レニ・リーフェンシュタール監督による1936年のベルリンオリンピックの記録映画『民族の祭典』。1938年作品。
9月に愛知県美術館で「あいちトリエンナーレ」の映像プログラムの1本として上映されたものを鑑賞。
『オリンピア』二部作(第一部『民族の祭典』、第二部『美の祭典』)はオリンピック映画の金字塔として高く評価され、また市川崑監督が『東京オリンピック』(1965)を撮る際に参考にしたとも言われる一方で、ナチスのプロパガンダ映画として批判されてもいる。
『オリンピア』はDVDにもなっていますが、今回上映されているのは日本ではソフト化されていない英語字幕版で、映像はリストアされて以前のものよりもかなり鮮明になっているとのこと。
このヴァージョンの日本での上映は初めてで、貴重な経験になりました。
日本語字幕はなかったので日本語が流れる場面以外は正確には言葉を理解できなかったけれど、選手たちを写した映像が主体なので問題なく観られました。
上映前にキュレーターのかたが、今回のこの映画の上映の意図の説明や作品に含まれるプロパガンダについて注意を促されていました。
あいにく僕は観ていませんがNHKの大河ドラマではオリンピックにまつわる実話を基にした物語が放映中だし、来年の東京オリンピックを意識しての上映であることは明白で、そのことも念頭に入れながらの鑑賞に。料金は無料で、事前に整理券をもらって入場するシステムでした。
第二部の『美の祭典』も続けて上映されていましたが、時間の都合で残念ながら観られず。僕はこれまでDVDでも未視聴だったので、第一部だけでも観られてよかったです。
『美の祭典』の方は主に水泳競技が取り上げられているようだけど、こちらの『民族の祭典』は陸上競技。
競技の模様が映し出されて、上映会場の客席から息を呑む様子や感嘆の溜息などがこぼれていて、中には「観戦」気分で盛り上がっているおじさんもいましたが、キュレーターのかたが仰っていたように、ベルリンオリンピック自体がアドルフ・ヒトラーがナチス・ドイツの威信を懸けて行なったプロパガンダの一環でもあったのだし(聖火リレーはこの大会から始まっている)、またリーフェンシュタールは厳密な「記録」にこだわらず、競技の本番後にあらためて選手を呼んで撮影し直したり、明らかにバックの競技場の風景が合成(スクリーン・プロセス?)で手前で各国のアナウンサーが実況しているところを挿入したりと(日本のアナウンサーも登場する)、要するに今で言う「やらせ」も堂々と行なっているので、これを無邪気にスポーツ中継みたいな感覚で観るのは慎重になるべきだと思う。映像も音声も周到に演出・編集されている。
観客からエモーショナルな反応を引き出すために“事実”が修正されている。点数や記録が改竄されたわけではないだろうが、映し出されている映像が“事実”そのものだとは限らない、というのは、フェイクニュースが溢れる現在の世の中に生きる僕たちにも無関係なことではない。
僕が先ほどの日本の選手の活躍に盛り上がっている映画の観客を見ていて感じたのは、人というのは結構簡単に映像と音響の雰囲気に騙されるんだな、ということでした。
もちろん、この日上映会場にいた人々はこの映画が紛れもなくナチスのプロパガンダ映画であることはわかったうえで(説明もされていたのだから)観にきているわけだけど、それでもあのおじさんの無邪気過ぎる歓声には危うさも感じたのだった。
日本の選手が多数登場しているのも、当然意図的なものだろう。三国同盟のよしみか。
だからこれを観て単純に「日本の選手が目立っている!」「日本スゴい!」などと思って気持ちよくなるのは危険なのだ(大会の会場で日の丸を振り、万歳三唱している当時の日本人の観客たちの姿に、今となっては複雑なものを感じる)。そのように“印象操作”されているのだから。
むしろ、この映画で用いられている撮影や編集のテクニックについて考えてみる必要があるでしょう。
ここでは「劇映画」のさまざまな効果が使われている。スローモーション、クイックモーション(早廻し)…。どう考えても通常のスピードではありえない“キャプテン・アメリカ”ばりの超人的な速さで走る選手たちの姿に上映会場からどよめきが起こっていたけど、こんな簡単な映像のトリックでみんな感心してしまうのか、とちょっとショックだった。
マラソン選手が走っている姿を身体の各部分のアップショットを細かく割ってモンタージュしているところなど、まるでエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』を観ているようだ。この映像も競技当日のものではなく、後日撮り直したもの。
競技が映される前に引き締まった肉体の美男美女が裸でポージングする映像が結構長く流れるんだけど、女性は胸も露わでお尻も映っている。この時代としてはなかなか大胆な撮影だなぁ、と。これがリーフェンシュタールが、そしてナチスが考える「美」だったのだな。確かに美しいんですけどね。
ドイツの選手も観客たちも普通にナチス式敬礼をしている。
ヒトラーがそわそわしながら競技中の選手を目で追っていたり、ゲーリングやゲッベルスたちと笑顔を交わしている様子も映っている。
ナチスについてまったく知識がなければ、彼らはユーモラスで人間的な人物にさえ見える。
だが、この映画が公開された同じ年にドイツは隣国オーストリアを併合して、翌年の39年にはポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まる。ベルリンオリンピックはまさに平和のともしびが戦火へと変わる直前の、見せかけの「平和の祭典」だった。映画にはオーストリアやポーランドの選手たちも映っている。そのわずか3年後には、もはや世界はスポーツで国際交流することもままならない状況となっていた(日本は1940年に開催予定だった東京オリンピックを返上。また第二次世界大戦のため、オリンピック大会自体が中止された)。
『民族の祭典』ではアメリカ代表で出場した黒人選手のジェシー・オーエンス(2016年の映画『栄光のランナー/1936ベルリン』は彼が主人公)が100m走でぶっちぎりで1位になる場面も。白人種の優越性を唱えていたヒトラーはどのような気持ちでそれを観ていたのか。国威発揚や民族主義の正当化のための戦いでもあったベルリンオリンピック。ドイツの選手が活躍するたびに熱狂するドイツ国民の姿は、東京オリンピックを来年にひかえた僕たちにとても重要なことを伝えているように思える。
1990年代にレニ・リーフェンシュタールを取材した長篇ドキュメンタリー映画『レニ』をやっていて、確かTVで放送されたのを録画して観た記憶があって、そこで彼女は自身のナチへの加担を否定していた。また、ヒトラーのアートに対するセンスを「キッチュ」と斬り捨ててもいた。
でも、僕は彼女が撮った『オリンピア』にはヒトラー好みの美学を大いに感じるし、彼女がナチスのために撮った映画が多くの観客を心酔させたことは事実だ。後年リーフェンシュタールが夢中になったアフリカのヌバ族の姿からも、やはり彼女の「肉体美」への強い関心、傾倒はある時期ナチスと非常に親和性が高かったのだろうと想像できる。
レニ・リーフェンシュタールの「美」に対する姿勢というのは、表現者やアーティストと呼ばれる人々の責任について思考を呼び起こす。それはもちろん「表現の自由」にも大いにかかわってくることだ。
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