映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

もう一つのブログとともに主に映画の感想を書いています。

『ザ・マスター』


ポール・トーマス・アンダーソン監督、ホアキン・フェニックスフィリップ・シーモア・ホフマンエイミー・アダムス出演の『ザ・マスター』。2012年作品。日本公開2013年。R15+

ポール・トーマス・アンダーソンヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞、フィリップ・シーモア・ホフマンホアキン・フェニックスが同映画祭で最優秀男優賞を共同受賞。

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1950年。フレディ・クエル(ホアキン・フェニックス)は新興宗教“コーズ”の教祖“マスター”ランカスター・ドッド(フィリップ・シーモア・ホフマン)と出会い、彼のもとに身を寄せることになる。ランカスターはフレディに「プロセッシング」という療法を施すが、フレディは次第にマスターの教えに疑いを抱くようになる。フレディに対してランカスターの妻ペギー(エイミー・アダムス)と家族たちは快く思っていなかったが、それでも身寄りのないフレディはコーズに留まり続け、マスターを批判する者に鉄拳を振るうのだった。


ポール・トーマス・アンダーソンの映画はこれまで『ブギーナイツ』『マグノリア』を映画館で、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(感想はこちら)はDVDで観ています。

1970〜80年代のアメリカのポルノ映画業界を描いた『ブギーナイツ』は、ジョン・C・ライリーがいい年コイて「俺はハン・ソロだ」とホザいたり、マーク・ウォールバーグ扮するデカチンだけがとりえのボンクラがキャメラの前で得意げにヌンチャクを振り回す中坊スピリット溢れる作品だったし、『マグノリア』も(内容をほとんど覚えていないが)トム・クルーズ演じるSEX伝道師が出てきたりカエルが空から降ってきたり、面白かったと記憶している。

でも前作の『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は、正直僕には「難しくて」非常に困惑させられたのだった。

評価の高い作品だけど、ハッキリ言ってしまえば「自分には不要なタイプの映画」と思った。

だからこの映画も劇場公開された時には軽くスルー。

新興宗教の教祖とその信者の話とか、またなんだかよくわからない映画なんだろうな、と。

でも、つい先月に教祖役のフィリップ・シーモア・ホフマンが亡くなったことと、これも先月『エヴァの告白』(感想はこちら)で久しぶりに観たホアキン・フェニックスの演技が印象的だったのでレンタル店で借りてきました。


結論からいうと、やっぱり難しかった。

フィリップ・シーモア・ホフマンホアキン・フェニックスの2人の演技に見入ってたから、退屈はしなかったけれど。

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』同様にわかりやすい起承転結のある映画ではないし、場面についてもいちいち細かく説明してくれないので(ランカスターがフレディを伴って自著「本 No.2」を“掘りおこし”に行く場面など)、ようするに何を描いてる映画なのか1度観ただけではよく理解できなくて。

なので、今もかなり心許ない状態でこの感想をしたためています。

的外れなこと書いてしまうかもしれません。


さて、この映画に登場する“コーズ”という新興宗教団体は、サイエントロジーがモデルといわれている。

トム・クルーズジョン・トラヴォルタがサイエントロジストであることはわりと有名(他にもジュリエット・ルイスジェニファー・ロペスなどがいる)。

トム・クルーズは団体の広告塔として各国で目をつけられているし、トラヴォルタはかつてサイエントロジー創始者L・ロン・ハバードの原作を映画化した『バトルフィールド・アース』で、鼻にチューブをつけて上げ底ブーツを履いた“トラヴォルタ星人”を演じて各方面で笑われた。

この『ザ・マスター』の中でも、コーズの教祖ランカスター・ドッドが「宇宙的侵略者」がどーたらこーたらと真顔で話す場面がある。

彼が行なう「プロセッシング」は、サイエントロジーのカウンセリング「オーディティング」を思わせる。

そんなわけだから、僕はてっきりこのカルト教団をコケにして批判的に描いている映画だと思っていたんだけれど、そうではなかった(若干皮肉めかして描いてはいるが)。またストーリーはフィクションで、実話に基づく話でもないようだ。

それでは、以降はネタバレがありますのでご注意ください。



主人公のフレディは太平洋戦争でジャップを殺してアメリカに還ってくるが、一見して精神を病んでいることがわかる。

もともと問題がある人だったのか(ランカスターに「母親は精神病院にいる」と語っている)、戦争の後遺症によるものなのかはよくわからないが、ロールシャッハ・テストではどんな絵を見せられても「女のアソコ」か「チ○ポ」と答える困った人である。


この映画でホアキン・フェニックスは、常に口の半分を歪めて猫背気味で歩いている。

役作りの一環なんだろうけど、それが異様な雰囲気を漂わせている。


せっかくフォトグラファーの仕事を得ても客にいきなり暴力を振るって職を失い、自家製の怪しげな酒を老人に飲ませて追われて逃げたりと、社会に適応できずにいる。

そんな時、裕福そうな人々の乗った船をみつけて密かに乗り込むと、そこで皆から“マスター”と呼ばれる男ランカスター・ドッドと出会う。ランカスターはフレディの作った怪しげな酒を気に入って、彼を仲間の一員に迎える。

こうして精神を病んだ男フレディの“コーズ”での生活が始まる。

この映画の大半はフレディのコーズでの生活の描写に費やされている。

新興宗教とかカルトといえば日本ではただちにオウム真理教が思い浮かぶが、ではこの映画ではそういう集団の異常さを描いてるのかといったらそうでもなくて、ランカスターの家族は見た目は普通の人々だし、コーズのメンバーたちもやはりその辺にいる一般人のように見える。

たしかに最初フレディが彼らと船の中で接触する辺りでは閉鎖的な集団特有の気持ち悪さが充満していて、一体何をやっているのか、何を喋ってるのかよくわからない連中の中に紛れ込んでしまった恐怖を感じる。

ただし、当のフレディは戸惑いつつも彼自身がかなり問題のある人物なために、逆に普通の人々の中に異常者が入り込んだようにも見えてしまう。

ランカスターが唄って踊りだすと、まわりの人々も一緒になって唄いだす。

しかし、フレディの目にはメンバーたちの女性だけが裸に見える。

これがもう、ご丁寧に女性は全員がマッパなのだ(男の全裸は見たくないから脳内でシャットアウトかwww)。

おばちゃんたちも垂れ乳やセルライトだらけの尻をほうり出してるし、アソコの毛もモロ出し。

妊娠しているペギーも横側から妊婦ヌードを披露している。

おっぱいや下の毛は隠れてたし、演じるエイミー・アダムスが撮影当時本当に妊娠していたのかどうかはわからないけれど、その裸体は妙にリアルでした。

ところで、エイミー・アダムスはここんとこいろんな映画でやたらと見かけるんだけど、ちょっと働きすぎではないか^_^;

昨年は『マン・オブ・スティール』(感想はこちら)、ついこの前『アメリカン・ハッスル』(感想はこちら)を観たし、さらに6月には『her/世界でひとつの彼女』が控えている。

『her』では再びホアキン・フェニックスと共演。

こちらも楽しみにしてますが。

僕は以前からエイミー・アダムスを綺麗で魅力的な女優さんだと感じながらも、どうも彼女のあの瞳に虚無的なものを感じて怖かったんですが、この『ザ・マスター』ではまさにそんな彼女の瞳にゾッとさせられるショットがある。

ペギーがフレディに向かって「私の瞳を青色にしてみて」と言うと彼女の瞳が青に、「黒色にして」と言うと黒に変わる。


この映画で彼女が演じるペギーは、コーズの裏ボスなんじゃないかと思えるほどの影響力を持っている。

夫のランカスターにさまざまに進言し、フレディにもコーズを出て自分の道を進むよう促す。

また彼女は、世の中は醜く人々は愚かで、それに比べて自分たちは選ばれた特別な存在だと信じている。

一見きわめて常識的な人物でありながら、明らかに歪んだ思想、宗教観に支配されてもいる。

僕はこの映画で、誰よりもペギーが一番恐ろしかった。

かといってランカスターもペギーもわかりやすい悪人とは言い切れない、一言ではなんとも形容できない人物で、それはつまり、現実に生きている僕たちと変わらない生身の人間、ということ。

家庭を持ち、子どもたちを育て、食事して仲間たちと語らう、見た目は善良でごく平凡な人々。

だからこれは、特殊な集団の話ではないんだろう。


ランカスターもまた、人々の中でカリスマ性を発揮したり愛嬌があって魅力的な好人物に見える時もあるが、一方では彼の活動を「催眠術やカルトとどう違うのか」と批判した人物に対して非論理的な返答をしたり(この場面は何かといえばネットでゴタクを並べる輩を思い起こさせる)、信者の女性をいきなり怒鳴りつけたりする器の小ささを見せる。

今「カリスマ性」などと書いたけど、ランカスターはいつも「笑いは大切だ」と言うように人を惹きつける能力があるのは確かなのだが、それはちょっとしたことで瓦解してしまうような脆い「人気」でしかない。

だから次々と新しいプロセッシングの方法を考えたり、さまざまな催しを開いて信者たちを飽きさせないように気を配らなければならない。

ランカスターを演じるフィリップ・シーモア・ホフマンはその低い声がなかなか説得力があるものの、正直僕にはヒゲ生やしたカンニング竹山にしか見えなくて(;^_^A

この絶妙なまでの胡散臭さ。


僕はこれまでフィリップ・シーモア・ホフマンの出演作品は何本か(PTA監督作品以外では『ハピネス』や『あの頃ペニー・レインと』『レッド・ドラゴン』『M:i:III』etc.)観てますが、あいにく彼の主演映画は1本も観てなくて、この作品がほとんど初めてといっていいぐらい(厳密には主演はホアキン・フェニックスだが)。

彼の追悼もこめての鑑賞だったんだけど、想像してたような「カリスマ性」を彼からは感じなかった。

だって彼が演じていたのは、自分が提唱してるものが何なのか実は本人でさえよくわかっていないんじゃないか、と思えてくるほど信用ならない人物だったから。

だからこれは非常に高等なテクニックで新興宗教の教祖を皮肉った映画、といえるのかもしれないけど、僕のようについ「映画」にわかりやすい感動や答えを求めてしまう人間にとっては、ポール・トーマス・アンダーソンの映画は「難しい」のです。

とりあえず、こちらのかたのブログ記事を参考にさせていただいて、「宗教=自慰行為」ということを描いてるんだ、ということで納得。

この映画では冒頭から砂浜で作った砂の女体の下半身を愛撫するフレディの姿が映しだされる。

ランカスターは妻が妊娠しているためにセックスできず、ムラムラしていて洗面所で彼女に手で“抜いて”もらう。

教祖様がかみさんに手コキしてもらっておイキになるとか、コケにしてるといえばコケにしまくってるともいえるが。

そして先ほどの女性オンリー・ヌードのシーンなど、いたるところに性的な描写が見られる。

ポール・トーマス・アンダーソンお得意の(?)皮肉だろうか。

つまり、『ザ・マスター』というのは、“ザ・マスターベーション”のことだったと(おあとがよろしいようで)。


混みすぎのエレヴェーターのこの絵ヅラだけ見るとちょっとユーモラスだけど、別に大笑いできる映画ではない。


人は自分が信じたいものを信じる。

自分が望み、各自が勝手に“解釈”したものを信じている。

ランカスターの息子のヴァル(ジェシー・プレモンス)は、フレディに「親父の言ってることは全部デタラメだ」と言う。

それでも彼は親元を離れることもなく、父親の仕事を手伝っている。

彼にとっては父親の主張などどーでもよくて、とりあえずそれは「金の生る木」なのだ。

ローラ・ダーン演じるヘレンがランカスターが書いた本の内容で“想起”と“想像”の違いについてこだわる場面など、信者以外の者にはほんとにどーでもいいことなのだが、彼女にとっては重要な問題。

彼女の指摘にランカスターはキレて「何が言いたいんだ!」と怒鳴る。

人は教祖だの尊師だのに自分を導いてくれる、人生の指針となってくれることを望むが、相手だってただの人間なので“神”のような絶対的な存在になどなれない。

むしろそんなものから自由になった時に、人は本当に人生を歩みだせるのかもしれない。

フレディはどこにも属せず彷徨していた。

そんな彼の心の隙間にランカスターはスッと入ってきた。

フレディはコーズの教義にさして興味があるようにも見えないのに、なぜそこに留まったのか。

単に彼は自分の居場所を探していただけなのだ。

まるで父親のようにフレディを温かく迎え入れるランカスターの存在に心地よさを感じたんだろう。

だから彼を批判する者にフレディは容赦なく暴力を振るう。

団体の教義などほんとはよくわかっていないが、ともかく自分の庇護者を責めたり批判する者は許せない。だからぶちのめす。

こういう人、いますよね。

彼らはフレディにとっての“マスター”ランカスター同様、自分を導いてくれる者、父親の代わりのような存在を求めているのだ。

そういえば、マスターの本を批判してフレディにしばかれる気の毒なビル(フレディに「どう思う?」と聞かれたから答えただけなのに)を演じているケヴィン・J・オコナーは『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』にも出演しているけど、この人『ハムナプトラ』のコイツだったのね。


詐欺の疑いで逮捕されたランカスターと一緒に檻に入れられたフレディはランカスターを罵るが、「君を気にしているのは私だけだ」と言われて、結局また彼と行動をともにすることになる。

このフレディの寄るべなさというか、集団内部の人間たちには受け入れられていないのになぜか一緒にいるという“おミソ”ぶりがなんともイタい。

フレディは16歳の少女ドリス(マディセン・ベイティ)と結婚の約束をしていたが、戦争のために彼は故郷を離れ、あれから何年も経ち、コーズを出奔してドリスの実家にやってきた時には彼女はすでに3年前に結婚していた。


この時のフレディの鬱陶しさがまたなんともいえない。

突然かつての恋人の家にやってきて、彼女の母親に気を遣わせる。

娘の近況を話して「会えてよかったわ」と社交辞令を言う彼女に「もう帰れと?」と返答。

困って「よかったら入って」と言えば、「いえ、帰ります」。

「娘の住所を教えるわ」と気を利かせれば「手紙なんか書かない」と独り悲しみに暮れる。

…う、うぜぇ(>_<)

こういうのも独りよがりのマスターベーションのうちに入るのかもな!


そんで、この映画がめんどくさいのは、一度コーズを抜け出したフレディにランカスターは再度コンタクトを取ってくるのだ。

「俺の居場所がどうしてわかったんだ?」というフレディの質問にはランカスターは答えない。

ただ「君が必要だから新しい支部のあるイギリスまで来い」と言って一方的に電話を切る。

この電話での呼び出しは、フレディが見た夢、と捉えられるように演出されている。

この映画を最後まで観ていても、なぜ“マスター”ランカスターがフレディにあれほど肩入れしたのかはよくわからなかった。

ランカスターはフレディを何かに利用していた、というふうにも描かれていない。

家族を持たないフレディがランカスターたちのような「温かい家庭」に憧れてそれを幻視し、しかしそもそも彼は温かい家庭など知らないのでそれを頭の中で形作ることができずに、結局は独りぼっちに戻るという、長い長い道程の末の悲しい物語のように感じられる。

わざわざイギリスまでやってきたにもかかわらず(その過程がほとんど描かれないのも妄想っぽい)、ランカスターの妻ペギーから「何しに来たの」みたいに冷たく突き放され、「父」であるはずの“ザ・マスター”ランカスターは救いの手を差し伸べることもなく黙っているだけ。

「ここに留まるか、離れるか。離れればお前は私の敵だ。全力で思い知らせる」。

これはしばしばキリスト教の“全能の神”が人に対して課す理不尽な選択に酷似している。

フレディは再度ランカスターのもとを去る。

僕には、これは「神との決別の映画」に思えた。

フレディはパブで知り合った女性と身体を重ねる。

そこで彼は彼女にコーズで受けたプロセッシングと同じように何度も名前を言わせる。

彼女は自分のフルネームを答える。

「抜けちまった。ちゃんと入れろよ」と言って、再び彼女と愛し合うフレディ。

僕はここに、本当に自由になった男の姿を見た。

彼には人生の柱となるものがない。

誰も彼を導いてはくれない。

最後に砂浜で砂の女体に寄り添うフレディの姿には不安もよぎる。

しかし、これこそが人間の姿なんじゃないのか。

ってゆーか、俺だよな、これ、っていう。


2014年2月2日、ドラッグの過剰摂取でフィリップ・シーモア・ホフマン死去(遺作は『ハンガー・ゲーム2』)。享年46。

みずからの妄想の中に多くの人々を飲み込んだ卑小にして偉大な“ザ・マスター”を演じたカリスマ俳優は永遠の眠りについた。

それとも彼はこう言うだろうか。

「次の人生でまた会おう」と。



ご冥福をお祈りいたします。


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