映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

※2019年の“はてなダイアリー”終了に伴い、2018年9月にブログを移行しました。

映画を“素直に”観る、とは?

普段、もう一つのブログに劇場で鑑賞した新作映画の感想を書いています。

以下は、僕の映画の感想についての考えを述べたものです。

あくまでも「僕の」なので、お前の映画の見方や感想なんかに興味ねぇわ、というかたにとってはきわめてどうでもいい文章です。


こちらのブログにも時々過去に観たりDVDで鑑賞した映画の感想を投稿することがありますが、最新作の感想はさらに長くて、せっかく読み始めてもいつまで経ってもダラダラと終わらないので途中で離脱されるかたもいらっしゃるようで。

「もっと要点を絞って短くまとめればいいのに」とアドヴァイスをいただくことも。

ですが、僕が映画の感想を書く目的は、人にわかりやすく伝えることでもその映画を紹介することでもなくて「映画のどこをどう感じたのか、なるべく詳しく記録しておくこと」なので、可能な限り思いつくことを記しておきたいのです(それでも感想を書く段階で内容をかなり忘れていたり、字数制限の関係で一部を割愛する時も)。

映画の感想、あるいは批評を書く人の中には「批判的なことは書かない」というポリシーを持たれているかたがいて、つまり自分が「面白い」「好きだ」と思った作品についてだけ書く。または、なるべくその映画の優れた部分、良いところを書くようにする。

そういうかたの書く文章は読んでいて気持ちがいいし、理屈ぶらず何より作品をdisって読む側を不快にさせる要素がないため、敵も作らない。

その姿勢には映画に対する矜持を感じるし、ステキだな、とは思うんですが、僕の場合はそれだとストレスが溜まっちゃうし何のために映画の感想を書いてるのかわかんなくなってしまうので、お断わりを入れた上で酷評することもあります。*1

ただ、そのようにインターネット上で映画に辛口の感想を述べる人間を気に食わない人もいるようで、「エンタメ映画に屁理屈こねやがって」とか「評論家気取りか」とか「こうやって映画を語ってる俺カッコイイ、って思ってるんだろw」といった憎まれ口を叩く輩も。

そういう奴には一言「うっせぇ。(バカリズム風に)」と言いたいんですが、公の場でブログを公開している以上、そこに載せた映画の感想もまた他者からの批評対象になるのは致し方ないところではある。


さて、今から20年ぐらい前のこと。

当時、同じ店でアルバイトしていた女の子とローランド・エメリッヒ監督による『インデペンデンス・デイ』の話題になって、その女の子がビル・プルマン演じるアメリカの大統領が「今日(7月4日)はこの地球の独立記念日だ!」みたいな演説をする場面で感動した、と言っていたので、僕は逆にあの場面で鼻白んだ、と答えた。

いや、「感動した」と言ってる人にわざわざ正反対の意見をぶつけるのが無粋なのはわかっていますが、アメリカの独立記念日を世界の独立記念日みたいに宣言することのどこが「感動的」なのか僕にはわからなかったので、なんとも同意し難かったから。

すると、彼女は諭すように僕に「映画はもっと素直に観た方がいいですよ」と言ったのだった。

その言葉がずっと気になっていたんですが、似たようなことを言う人たちが今でもいる。

細かいところにいちいち難癖つけずに、もっと素直に映画を観ましょう、と。


インデペンデンス・デイ』の演説に感動するのは人の自由だけど、しかし「映画を“素直に”観る」とはどういうことだろうか。

作品の内容に疑問を持たず、批判もせず、黙って満足して家に帰ることが映画を「素直に観た」ということなんだろうか。

了承し難いことですな。

多分、映画について「素直に云々」という言葉を口にする人にとって、「映画」というものは単に数ある娯楽の中の一つに過ぎないんでしょう。

だからそんな「たかが映画」になんで僕が(彼らにとって)めんどくさいこと言いだすのか理解できないのに違いない。

どーでもいいじゃん、ただの映画なのに、と。

だけど、アメリカ人の独りよがりな「俺様節」の演説に“素直”に感動できてしまうのは、なんとなく雰囲気で何も考えずにものを見ているからじゃないのか。

だったらヒトラーの演説だって意味もわからずに観ていたら感動的だろう、きっと。

前後の文脈を考えずに勇ましい音楽やカッコイイ映像に酔ってればそれでいいのか、という疑問は常にある。

ストーリーについて、演出方法について、俳優の演技について、その他もろもろ、映画にはいろんな要素がある。

それらについて考えたり語ることが、無意味だったり無価値な行為だとは僕は思わない。

疑問を感じたり、ハッキリと嫌悪を抱いたならそれを指摘する。

僕にとっては、それが「映画を素直に観る」ことなんですがね。

無論、その逆に面白かったり感動したらそれを表明する。

当たり前のことですよね。

しばしば作品の内容を「批判すること」が、その作品の存在そのものを否定している、disってる、と捉えられて、それを目にした該当作品のシンパが感情的に反論、というよりも単なる罵詈雑言を浴びせてくることがあるんですが、そういう場合、作品そのものに対してよりもそういった“狂信者”たちの「自分たちと意見を異にする者は許さない」という性根をこそ僕はdisりたい。

今ここに書いていることはすべてブーメランで自分にも跳ね返ってくることなので、自戒したいと思いますが。


映画の感想って、褒めてる文章でも読み応えのあるものはもちろんあるけれど、でも酷評ほど面白いというのは確かにあるし、どんなに完璧に思える作品だってケチつけることは可能です。反対に、作品の良い部分をちゃんと一つ一つ挙げて評価することの方が手間がかかる。

インターネット上では好意的な文章よりも悪意のこもった文章の方が圧倒的に多いように。

だからつい重箱の隅をつつくようなことをしてしまいがちではあるんですが、中には「重箱の隅」どころではないものも結構あるんですよね。

根本的にストーリーの組み立て方がおかしかったり、俳優への演出がどう考えても間違ってる場合なんかも。

それらを指摘することは、その作品を自分がどれだけ理解しているか、ということにも繋がる。

「みんなが褒めてるから」とか「みんなが貶してるから」というのは、映画を観る際の参考や自分の意見との比較対象にはなっても、自分の感想そのものとはなんの関係もないはずだ。自分がどう思ったかが重要なんだから。

さっきから当たり前のことばかり書いてますが、「誰々」が褒めてるとか貶してるとかってことをやたら気にする人が意外といるんだよね。

権威や数の後ろ盾がないと自分の意見さえまともに発言できない奴が。

「誰々」じゃなくて、お前はどうなんだよ、と。

それは映画以外のことにも言えるんじゃないでしょうかね。


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*1:もちろん、いつも酷評しているわけではなくて、ほぼ絶賛の文章のみの感想だってあるのだが、酷評の方が人の印象に残りやすいんだろうな。