐや姫の物語』で、山々を移動しながら生活する捨丸は、再会した“たけのこ”かぐや姫に「お前に俺たちみたいな生活ができるわけがない」と言う。
それは高畑勲自身が感じた、夢が覚める瞬間だったのかもしれない。
おばあちゃんやトシオらと別れて東京に向かう電車の中で、タエ子は何かを考えている。
座席から小学五年生のタエ子とクラスメイトたちが顔を出す。
高畑勲は臆面もなくメロドラマ的なエンディングを用意していた。
僕はこの監督の、こういう「泣かせ」が好きなんですw
最後に、トシオと車で走り去るタエ子を小学生のタエ子がみつめている。その顔はどこか寂しげである。
この映画で主人公がお別れするのは小学生のときの自分なのだ。
明らかに高畑監督は宮崎監督よりもウェッティなんだよね。どこか浪花節が入っている。
このエンディングは僕は泣けるんですが、一方で冷めた感想もある。
宮崎駿はかつてこの作品を「まるで若い女性はみんな農家の嫁になれ、と言ってるような映画」と評した。
そう受け取れなくもない話ではあるけれど、トシオが熱弁していた「有機農法」云々の話とか、僕は右の耳から左の耳に通過していってしまっていたので、単純に「トレンディドラマ」的なハッピーエンドだと思ったんですが。
「さなぎの季節」が過ぎて、タエ子は蝶になろうとしている。
高畑勲は「女性映画」の名手なんじゃないかなぁ。
高畑勲という人はプロデューサーのときはしっかり予算も管理するのだが、監督のときはしばしば(とゆーか毎回?)制作期限や予算をオーヴァーして、そのたびにジブリが傾くというなかなかの問題児のようである。
今回の『かぐや姫の物語』も製作費は50億。
「どこにそんなに使ったんだ」と呆れる向きもあるけど、僕はなんか高畑さんを応援したいんですよね。
現在のジブリブランドを確立したのは宮崎駿と高畑勲なんだから、宮さんが引退作*1『風立ちぬ』(感想はこちら)で好きにやったんならパクさん*2だっていいじゃん、と。
『ホーホケキョ となりの山田くん』が思いのほか収益を上げられず、そのせいで次回作まで14年かかったわけだけど、では『山田くん』はどうしようもない駄作だったかといったらそんなことはなくて、ホロリとさせるなかなかいい話だった。
必ずしもヒットしたから質が高くてコケたからそうじゃない、ということではないんだよね。
この『おもひでぽろぽろ』も、こんな商業アニメーション映画は他にはない。それだけでも貴重な作品ではないだろうか。
高畑勲というクリエイターは1作ごとにエンターテインメントの中で実験を試みている。
これまでなかったタイプの、この先もおそらくはない、今後10年、20年、30年経っても残り続ける日本映画の財産を生みだしてきた。
僕は今こそ高畑勲を評価すべきだと思うのです。
だってさ、仮に高畑監督と彼の作品が今後海外で高く評価されたりすれば*3、きっと国内の人々は手のひら返したように彼を褒めそやすに決まってんだもん。
海外の人たちが褒めたから右にならえで褒めるんではなくて(世界のクロサワのように)、見る目がある者は今の時点でちゃんとこの監督の業績と実力を評価して、作品そのものの良さをしっかり認識すべきだ。
最新作『かぐや姫の物語』も、僕のような絶賛組から「ディズニーやドリームワークスの新作の方がよっぽど見ごたえがある」といった酷評まで賛否両論である。
それでいいと思う。
「宮崎駿監督の作品は好きだけど、高畑監督の作品は苦手」という人は少なくない。
それは好みの問題なので、ここで僕が高畑作品の素晴らしさをいくら力説したって面白いと思えないんだったらどうしようもないんですが、でもこの監督の映画はこのまま埋もれさせていいものではない。
僕は天才・宮崎駿とともに走り続け、他に類を見ないアニメーション映画を作り続けてきた高畑勲に、今こそリスペクトを捧げたい。
※高畑勲監督のご冥福をお祈りいたします。18.4.5
素晴らしい作品の数々を本当にありがとうございました。
高畑監督作品感想
『パンダコパンダ』『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』
『火垂るの墓』
『平成狸合戦ぽんぽこ』
『ホーホケキョ となりの山田くん』
『かぐや姫の物語』