※以下は、2011年に書いた感想に一部加筆したものです。
ジョージ・ノルフィ脚本・監督、マット・デイモン主演の『アジャストメント』。2011年作品。
上院議員候補のデヴィッドはたまたま出会ったダンサーのエリースと恋に落ちるが、ソフト帽をかぶった謎の男たちによって拉致されてしまう。
原作はフィリップ・K・ディックの短篇小説「調整班」。
マット・デイモンの出演映画は、僕は2011年に劇場で3本観ている(他に『ヒア アフター』→感想はこちらと『トゥルー・グリット』)。その後も新作が途絶えることなく公開されている。
ジミー大西にソックリ、といわれ続けてはや20年。この人の活躍はいまだにとどまるところを知らない。
また、出演作品のチョイスが的確というか、彼が出てる作品は一定のクオリティが保証されてるような気がする。
マット・デイモンが出てるから観に行く、ということは特にないけれど、信頼できる俳優さんだと思います。
ヒロインを演じるのは、前年の『ウルフマン』でベニチオ・デル・トロと惹かれ合う兄嫁役だったエミリー・ブラント。
日本では2013年公開された『LOOPER/ルーパー』(感想はこちら)でジョセフ・ゴードン=レヴィットと、つい最近公開された『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(感想はこちら)ではトム・クルーズと共演している。
この人も売れっ子ですね。
ディック原作による映画で観たことがあるのは、リドリー・スコット監督の『ブレードランナー』、ポール・ヴァーホーヴェン監督の『トータル・リコール』、スピルバーグ監督、トム・クルーズ主演の『マイノリティ・リポート』、それからゲイリー・シニーズ主演の『クローン』とジョン・ウー監督、ベン・アフレック主演の『ペイチェック 消された記憶』。
『マイノリティ・リポート』(2002) 出演:サマンサ・モートン コリン・ファレル “誰でも逃げる”
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ディックの小説をそんなに数多く読んでるわけじゃないけど、『マイノリティ・リポート』の公開時に何冊か続けて読みました。
もうだいぶ記憶があいまいになってるけど、「流れよ我が涙、と警官は言った」や「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」などは印象に残ってます。
あと、ディックに詳しい文化人や識者のエッセイや座談会の模様を収録した本でその生涯についても知った。
「現実」への懐疑、精神病や薬物による意識変容など、描かれるテーマはほかの無数の映画に影響を与えているし、個人的に今でも興味をそそられます。
彼の小説でしばしば使われる「自分は実は他人の夢の中の住人にすぎない」というアイディアは『インセプション』を思わせるし、『ブレードランナー』とその原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の多くの要素が押井守監督の『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』の作品内に反映されていたりする。
どちらかといえばディックの作品はそのまま映像化するには不向きで、映画化された作品はそのほとんどがアクションやサスペンスの要素をあらたに付け加えられたり、ヴィジュアル面でスクリーン映えするようにVFXが駆使されたりしている(「暗闇のスキャナー」の映画化作品『スキャナー・ダークリー』は未見)。
で、この『アジャストメント』の予告篇で「どこでもドア」みたいに開けると出る場所が変わる扉を通ってマット・デイモンが逃走してたり、黒ずくめの男たちが“停止”している人に変な器具を使ってる映像を観て、デイモンが主演した「ジェイソン・ボーン」シリーズと、記憶にまつわるSFアクション物の『ペイチェック』が合わさったような作品を想像してたんだけど、違っていた。
以下、ネタバレあり。
はじまってしばらくは、若くして下院議員になり勢いづいていた主人公がくだらない失態のために選挙で負けそうになったり、トイレで偶然出会った女性に一目惚れしたりと、SFやアクションの要素がまったくない、まるで恋愛映画のような雰囲気。
それが彼を監視するソフト帽の男たちが登場してから、じょじょに奇妙な展開になっていく。
職場で謎の男たちに仕事仲間が“調整(アジャストメント)”されているところに出くわしてしまったデヴィッドは、彼らに捕らえられてしまう。
フルフェイスの黒ずくめの男たちがデヴィッドの仕事仲間たちを“調整”している場面は『マイノリティ・リポート』のようだし、彼を追うソフト帽の男たちは暗黒街を描いた昔のフィルムノワールやアメコミ、これまた無数のサスペンス映画に登場するキャラクターたちを連想させる。
僕はディックがよく自作で用いる安っぽいSFガジェットが好きで(それを予算をかけて描いたのがシュワちゃん主演の『トータル・リコール』)、この映画でもそれを期待したんだけど、そういう近未来的な小道具はまったくといっていいほど登場しない。
『トータル・リコール』(1990) 出演:シャロン・ストーン 目が~!鼻が~!!
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また、予告篇で流れていた映像以外に目を惹くVFXもない。
舞台になるのは倉庫か駐車場みたいなだだっぴろい場所や古い庁舎ぐらいで、派手なアクションもない。
ヘタすりゃアマチュア自主映画でも撮れそうな作品なんである。
まるで1エピソードが2時間ある「世にも奇妙な物語」みたいな話でした。
正直、かわりばえのしない風景に、観てる途中でちょっと眠気すらもよおした。
「運命調整局の調整員」と名乗る男たちに自分が見たものを口外することもエリースに会うことも禁じられて帰されたデヴィッドは、しかし彼女のことが忘れられず、かつて彼女と乗り合わせたバスに3年間乗り続けて、ついにエリースと三たび出会う。
観てるあいだ中、ずっと違和感があったんだが、どうも主人公の行動が唐突で、しかもそれはストーリーが進行していくにつれてさらに顕著になっていく。
選挙という重要な局面でひとりの女性に夢中になって我を忘れ、彼女を追うあまりどんどん常軌を逸した行動をとるデヴィッド。
彼がエリースと出会い、愛し合うことを執拗に阻止しようとする調整員たち。
なぜ?の嵐なのだ。
そして思った…これは、「フィリップ・K・ディック」というSF作家(本人は純文学を目指していたらしいが)の人生について最低限知っておかないと、ただ物語を追っているだけではかなり退屈な作品なんじゃないかと。
いや、何度も言及される「運命」というテーマは普遍的なものではあるが。
なぜデヴィッドはエリースに惹かれるのか。
どうして男たちはそれを邪魔しようとするのか。
ディックは恋多き人で生涯5回結婚している(すべて離婚)。
愛した人には去られたり、薬物によって大切な人たちを失ったりしている(デヴィッドの兄は薬物で命を落とした、と劇中で語られる)。
おまけに生前は貧乏で純文学への夢もやぶれ、後半生は独自の宗教観をもち神秘主義に傾倒した。
彼は極端にロマンティストな面と、現実のすべてをむなしく感じてしまう面があったようだ。
そんなところに僕は非常に共感をおぼえるんだが。
つねに自分を苛む、人生に対する後悔の念。
もしかしたらそうであったかもしれない可能性。
デヴィッドがテレンス・スタンプ演じる調整員に「何度もチャンスを与えられていながら、いつもそれらを自分でぶち壊してきた」といわれるくだりなどは、ディック自身が自分をそう感じていたのではないか。
そう思って主人公にディック本人を重ね合わせると、大事な仕事でもうわの空になって「夢の女」を追い続けるデヴィッドの姿になんとなく合点がいく。
デヴィッドはいう、「僕の演説には心がない」と。
有権者の好みに合わせてあらかじめ決められた色のネクタイをして適度に傷んだ靴を履き、みなが望むことを喋る。
彼はそのことにむなしさを感じている。
「夢の女」を追い続けるかぎり、現実のむなしさから逃れられる。
居眠りぶっこいててあとで必死にバスを追いかけたり、重大な秘密を知っている主人公を野放しにしたりと隙だらけの調整員たちの妙な人間っぽさがカワイイ。
察しがつくだろうけど、この映画に登場する“調整員”というのは、劇中でも「天使と呼ばれることもある」といってるように、人々が「運命」と呼ぶものを擬人化させたものである。
そして彼らに指示を出す「議長」というのは、いうまでもなく「神」のことだ。
だから議長は姿を現わさない。
そして、彼はどこにでも存在して、さまざまな人間の姿を借りる、と説明される。
それは「唯一絶対神」を信じる西洋人的発想で、自然の中に精霊が宿り、そこに統率された意思など感じない僕ら日本人にはちょっと理解しづらいが、それでも僕たちだって「運命」という言葉はよく口にするし、それを信じる人も多い。
この映画は「運命」というものが存在することが前提になっているが、もっと虚無的になれば、そもそも運命なんてものは無くて、すべてが「偶然」にすぎない、という考え方もある。
僕は最近そう思ってるけど、一方では「運命」というものはあるんだ、と信じて生きた方が救いがあるんではないか、とも思う。
この映画で主張される「運命は自分自身で切り開くもの。私たちには選択の自由がある」という、そんなのあらためていわれなくてもわかってるよ、と思ってしまう手垢にまみれたようなメッセージは、しかし日々まるで「運命」というものが自分を邪魔して人生を生きづらくさせているように感じている僕のような人間にとっては、つねに自分に言い聞かせたい言葉である。
結果的に「これは運命だったのだ」と自分で納得できるならそれでいいだろう、と。
…以上は、この映画を素直に観た感想です。
以下はおまけ。
僕がこの映画を観ているあいだずっと持っていた違和感…それは、この映画の中で主人公デヴィッドの行動に客観的にツッコミを入れる登場人物がひとりもいないことだった。
エリースに一目惚れしたことを告げると、彼女もまた「私もそうだった」と答える。
デヴィッドが遭遇した出来事は常識的に考えると夢か幻覚なのだが、映画の中では彼の精神状態を疑うような場面はない。
それは、この映画がほぼデヴィッドの一人称の視点で描かれているからだ。
通常、こういうシナリオならば、主人公は自分自身がまともではなくなってしまったことに悩むか、まわりの人間が彼の正気を疑う。
しかし、この映画では万事がデヴィッドが望む方向に進んでいく。
あまりに都合が良すぎて物語としてはヒネリが足りない。
人間の運命に干渉する“調整員たち”は「人間の心が読める」ということだが、「自分の思考が他人に盗まれている」という強迫観念は、「統合失調症」にしばしばみられる症状である。
ようするに、この映画に描かれているのはすべて主人公の妄想なのではないか、ということ(最近こんなことばっか書いてるなぁ)。
主人公が市井の人ではなく、政治家という社会的地位が高そうな職業に就いているのも、呆然とするような強引なハッピーエンドもこれで説明がつく(…のか?)。
観客はこの映画を観ているあいだ、ずっと頭のオカシイ男の妄想につき合わされてきたのではないか…?
そう考えた瞬間、みずからの力で運命を切り開き、愛する女性を手に入れた男の物語は一転して不気味なものに変貌する。
この映画で描かれた物語の外側に、“『ビューティフル・マインド』状態”で恍惚となっている「本物の主人公」が存在しているのかもしれない。
…などと好き勝手書いてきたけど、作り手にそんな意図があるという具体的な証拠があるわけではないので、単なる思いつきとして軽く流していただければ。
でも、フィリップ・K・ディックという作家は、そうやって作品の中で幾重にも「現実」に疑いを投げかけ続けた人なので、あながち的外れな“妄想”でもないと思うんだけどな。
ディックに関する本の中でたしか精神科医の斎藤環が書いていたと思うんだけど、作品の面白さとは別に、ディックが描いた「この現実や自分は本当はニセモノかもしれない」「自分の運命は何者かによって操作されているのかもしれない」という疑問には答えがなくて、考えれば考えるほどあとに何も残らない、とてもむなしい気持ちになる代物で、だから薬物も使用して終生そういうテーマにとらわれていたディックは一見するとパラノイア的な狂人に思えるが、実はそういう存在にあこがれていた常人で精神病理学的にはさほど興味を惹く部分はない、というような評価はよくわかる気がする。
実際のディックは恋人たちと修羅場のような生活を何度も経験してジタバタと必死に現実の人生を生きた人であって、現実と空想の世界を混同したり薬物で廃人になるようなことはなかった。
ディックは慢性的に「むなしさ」を感じていたかもしれない。
それでも、リドリー・スコットの『ブレードランナー』の撮影済みフッテージを観て作品の完成を楽しみにしていたそうだ。
彼は映画の完成を待たずに脳梗塞で倒れ、帰らぬ人となった。
本人はもっともっと作品を書きたかったに違いないが、僕には幸せな人生だったように感じられる。
そんなわけで、この『アジャストメント』はスカッとする娯楽大作ではないけれど、フィリップ・K・ディックに興味があったり、「ちょっと奇妙な寓話」めいた映画がお好みの人は試しに観てみてはいかがでしょうか。
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