映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

もう一つのブログとともに主に映画の感想を書いています。

『火垂るの墓』


金曜ロードSHOW!で、監督:高畑勲、声の出演:辰巳努白石綾乃志乃原良子山口朱美ほか、スタジオジブリのアニメーション映画『火垂るの墓』鑑賞。1988年作品。

原作は野坂昭如の同名短篇小説。

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1945年(昭和20)、太平洋戦争下の兵庫県神戸市。空襲で母親と離ればなれになった14歳の清太とその妹で4歳の節子。彼らの母親は重傷を負い、やがて死んでしまう。西宮市の叔母宅に身を寄せた二人だったが、ツラくあたる叔母に清太は節子との二人での生活を決意する。


4歳と14歳で、生きようと思った。

1988年の劇場公開時に観ました。

同時上映の『となりのトトロ』(感想はこちら)とともに日本映画史に燦然と輝く傑作だと思います。

ただ、僕はこの映画とってもツラかったので、あれから長らく観られなくて。

何年か前に深夜に何気なく観て身体中の水分が全部出るぐらいに大泣きして、やはり「泣ける映画」なんてお手軽なものではないな、と実感。

これは観るのが辛い映画なのだ。

観終わって「あぁ、よく泣いた」なんて伸びができるようなものではなくて、ずぅぅんん…と落ち込む映画。

だって、戦災孤児になった4歳の女の子が栄養失調で衰弱死して、そのあとを追うように14歳の兄も餓死する映画に「泣ける映画」って表現はおかしいでしょう。


「泣ける」=「泣くことができる」ではなくて、「泣けてきてしまう」ということならわかるけど。

僕だってこれ観たら毎回パブロフの犬みたいに涙と鼻水が滝のように流れてたまらんし。


この映画では、空襲で全身に大やけどを負った母親や、まだ年端もいかない兄妹が骨と皮だけになって死んでいく様子が写実的に描かれている。

それは幼い子どもが観たらトラウマになりそうなものだ。

でもこれを公開当時、映画館で小さな子どもたちはトトロの映画と一緒に観たのだ。

戦後何十年も経ってから生まれた僕は当然というかリアルタイムで戦争は経験していないけれど、小学生ぐらいのときから漫画や児童文学、アニメや実写映画を通して疑似的に戦争を“体験”してきました。

はだしのゲン」「ガラスのうさぎ」「対馬丸」…。

それらの作品では、市井の人々が戦争によって無残に殺されていた。

ドラマだけではなくて、家の近所の図書館では戦争の記録映像も観た。

僕が子どもの頃にはすでに、アクション映画やゲームの中の戦争と現実のそれとの区別がついていない“最近の子どもたち”が問題視されてもいて、もはや「戦争」は遠い昔の出来事のようになっていました。

でも僕にはフィクションと現実の違いがしっかりと理解できていた。

間違っても本物の戦争をフィクションと混同して「カッコイイ」などと思うことはなかった。

この『火垂るの墓』は、そのように僕に戦争に対するトラウマを与えた映画たちを思い起こさせたのでした。

昨年暮れに亡くなった中沢啓治さんの原爆漫画「はだしのゲン」を巡って少し前に閉架問題がありましたが(それについて書きだすと長くなるので割愛しますが)、「戦争の残酷描写は子どもにトラウマを与えるから読ませるべきではない」などという意見*1には僕は断固として反対します。冗談じゃない。バカなの?

この映画『火垂るの墓』もそうだけど、もちろん子どもが嫌がるのを親や教師がムリヤリ見せる必要はない。そんなのは虐待だ。

でも、子どもが自然に目にとめて関心を持ち、自分の意志で「観てみよう」「読んでみよう」と思えるように身近に置いておくことは大切だと思う。

「残酷だから見せないように」なんて、戦争は残酷に決まってるんだから、それを観てショックを受けるのはむしろ正常な反応でしょう。

怖くて夜眠れなくなったり、悪夢を見て夜泣きする子だっているかもしれない。

僕だってそうだったんだから。

でも、そういう経験をしたら、絶対に戦争なんかしたくないと思うでしょ?

そのためにああいう作品はあるんだから。

それらは単なる絵空事ではなくて、かつて現実にあった惨禍だ。


だからこそその恐ろしさを子どもたちに伝えていかなければならない。同じ過ちを繰り返さないために。

その大切さを忘れた人間たちが「トラウマ」なんて言葉を連呼して、過去の記憶に蓋をしようとするのだ。


この映画について、高畑監督の盟友にしてライヴァルでもある宮崎駿監督がかつて批判していた。

清太の父親は海軍大尉でありエリートだ。そのような者の子息を海軍の人間がほっとくわけがない。彼が餓死するのはおかしい、と。

巡洋艦の艦長の息子は絶対に飢え死にしない。
それは戦争の本質をごまかしている。
それは野坂昭如が飢え死にしなかったように、絶対飢え死にしない。
海軍の士官というのは、確実に救済し合います、仲間同士だけで。
しかも巡洋艦の艦長になるというのは、日本の海軍士官のなかでもトップクラスのエリートですから、その村社会の団結の強さは強烈なものです。
神戸が空襲を受けたというだけで、そばの軍管区にいる士官たちが必ず、自分じゃなかったら部下を遣わしてでも、そのこどもを探したはずです。

……それは高畑勲がわかっていても、野坂昭如がウソをついているからしょうがないけれども。
戦争というのは、そういうかたちで出てくるものだと僕は思いますけどね。
だから、弾が当たって死ぬのもいるけれど、結局死ぬのは貧乏人が死ぬんですよ。

稲葉振一郎ナウシカ解読―ユートピアの臨界」インタヴュー


でも清太の父親はすでに死んでいるんだし、艦隊はほぼ全滅、空襲のあとや終戦直後の混乱した状況で、そんなこと気にかける人なんているだろうか。

親が海軍の偉いさんだろうがなんだろうが、死ぬもんは死ぬだろう。*2

野坂さんの2人の妹さんの下の子だって栄養失調で亡くなってるんだから(野坂昭如の父親は海軍士官ではないが)。

もしかしたら宮崎監督は、恵まれた環境で育って家族とともに戦争を生き延びた自分自身を清太に重ねていたのかもしれない。

結局死ぬのは貧乏人が死ぬんですよ」などと“貧乏人”ではなかった彼が言うと、なかなか薄ら寒いものを感じるのだが。


この映画は公開当時にたしか高畑監督も言っていたように*3、ちょうど「現代」の少年があの時代に生きていたら、というふうにとらえることもできる。

清太はいいとこの坊ちゃんで、人から強く命令されたり見下されることに慣れていない。

彼らを引き取った叔母からキツい言い方をされたり、邪険に扱われて反発する。


それはまさしく現在を生きる僕たちのようではないか。

あそこで清太が耐えていれば、彼も、そして妹の節子も死なずに済んだかもしれない。

しかし、彼は無謀にも幼い妹と二人きりで生きる道を選んだ。そして失敗する。

驚いたことに、この映画を観て清太を一方的に責める奴らがいる。「あいつが我慢しなかったのが悪い」と。

「厳しい時代だったんだからしかたないだろ。甘えんな」とか「叔母さんが言ってることは正論」とか…ネットの書き込みを読んで絶句してしまった。

…あのなぁ。

想像力が欠けてるあんたらに清太をなじる資格はないよ。

清太という登場人物は、俺や君たちみたいなひ弱な現代っ子のメタファーでもあるのだ。*4

叔母さんが言ってるのは「お国のために働いている人は握り飯食ってもいいけど、働いてないお前たちは雑炊で我慢しろ」ってことだよ?14歳の少年と4歳の女の子に向かって。

14歳の少年に「働けよ」とか言ってる奴は、じゃあ、君はその歳で食うために働いてたのか?

問題は彼らにあるのではなくて、大人たちに余裕がないために子どもたちに無理を強いる社会ではないか。

そもそもなんで彼らがこんな目に遭ったのかといったら、戦争のせいでしょ?

戦争を起こすのは子どもではなくて大人たちである。幼い者たちを危険に晒してその命を奪うのは大人たちだ。

その事実を措いといて「自業自得」などと言って、妹を死なせた兄を責めるバカたち。

そういう読解力がない頭がカラッポの奴らが一方的に人を責めたてるネトウヨみたいのになって「非常時なんだから我慢しろ」などと言うのだ。自分たちは我慢なんかろくにしたこともないくせに。

「どっちが悪い」とか、そういう映画じゃないから!

とりあえず、なんでも誰かを悪者に仕立てる癖は直したほうがいいと思うよ。バカに見えるから。


これは、我慢すれば死なずに済んだのにワガママのせいで結果的に妹を餓死させて自分も死んだ愚かな兄の話、なんかではない。

不器用で甘ったれた少年と、まだ自力では生きていけない幼女という、どこにでもいる普通の子どもたちが戦争によって命を奪われる物語だ。

戦争さえなければ、彼らは両親と死別することもなく、子どもへの思いやりを忘れた親戚に嫌味を言われ続けて家を出て死なずにも済んだのだ。

戦争が彼らを殺した。

そのことを忘れて、ただ清太を責めている人間の多さに唖然とする。

死んだ母親を恋しがって夜泣きする幼い子どもにイラつく叔母は、人間として大切な何かを失っていないか。

そんな大人を擁護して、少年を「クズ」よばわりするような人間たちはどこかおかしくないか。

清太の選択は間違っていたかもしれないが、もしも自分が彼の立場だったらと想像したら、まともな神経の持ち主なら責めるよりもまず彼らへの同情心が湧いてくるだろう。

果たして自分なら清太よりもうまくやっていけただろうか?僕にはそんな自信はない。


火垂るの墓』は戦争を描いた作品だけど、時代を超えて子どもの生態をリアルにとらえた映画である。

清太はけっして宮崎アニメに出てくるコナンやパズーのような賢くてたくましい理想的な少年ではないし、節子もアニヲタどもが喜ぶようなマスコット的なカワイイだけのキャラクターではなく、おなかを空かせては泣き、母親を失って夜泣きを繰り返して大人たちをてこずらせる、生身の幼児である。


これはバブル時代の1988年に作られた作品だが、あの兄妹の姿は今この時代にこそよりいっそうリアリティを増しているのではないか。


高畑勲という映画監督は、作品の中にしばしば現代社会への批判を込める。ほとんどの監督作にそういう要素がある。

彼の映画を好まない人の多くが、その説教臭さを理由に挙げる。

でも高畑勲作品が凡百の説教映画と違うのは、登場人物たちの「芝居」によってそれを描くことだ。

映画の中で「戦争はいけない!」と声高に叫ぶのはたやすいが(そういう自称“反戦ドラマ”は掃いて捨てるほどある*5)、『火垂るの墓』で登場人物がわかりやすく台詞で反戦を唱えることはない。

映画は、戦争で親を亡くし、自分たちだけで生きようとする兄妹の姿を追うだけだ。

それでも主役から脇までそれぞれの“登場人物”たちにつけられた演出が優れているから、観客は言外に作り手の強いメッセージを受け取る。

それは現在、多くの日本映画から失われてしまった技術だ。

お世辞ではなく、僕は高畑勲という人は現在の日本映画界の中でもトップクラスの演出力を誇る監督だと思う。


しばしば悪い例で挙げてしまって恐縮ですが、『火垂るの墓』のさりげなくも鮮烈なラストシーンと山田洋次監督の『母べえ』(感想はこちら)のそれとを比べてみたとき、『母べえ』がいかに野暮ったく説教臭いか痛感する。

戦争の惨たらしさを描くのに、これ見よがしな反戦メッセージや登場人物たちの絶叫も愁嘆場もいらない。

戦争を描いた映画を撮りたいのなら、まずこの作品を観ろと言いたい。

火垂るの墓』での母親と妹の無残な死は、あまりにもあっけなく描かれる。

清太が泣くのは肉親が死んだその直後ではない。ふとしたきっかけに、お母ちゃんは死んだのだ、と意識して涙を流す。

寝床で節子を思わずきつく抱きしめてしまい、節子は痛がる。

このせつなさ。

西宮の駅でガリガリに痩せてハエにたかられながら死を待つ清太には、もはや流す涙すらない。

観客には、彼の悲しみ、そして大切な家族をすべて亡くして生きる意欲を失ったその無力感が痛いほど伝わる。

高畑勲は以降、自作でナレーションを多用するようになるが、この『火垂るの墓』には清太による最小限のモノローグ(独白)があるのみで、説明や解説をほとんど用いずに「描写」だけで語る。

それは、高畑勲が「アルプスの少女ハイジ」や「赤毛のアン」の日常描写で培ってきたものをさらに深化させたものだ。


宮崎駿は、『火垂るの墓』の清太の死を「嘘だ」と断言する。

彼が今年撮った『風立ちぬ』(感想はこちら)の主人公は、妻を亡くしながらも生きていく。

「すべてを背負いながら生きていく」という姿こそが、宮崎駿が考える「かくあるべき姿」なのだろうか。

しかし、僕には『風立ちぬ』のヒロインの死こそが幻のように思えたのだった。

風立ちぬ』でヒロインの菜穂子が結核で醜くやつれて死んでいく場面は描かれていない。彼女の死は草原の中に消えていく、という表現でほのめかされるだけだ。

それはあの脳裏に焼きついて離れない節子の死とは実に対照的である。

高畑勲は死んでいくもの、消えていくものたちの側から人間を描く。

宮崎駿の作品には、死んだ者たちから現世を見る、という視点はない。

高畑勲宮崎駿は、きわめて近しい仲でありながら、見ているものが互いにまったく違うのだ。


僕はこの『火垂るの墓』はツラすぎるのでけっして一番好きな高畑作品ではないのだけれど(一番好きなのは最新作『かぐや姫の物語』)、高畑勲の最高傑作はまぎれもなくこの映画だと思う。

黒澤明は生前、この『火垂るの墓』を宮崎駿の監督作品だと勘違いして、宮崎監督に送った手紙でこの映画を賞賛したという。

それを読んだ瞬間に宮崎監督の顔色が変わった、というエピソードは微苦笑を誘うが、いち早く時代劇に写実的リアリズムを取り入れた黒澤監督が、現時点でも写実的リアリズムにもとづくアニメーションの極北ともいえるこの『火垂るの墓』を高く評価した、というのもなかなか興味深い。


エンディング間際で、戦争が終わって自由を謳歌するブルジョワらしい洋装の若い女性たちが回す蓄音機から流れる“Home, Sweet Home”。

Amelita Galli-Curci - Home, Sweet Home
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日本では「埴生の宿(はにゅうのやど)」として知られるこの歌は、市川崑監督の『ビルマの竪琴』(1956, 1985)でも使われていた。


埴生の宿も わが宿
玉の装い 羨まじ
のどかなりや 春の空
花はあるじ 鳥は友

おお わが宿よ
楽しとも たのもしや

書(ふみ)読む窓も わが窓
瑠璃の床も 羨まじ
清らかなりや 秋の夜半(よわ)
月はあるじ 虫は友

おお わが窓よ
楽しとも たのもしや


あまりにもささやかな我が家であったあの二人の隠れ家。

原作者である野坂昭如には2人の妹がいた。上の妹は戦時中に病死、下の妹は戦後にわずか1歳数ヵ月で餓死した。

当時、清太と同世代だった野坂は語る。「ぼくはあんなにやさしくはなかった」。


火垂るの墓』の“節子”とは、日本中、今や世界中の幼い魂の象徴でもある。

この映画で彼女の痛ましい死を観た僕たちは、即座に自分の娘や孫、大切な肉親や友人知人たちを思い浮かべるだろう。

大好きだったサクマ式ドロップの缶の中の骨の欠けらとなった節子は、駅員に放り投げられて地面に落ちる。

彼女の魂を蛍の光が包んでいる。


「ホタル、なんですぐ死んでしまうん?」

涙ぐみながら兄・清太にたずねた節子。

それはまさしく、節子自身の脆くはかない命のことでもあった。

節子や清太の受けた苦しみを、今を生きる子どもたち、そして未来の子どもたちに二度と味わわせないこと。

それこそが僕たち大人がなすべき使命だろう。



野坂昭如さんのご冥福をお祈りいたします。15.12.9

高畑勲監督のご冥福をお祈りいたします。18.4.5
素晴らしい作品の数々を本当にありがとうございました。


高畑監督作品感想
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『おもひでぽろぽろ』
『平成狸合戦ぽんぽこ』
『ホーホケキョ となりの山田くん』
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*1:閉架の本当の理由は他にあるのだが。はだしのゲン閉架問題取材報告

*2:追記:いよいよ格差社会、階級社会となってきた現在、宮崎監督の「戦争で金持ちやエリートの子どもは死なない。死ぬのは貧乏人の子ども」という主張は正しかったかもしれない、と思い始めている。

*3:「清太少年は、私には、まるで現代の少年がタイムスリップして、あの不幸な時代にまぎれこんでしまったように思えてならない。」記者発表資料より。

*4:また、「妹とふたりで生きる」という“理想”から親戚の家を出たが現実に晒され節子を死なせてしまう清太には、無謀な戦争で多くの犠牲者を出した日本という国が犯した過ちが重ねられてもいる。だから清太を責める者たちは、結果的にあの当時の“日本”にむかって罵声を浴びせていることになる。

*5:追記:今ではむしろ「あの戦争は正しかった」と正々堂々と主張する者たちが目につきだしている。おそらく彼らはこの映画で描かれた「死」も歪曲して解釈するのだろう。だが節子や清太の死はけっして“美しく”などない。彼らの“尊い犠牲”が日本を守ったのでも今の日本を作ったのでもない。その死はあまりに無残で徹頭徹尾“無意味”だった。だからこそあのような愚かな行ない(=戦争)を二度と繰り返してはならないのだ。いいかげん気づけよ。