『キサラギ』(2007)と『12人の優しい日本人』(1991)をDVDで視聴。
『キサラギ』は劇場公開時に鑑賞して以来11年ぶりの再見、『12人の~』の方は僕は映画館では観ていないけれど90年代にレンタルのVHSヴィデオで観ています。こちらはその後もTVか何かで何度か観た記憶が。
なんで急にこの2本なのかというと、最近『キサラギ』の佐藤祐市監督の新作『累 -かさね-』を観て僕はちょっと辛めの感想を書いてしまったんですが、それでも同じ監督が撮った『キサラギ』はわりと面白かったよなぁ、と思って久しぶりに観たくなったもので。
『累 -かさね-』は舞台演劇の世界の話だったんですが、『キサラギ』は作品自体がもともと舞台劇。
戯曲の映画化、ということでは三谷幸喜さんの『12人の優しい日本人』(映画版の監督は中原俊)とも共通してるし、限られた空間で物語が進行するスタイルや、最後に容疑者に対する審議だったり、ある人物の死の真相について登場人物たちのディスカッションによって最終的になんらかの結論が出るところ、そして笑いの要素が組み込まれているところなど、よく似ている。おそらく『キサラギ』は『12人~』を大いに参考にしたんだろうから、あらためて両者を比較してみると面白いんじゃないかと。
今回はそれぞれの作品の細かい感想というよりは、『キサラギ』は11年前、『12人の~』の方はもう27年も前の作品なので、それだけの歳月が経過したということも込みで2本の映画からあれこれ感じたり考えたことについての記述になるかと思います。
なので、これらの映画を未鑑賞のかたには意味がわからないかもしれません。あらかじめご了承ください。ストーリーのネタバレもあります。
自殺したアイドル「如月ミキ」の一周忌に、とあるビルの一室に集まった5人の男たち。ファン同士で今はなきアイドルを追悼するはずだったが、やがて彼女は自殺ではなくて殺されたのではないかという疑惑が持ち上がる。
で、観てみたんですが、なんというか、あ…うーーん、『キサラギ』ってこういう感じだったっけ、と^_^;
この映画は公開当時は巷ではかなり高く評価されていたんだけど、一方では逆に親の仇のように嫌ってる人たちもいて、ライムスター宇多丸さんを筆頭に結構辛辣にdisられてもいます。
ちなみに、『キサラギ』は出演者の一人が未成年への淫行で芸能活動を休止することになったために、今後もしばらくは地上波で放送されることはないでしょう。つくづくつまんない男だな。
僕は当時、宇多丸さんやその追従者みたいな人々の『キサラギ』に対するほとんど憎しみに近い拒否反応の理由がよくわからなくて、鑑賞した新宿の小さな映画館はお客さんでいっぱいで(女性が多かった気がする)その反応も良くて一緒に笑いながら楽しいひとときを過ごしたので、ムキになってこの映画を貶してる連中というのは自分が楽しめなかった映画をみんなが褒めちぎってるのが気に入らないだけなんだろう、ぐらいに思っていたんですよね。
ある映画を嫌うのは人の勝手だけど、それだけじゃなくて「こんな映画を褒めてるような自称・映画ファンは~(゚c_,゚`。)プッ」みたいに作品に好意的な観客にまで難癖つけるのは違うだろう、と。最近は僕もいろんな映画やその支持者にケチつけまくってるから、人のこと全然偉そうに言えないんですが。
で、久方ぶりに観てみたら、なんとなく最初の方はしっくりこなくて、なんだか登場人物たちの台詞廻しやその内容などをずいぶんと薄っぺらく感じてしまったのです。これは意外だった。
設定やストーリーがほとんどコントに毛が生えたような代物で。いや、別に「コント」をバカにしてるわけじゃないんですが。もっといろいろと愉快なやりとりがあったように思い込んでたもんだから。小栗旬が演じる、一応主人公っぽい男“家元”が警視総監の息子、という設定なんて現実味のカケラもないし。
要するに内容については「リアリティがどーのこーの」というようなものではなくて、適度にお笑いっぽい要素もまぶした、まさしく小劇場のお芝居を観ているようだったんですよね。原作はもともと小劇場のお芝居だったわけですが、思ってた以上に台詞の中身がスカスカだった。
思い返せば今から10年ぐらい前の僕って、この映画だけじゃなくて『ハンサム★スーツ』(2008)とか『鴨川ホルモー』(2009)などを普通に楽しんで観ていたんですよ。 どちらも宇多丸さんが大嫌いっぽい作品ですけど(『ハンサム★スーツ』も壮絶に酷評されてましたな。偶然にも『キサラギ』と同じくドランクドラゴンの塚地武雅が出てますが)。
この10年ぐらいの間に僕の中で何が起こったのかわからないけれど(宇多丸さんや、映画評論家の町山智浩さんの影響を受けたことは間違いないが)、特に邦画に対してはかなり細かい部分まで気になるようになって、以前だったら軽~く楽しんでいたであろう作品を素朴に楽しめなくなったのです。今なら『ハンサム~』や『鴨川~』のような映画を劇場には観にいかないだろうし。
それはもしかしたら不幸なことなのかもしれませんが、もはやコントの延長線上みたいな映画をわざわざ金払って観たいと思わないのです(でも、コントの延長線上みたいな作りの『カメラを止めるな!』→感想はこちら は面白かったんだから、やはりその内容こそが重要なんでしょう)。
ひと頃は好きだった三谷幸喜監督の映画も(来年最新作が公開予定のようですが)最近は観ていないし、観たいという気持ちも起こらない。上記と同じような理由からです。
いや、三谷監督の『ラヂオの時間』や『有頂天ホテル』は今でも好きだし、中原監督の『12人~』だって面白いと思ってますが(星護監督による映画版『笑の大学』は、舞台版の方が好きだった)。何が面白くて何はつまらないかはその都度自分の目で観て判断するしかない。
だから今回10年以上経ってから『キサラギ』を観直してちょっと作品にノり損ねた自分の映画の感想なんてほんとにあてにならないなぁ、と我ながら残念な気分にもなりかけたんですが、でもこれは負け惜しみではなくて、それでも結果的には僕はこの映画を憎めませんでした。
10年前の自分とその周辺のことを思い出していろいろ感慨に耽ったところもあるけど、普通に可笑しい場面もあったし、小劇団のお芝居を観てる感覚で最後はちょっとジ~ンとしたりもした。一部の人たちがクサしまくってるほど酷い作品じゃないと思います。
確かに、このシナリオを書いたのは「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズ(僕は好きですが)や、2015年の『エイプリルフールズ』(感想はこちら)の脚本家さんなので、そう考えると一貫してそれらの作品を酷評し続けてる宇多丸さんのご意見には非常に説得力があるんだけど(笑)、それでも映画はそれぞれ単体で判断しないといけない。僕が本広克行監督の『少林少女』(感想はこちら)や『踊る大捜査線3』(感想はこちら)をdisりまくっても、同じ監督の『幕が上がる』(感想はこちら)は大好きな映画になったように。
僕も劇場公開時からこの『キサラギ』が「傑作」だと思ってたわけじゃないけど、でもそこそこ楽しめたから満足していたんですね。
巧くはない。このシナリオが「巧い」と評されるなら、それは評者がどこかあさっての方角を向いてる証拠。伏線だって、たいしたことはない。そこは褒めるところじゃない。ただし、もともと舞台劇なんだから物語の展開のほとんどが台詞で説明されるのは当たり前。それが映画としておかしい、と言うのならば、最初から舞台の映画化作品なんて観ないことだ。
舞台劇を映画化するにあたって、いろいろと「映画」ならではの工夫をしている作品は確かにある。「映画」だからこその魅力を引き出している作品は、それだけで観る価値はあるでしょう。だけど、すべてがそうでなければならないということはない。
「映画」の面白さからかけ離れている、TV的で説明過多だ、という苦言は今となっては僕もよくわかりますが。だから今ではそういう映画は極力観ない(とか言ってて、『エイプリルフールズ』で見事に騙されたんですが)。
登場人物たちの正体についての情報のほとんどが「後出し」なのは、それが笑いに繋がるからでしょ。「そんなバカなっ、聞いてないよ(;^_^A」っていう。これは観客が事件の真相を予想しながら観る「推理劇」じゃなくて、推理劇っぽい展開のコメディなんだし。
実はあとで語る『12人の優しい日本人』だって映画の途中で急に「実はこうこう、こういうことがあった」と後出しでヒントをいくつも出してるんですよね。“推理物”としてはけっしてフェアなストーリーではない。
だから『12人~』の方もまた、劇中の手がかりをもとにして観客が真相を見破ろうとしても不可能なように作られている。それが目的ではないから。
宇多丸さんが、小さな劇団の芝居などでよくありがちな心底寒いギャグの場面の連続にイラつくのと同じ嫌悪感をこの映画に持たれたのはわかんなくもないです。
最初に書いたように、登場人物たちのやりとりの内容は相当スッカスカ。だから台詞も会話もけっして巧くはない。
アイドル好きとしての宇多丸さんの怒り(アイドルやアイドルファンの描写が杜撰)は頭で理解できなくはないけど、でもまぁ、その批判はちょっとズレてるというか、かなり的外れでもあるなぁ、と。イケメンの小栗旬がアイドルオタクを演じてるから許せないとか、そんなこと知らねぇよ、と。
何よりもまず、この映画は宇多丸さんが憤っていたような「アイドルはファンの幻想に殉ずるべき」 なんてことを言ってるんじゃないでしょう。
そうではなくて、D級、などとも表現されてた一人の歌のド下手なアイドルが一握りのファンたちにとってのかけがえのない存在であり、彼らに日々慰めや生きる希望を与えていた、って話じゃないですか。別にアイドルの事故死を「イイ話」みたいに描いているわけではない。もしもそのように受け取った人が他にもいるんなら、それは映画の見方がおかしい。
僕はこの映画に対する宇多丸さんの過剰なイチャモンのつけ方はハッキリ間違ってると思います。
とはいえ、僕が今回観ていて「…ん?」ととても気になった点は、小栗旬演じる“家元”が大好きだったはずのアイドル「如月ミキ」の死を悼むのではなくて、劇中でず~っと彼女の死に自分がまったくかかわっていなかったことを気にし続けていたこと。彼は他のメンバーたちがミキの家族や幼馴染、マネージャーや顔見知りだったことに劣等感を抱いて落ち込む。
そして最後に、地震と不運な偶然がいくつも重なって起きた火事によってミキが亡くなったのは実は家元が出し続けていた200通ものファンレターが入ったダンボール箱を持ち出そうとして炎に巻かれたからだという“真相”を知って、自らが愛したアイドルの死の原因が自分にあったのではないか、と罪の意識に苛まれるとともに、どこかでミキとの一体感も覚える。
おそらく宇多丸さんが許せなかったのはこの部分なんでしょう。人が死んでるのに何を勝手に自分の都合のいいように解釈してんだ、と。僕も家元のすべてが自己本位的なものの考え方や態度は終盤までずっと疑問だったし不快でもあった。
だけど、アイドル好きではない僕に言わせてもらうと、「こんな奴らとは違って俺こそは好きなアイドルのことを本当に心から想っている!」と主張する宇多丸さんだって、この映画の自称・アイドル好きたちと同じ穴のムジナだと思うんですよ。
自分こそは!とか言ってるファンこそが一番の独りよがりだと俺は思う。
映像のディテールへのこだわりが大事なのはもちろんその通りなんだけど、少なくとも宇多丸さんのアイドルについてのゴタクと、この映画における自称・アイドル好きたちのそれとの間には根本的な違いはない。スター・ウォーズのエピソード1~8で最高傑作は果たしてどれだ、という傍からすればどーでもいいような議論と変わんないのではないか。
この映画の結末は、さっき言ったように、如月ミキというマイナーアイドルがいかに日々自分たちを照らし続けてくれていたのかをファンである彼ら自身があらためて実感する、というものだった。ミキは大切なファンに支えられていたが、ファンの方もまた彼女に支えられていた。
ミキが意を決して出版するつもりでいた(と、みんなが解釈した)ヘアヌード写真集のタイトル「SHOW ME」は「私を見て」という意味じゃなくて「私に見せて」だ、と笑われるけど、如月ミキはこの5人の男たちひとりひとりに「私に(あなたを)見せて」と言ってくれていたんじゃないか。
アイドルってファンの鏡像ですから。美化されたファン自身なんですよね。
だからこの映画は、ほんとは「亡くなった一人のアイドルについての映画」ではなくて、「その彼女のことをこよなく愛していた男たちについての映画」だったのではないか。そう思った時に、僕にはこれは普遍性のある題材を扱った「切ない話」に感じられたのです。
この映画は「伏線が巧みに回収される見事な推理劇」なんかではなくて、歌が下手で演技もできない、売れるために苦肉の策でヘアヌードになるしかなかったようなD級アイドルという「偶像(idolは偶像の意)」を媒介として、文字通り彼女を崇拝する者たちを滑稽に、そして幾分哀しく描いている。
宇多丸さんはそういう劇中のアイドルファンの描写に愛が感じられなかったことを怒ってるんだろうけど、アイドルファンの「かくあるべき姿」なんてのも彼ら自身の勝手な“自分ルール”で、部外者から見たらどれも一緒で区別なんかつかないんですよね。
僕はアイドルファンではないけど、この映画がアイドルファンを侮辱しているとはまったく思わなかった。皮肉めかしてはいるし、ステレオタイプに描かれ過ぎているとか、あんなイケメンなアイドルファンなんていないとか、そういう文句はつけたくなるのかもしれないけど、その描写自体に特別問題があったとは思いませんでしたよ。
もちろん、実の父親だからって娘の家に勝手に忍び込んで私物を盗んでもいいなんてことはないし、あまりにご都合主義的な展開に鼻白む人がいるのもわかんなくはないけど、それ言い出したら、たとえば三谷幸喜の喜劇だってその展開は思いつきを強引に繋げて現実にはありえない話を作ってるようなものばかり(特に最近は)だし、そこは「リアリティ・ライン」をグッと下げて観なきゃしょうがないでしょう。
そういう「むりくり」ぶりを呆れながら楽しむという部分もあるんだから。
舞台劇っぽい大仰な演技が嫌い、というのもそれは好みの話で、映画で舞台劇っぽい演技を絶対にやっちゃいけない、なんてルールはない。題材と手法が合ってるかどうかを問題にすべきなのであって、自分の好みじゃないから即「駄作」認定、というのはどうなんでしょうね。
まぁ、今そんなことを書いてる僕自身にただちにすべてがブーメランになって返ってきてますけど^_^;
宇多丸さんのこの『キサラギ』の批評自体が今から11年も前のものだから、現在だったらどのような感想を述べられるのか興味があります。
…なんだか宇多丸さんに対する「disり」みたいな文章になっちゃってますが、そうではなくて(;^_^A
2009年の『しんぼる』評に感銘を受けて以来、宇多丸さんの映画批評を聴いてますが、宇多丸さんや町山さんのような名前が知れていてファンも多いかたたちの映画評は影響力も大きいので、自分でも納得したうえでそれを受け入れたいんですよね。スゴい人がそのように評価したからってただ鵜呑みにするんじゃなくて。
それはそのまま『12人の優しい日本人』が描いてることにも繋がっていきます。
そんなわけで、とりとめもなく書き連ねておりますが、お次は『12人の優しい日本人』。タイトルからもわかる通り、 シドニー・ルメット監督、ヘンリー・フォンダ主演の『十二人の怒れる男』(1957)のパロディ的な作品。
元夫の殺害容疑の被告について審議のために集められた12人の陪審員たち。無罪ということで全員一致で決まりかけたところ、その中の一人が有罪票を出し、話し合いが続行されることに。やがて陪審員同士の中に意見の衝突や確執が生まれ、議論は紛糾する。
果たして『キサラギ』と『12人の優しい日本人』は似て非なる作品なのか、それとも同じぐらいの出来の映画といえるのだろうか。
どこに書いてあったのか忘れちゃったけど、かつて三谷監督は『十二人の怒れる男』で正論を述べて真実を厳しく追求し続けるヘンリー・フォンダの他の陪審員たちへの態度が怖くて、もしも日本に陪審制があったら日本人はもっと穏やかに曖昧に議論するのではないか、というようなことを述べられていました。
それぞれ特徴的な(平凡で没個性的なのも特徴のひとつ)12人の陪審員たちのアンサンブルが見事で全員の“キャラ”が立ってるし、彼らが議論していく過程で意見を翻したり、反目し合っていたかと思えば意気投合したりする様子に笑わせられながら、最後は『十二人の怒れる男』とは反対に、最初に口火を切った一人の陪審員の主張が他の陪審員たちによって覆される。その決着も「日本人らしい」と。
まず感じるのは、『キサラギ』での会話の不自然さや空虚さに比べてこちらは台詞のやりとりが格段にこなれている、ということ。
たわいない冗談だったり世間話の中にキャラクターたちの情報が詰まっていて人物紹介の代わりにもなっているし、よどみない会話劇が物語を円滑に進める役割を果たしている。
登場人物たちの服装や喋り方、立ち居振る舞いなどには、現実にこういう人いる、と思わせるリアリティもある。
相島一之が演じる陪審員2号はビン底眼鏡で何かといえば「話し合いましょう」を連呼するウザさ極まる人物で、そういう癇に障る男が集団の和を乱すようなことを主張するうちにさまざまな疑問点が出てきて、ついに…と思わせて、さらにまた一捻りあるという展開が非常に面白い。
ここでは論理的な議論が苦手な日本人が皮肉られていて、そんな彼らが「フィーリングで」とか「なんとなく」物事を判断することを陪審員2号によって批判されるんだけど、被告の有罪をしつこく主張していた彼が実は別居中の自分の妻への恨みを被告に重ねていたことがわかって、彼もまた「情緒」によってものを言っていたことが明らかになる。
そういう感情に流される日本人の滑稽さを描きながら、それが愛おしくも感じられてくるというお話。
この映画の最大の“オチ”は元夫に向かって「死んじゃえ!」と叫んだと思われていた被告が実は「ジンジャーエール!」と言っていた、というもので、その「どんでん返し」によって被告には殺意がなかった、という結論が導き出される。
その決定的な結末に至るまでにあっちの意見に揺れたりこっちの意見に傾いたりする陪審員たちのドタバタを通して、陪審員2号が最初に求めた「話し合い」はしっかりとやり遂げられる。
大切なのは、最初はめんどくさがっていた陪審員たちが次第に議論に熱中しだして、最後には自分たち自身の頭で考えた結論を出したということ。
結論は同じ「無罪」でも、そこに込められた意味は最初の時とは大きく異なっている。
これは「映画」についての評価にもいえるんじゃないでしょうか。
ところで、『キサラギ』と『12人の優しい日本人』は似たような限定された空間が舞台になっているけど、実は『キサラギ』では登場人物の回想シーンや如月ミキの死の真相などがアニメ風の演出で描かれている。厳密な意味での密室劇ではないんですね。
一方、『12人~』の方は潔いほどにキャメラは建物の敷地の外には出ない。
議論の中心になっている被告やトラックに轢かれて死んだ元夫もその姿は映し出されず、陪審員たちの台詞の中に出てくるだけ。
これがもしも事件現場の模様を再現した映像を差し挟んだりしたら、映画がぶち壊しだったでしょう。あくまでも室内での陪審員たちの話し合いだけで物語が進んでいくからいいんですよね。
逆に、では途中でいろんな映像を加えた『キサラギ』はよくないのかといったら、「映画」としての劇的効果を考えたうえでの演出なので僕はあれでよかったと思います。室内だけではもたなかっただろうから。
で、結局、『キサラギ』と『12人の優しい日本人』はどちらが優れた作品だったのだろうか。
僕にはそれは判断できません。
個人的には題材やテーマがより広がりを持って感じられた、そして単純にディスカッション・ドラマとしても始まりから終わりまでずっと面白かった『12人の優しい日本人』の方に軍配を上げたいけど(判断してんじゃねぇか^_^;)、『キサラギ』の方が好き、という人がいらっしゃったって別にそれはそれでいいんじゃないかと思います。
「映画」って、その作品について意見を述べ合ったり議論するとより興味が湧いたり理解が深まったりして楽しいけど、裁判の陪審員と違ってどちらが優れているかとか良いか悪いかなど最終的な結論を必ず出さなきゃいけないわけじゃないから、極端なこといえば自分が観たその映画が面白かったかどうかわからなくたって構わないんですよね。
僕の場合は、作品をジャッジするために映画を観ているのでもブログに感想を書いているのでもないし。
世の中にはいろんな評価があるけど、久しぶりにDVDで2本の映画を観て、僕はどちらも面白かったし、とりあえずそれでいっかな、と思っています。
映画を観て、その感想を言葉にしてみることでさらに面白さが増す、そんな映画との付き合いが好きです。
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