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『アラビアのロレンス/完全版』

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「午前十時の映画祭10」でデヴィッド・リーン監督、ピーター・オトゥールオマー・シャリフアンソニー・クインアレック・ギネスアーサー・ケネディホセ・フェラー、ジャック・ホーキンスほか出演の『アラビアのロレンス/完全版』鑑賞。1962年作品。日本公開1963年。(完全版1988年。日本公開1995年)。

第35回アカデミー賞作品賞、監督賞、撮影賞、編集賞美術賞、作曲賞、録音賞受賞。

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第一次世界大戦中のアラビア半島。イギリス陸軍少尉のT・E・ロレンス(ピーター・オトゥール)は、トルコ人の支配するオスマン帝国に対するアラブ反乱の指導者ファイサル(アレック・ギネス)と会い、50人のアラブ人とともにネフド砂漠を渡ってオスマン帝国軍が占拠する港湾都市アカバを攻撃する。ロレンスはアカバ攻略後もアラブ人たちとともにゲリラ戦を続けるが、やがてアラブはオスマン帝国から解放されたものの、イギリスをはじめ西欧諸国によってアラブ人による中東の独立は阻まれていく。 


現在劇場公開中の『1917 命をかけた伝令』や『彼らは生きていた』(感想はこちら)は第一次世界大戦西部戦線が舞台ですが、その頃中東では…というのがこちらの『アラビアのロレンス』。

僕は確か90年代に実家でBSだったかで観たんですが、それがオリジナル公開版だったか、それともスピルバーグやリーン監督自身の監修によって88年に作られた「完全版」だったのかは覚えていません。

母親がピーター・オトゥールのメイクの「目張りが凄い」と笑ってたっけ。

内容についても、舞台となる1916~18年の中東の状況をちゃんと理解していなかったので(今だってちゃんと理解してるとは言い難いが)、結局のところ何がどうなったのかよくわからないまま映画が終わってしまった感じでした。

モーリス・ジャール作曲のあのエキゾティックで壮大なテーマ曲から、なんとなく砂漠を舞台にしたロマン溢れる戦争巨篇、みたいな映画を想像してしまいそうだけど、そういう娯楽映画的な面白さを期待すると見事にはぐらかされる。

まず、四時間近い上映時間があるにもかかわらず、女性がまったく登場しない(途中でトルコ軍に虐殺される村人の中にいたかもしれないが)ことに驚かされる。まぁ、それ言ったら同じリーン監督の『戦場にかける橋』(1957)だって出てくるのは男ばっかですが。

今回、初めて劇場で観るので楽しみにしていたし、TV画面では遠くの人がまるで豆粒のような大きさにしか映らない砂漠の光景は、やはり映画館の大きなスクリーンでこそその迫力や臨場感を味わえる。

ただ、去年観た『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(感想はこちら)もそうだったように朝の10時に観始めて終わるのが午後2時ちょっと前ってなかなかの長時間で、観てる間は集中してるから長さを感じさせないのはさすがだけど、映画館を出たら『ワンス~』の時同様に若干クラッときた^_^;

描かれてる内容はそんなてんこ盛りというわけでもないのにこんなに長尺なのが不思議なんだけど(別にワンカットワンカットが特別長い印象もなかったし)、砂漠をじっくりと見せるからどうしてもこの長さになってしまうんだなぁ。簡単に何度も繰り返して観られない。

映画評論家の町山智浩さんやラップの人の宇多丸さんの解説や批評を聴くと、より作品を楽しめるし理解も深まります。

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町山さんが解説の中で仰っているように、確かに「ニュー・プリント版」の日本のポスターの惹句「自分を、信じろ。」は映画の内容と正反対のことを言ってますよね。映画の中でロレンスは、「自分」が何者なのか、どこに属するべきなのかずっとわからなかったのだから。 

そしてこの映画は宇多丸さんが語られていたように、非常に今日的な作品だと思う。

映し出されているのは民族の独立をめぐる物語であるはずなのに、実はひとりの男の「自分探し」を描いている。 

映画はロレンスの自伝「知恵の七柱」を基にしているけれど、人間にとっては苛酷な環境である“砂漠”に自身の居場所と心の安寧を求めたが挫折する男の物語は、時代を越えた普遍性がある。

砂漠繋がりでいうと、僕はこの映画を観るとデヴィッド・リンチ監督のSFファンタジー映画『デューン/砂の惑星』(感想はこちら)を思い浮かべます。*1あれも他の世界から来た主人公が砂漠の民のリーダーになる話だった。

いわゆる「白人酋長モノ」で、カイル・マクラクラン演じるポール・アトレイデスは最後に救世主であることがわかって雨の降らないはずの惑星に大粒の雨が降ってめでたしめでたし、となる。

デューン」の原作がT・E・ロレンスの実話の影響を受けているのかどうか僕は知りませんが、物語には非常に似通った部分がある。

そういえば、ダルアーでロレンスを捕らえてレイプするオスマン帝国軍の将軍を演じているホセ・フェラーは、『デューン』では主人公と敵対する皇帝役だった。

僕はホセ・フェラーって『アラビアのロレンス』ではもっと出番が多かったような気がしていたんだけど、出演はほんとにあの場面だけだったんだな。なぜかずっと咳をしていて、まるで『スター・ウォーズ シスの復讐』の悪役グリーヴァス将軍みたいだった。スター・ウォーズも砂漠が印象深いシリーズですが。オビ=ワン(アレック・ギネス)も出てるし。

この映画が今観ても素晴らしいのは、合成やミニチュアなどの特撮を一切使っていないこと。

1960年代には、たとえば砂漠のシーンでは役者をスタジオで撮ってバックに風景を合成したり、車を運転している場面ではリアプロジェクションでやはり風景を後ろに映してその前で芝居を撮ったりということを普通にやっていたんだけど(『ベン・ハー』→感想はこちら とか当時の007映画などを観ればよくわかる)、この『アラビアのロレンス』はすべて現地で撮影しているんですよね。ロレンスがバイクに乗っているところでも、合成じゃなくて実際にピーター・オトゥールを撮影現場でバイクにまたがらせている。機関車の爆破も実物大の物を使っている。もちろん、無数のラクダや馬たちも本物。映像的な誤魔化しがないから、どれだけ時代が経ってもそのリアリティが失われない。

デューン』は一見『アラビアのロレンス』のSF版のようだったけど、もちろん『アラビアのロレンス』の方はもっと内容が複雑だし、単なる英雄譚ではなく、まるで自分をアラブの救世主のように錯覚したロレンスがやがて挫折を味わうところまで描いている。むしろ、「英雄譚」の否定なんですよね。だからこの映画は冒険モノでもなければ英雄モノでもない。

映画の冒頭で事故で亡くなったロレンスのことをこき下ろす男性に別の男性が反論してロレンスの素晴らしさを語るが、彼は映画の後半で虐殺に手を染めたロレンス本人に気づかずその頬をぶっている。彼がのちに握手してもらって感激していたその相手は、砂漠の殺戮者でもあった。

自分が何者なのかわからず彷徨し続けた男が、最後まで何者にもなれないまま死ぬ──永遠に走り続けるオートバイの車輪の回転の中に閉じ込められた男の話なんだな。 

イギリスがアラブに対して行なった無責任な「三枚舌外交」はそのままアメリカに引き継がれ、今日の中東の政治的不安定に繋がっている。

劇中でアリ(オマー・シャリフ)やアウダ(アンソニー・クイン)は、ともにアラブのために戦ったはずの“L・オレンス”が結局は「自分探し」に失敗した、イギリスの手先でしかなかったことに失望する。彼は砂漠の救世主などではなかった。

ロレンスはアラブ人たちが互いに争い合っていることの愚かさを語っていたが(それは命懸けで助けたガシムがその直後にアウダの仲間を殺したためにロレンスがガシムを処刑せざるを得なくなる場面で表現されている)、彼やイギリスはそんなアラブ人たちの想いと犠牲を利用した。人間として下劣なのは果たしてどちらであろうか。

広大な砂漠の中の人やラクダや馬の動き、スペクタクル場面をふんだんに盛り込みつつもこの映画が高揚感よりも虚しさを強く残すのは、絶望的なまでの砂漠の広さと対比した人間の小ささを否が応でも意識させられるからかもしれない。 


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*1:スピルバーグの『未知との遭遇』(『特別編』と『ファイナル・カット版』)の砂漠に埋もれた巨大な船は、この映画のスエズ運河の場面からインスピレーションを得たのだろうか。