映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

もう一つのブログとともに主に映画の感想を書いています。

『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女<完全版>』


※以下は、2012年に書いた感想に一部加筆したものです。


ニールス・アルデン・オプレヴ監督*1ミカエル・ニクヴィストノオミ・ラパス出演のスウェーデン映画『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女<完全版>』。R15+

2009年作品。上映時間が153分の劇場公開版の日本公開は2010年。

原作はスティーグ・ラーソンの同名小説。

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「ミレニアム誌」の発行人でジャーナリストのミカエル(ミカエル・ニクヴィスト)は、実業家ヴェンネルストレムの違法行為を追及した記事で彼から名誉毀損で訴えられる。判決が下り収監が決まった彼をヘーデビー島に住む大資本家ヘンリック・ヴァンゲルが呼び寄せる。年老いたヘンリックはいまも40年前に家族の前から忽然と姿を消した姪のハリエットの行方をさがしていた。ミカエルの身元調査を依頼されていたハッカーのリスベット(ノオミ・ラパス)は、彼のパソコンに侵入するうちにこの40年前の失踪事件に興味をもちはじめる。


デヴィッド・フィンチャー監督によるハリウッド版(感想はこちら)を観たあとで、おなじ原作の『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』を観て、さらにあたらしくレンタルされていた186分の<完全版>も借りてきました。

基本的には劇場公開版とおなじ話だけど、この<完全版>では主人公ミカエルとミレニアム誌の編集長エリカの親密な関係(ハリウッド版でも少し描かれている)、またミカエルに恨みをもつヴェンネルストレムがミレニアムに内通者を潜り込ませる展開が加わっている。

ハリウッド版を観に行った劇場で本篇の前にガイ・リッチー監督の『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』の予告が流れていて、ヒロインをノオミ・ラパスが演じていた。

たまたまだけど、『ドラゴン・タトゥーの女』のヒロイン、リスベットを演じたふたりの女優がおなじ映画館でそろい踏みしたというわけだ。

その後、ノオミ・ラパスリドリー・スコットの『プロメテウス』(感想はこちら)やブライアン・デ・パルマの『パッション』に出演するなど、ハリウッドでの活躍がつづいている。

以下、ネタバレあり。


さて、ハリウッド版『ドラゴン・タトゥー~』を観終わって、なんとなくモヤモヤと釈然としないものがあった。

つまり、「大ベストセラー作品」といわれるほどの面白さを感じられなかったんである。

これはどうしたことかと思って、未見だったスウェーデン版を観たのであるが。

まぁ、お話はほぼおなじ。

なのでハリウッド版で感じたモヤモヤは解消されなかったのだけれど、ただつい先ほど観たのとおなじストーリーをもう一度違う作品で観るのはちょっと面白かった。

まずストーリーの前に気になったのは、画面の色調の違い。

デヴィッド・フィンチャーのハリウッド版は雪に包まれ全篇曇天で、また登場人物たちはみな不自然なぐらい黒っぽい服ばかり(乗用車も)で、雪の白とのコントラストをなしている。

非常に寒々しいイメージで貫かれている。

対するスウェーデン版はというと、時折青空も映るし日差しも射してなにより画面が明るいのだ。

本家のスウェーデン映画よりもハリウッド製の映画の方がより北欧の寒々しさが際立っているというのもちょっと不思議な感じではあるが、フィンチャーの映画はいつも映像を加工して人工的に仕上げるので、より「イメージのなかの北欧」に近いということか。

昔、リドリー・スコット監督の『ブラック・レイン』(感想はこちら)を観た大阪在住の人が「自分の知っている大阪がまるでハリウッド映画のロサンゼルスみたいに映っていて感動した。そのとき、映画はそこにあるモノをただ撮るのではなく、自分がイメージしたように工夫して作り上げるのだとわかった」といっていた。

つまりそういうことなのかな、と。

スウェーデン版はより自然な色に近いのだろうか。


また演じる俳優も、特に主要キャラクターではハリウッド映画とスウェーデン(というか、ヨーロッパ?)映画の違いが如実にあらわれている。

スウェーデン版の主人公ミカエルは<完全版>ではエリカといい仲で、ヘーデビー島に滞在している彼をたずねてきたエリカと早速ベッドインする。しかもその後リスベットとも何度か夜をともにするのだが、このスウェーデン版でミカエルを演じるミカエル・ニクヴィストは岩石岩男みたいな顔のただのオッサン(『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』→感想はこちら では悪役を演じていた)なので、「なんでこんなオヤジがそんなにモテるんだ?」という疑問もわいてこないではない。


もっとも、スウェーデン版のエリカはわりとトウの立った女性で、このミカエルとエリカの中年カップルには(原作小説ではエリカの夫公認の愛人関係らしいが)なにか妙なリアリティがある。

こんな熟年カップルのベッドシーンは、ハリウッドのメジャー作品では普通やらない。

ちなみにハリウッド版でエリカを演じているのはロビン・ライト

この人はどんな映画に出ててもまるで小雪のようにいつも哀しげな顔をしていて今回もだいぶ疲れた風情だが、スウェーデン版の女優さんとくらべればやはり若くて美形。

そしてミカエル役は007でおなじみダニエル・クレイグときているから、あぁこの男ならモテるだろうし若いリスベットがいきなり上に乗っかってきても不思議ではないな、という説得力がある。

だから特に女性で「ハリウッド版のミカエルの方がステキ」という人が多いのはよくわかるんだけど、でも僕はスウェーデン版で岩石、じゃなくてニクヴィストが演じる「普通のオッサン」のミカエルも悪くないと思った。

記憶力の良さを褒めるとなぜか突然不機嫌になって立ち去るリスベットに戸惑う彼の表情などはとてもいい。

スウェーデンは「美人大国」なんだから、その気になればハリウッド以上にスーパーモデル級の美形をそろえることだってできるはずだ。

でも彼らは「美形」かどうかよりも役柄にふさわしく演技力のある俳優を選ぶのである。

別にハリウッド版の出演者たちに演技力がない、といってるわけじゃありませんが。

ハリウッド版は誰が観ても納得できる美男美女たちといった感じだが、スウェーデン版はより現実味があるというか、こういう人々のこんな関係は実際にあるかもしれない、と思わせる。

リスベットを演じるノオミ・ラパスも、そのユニセックスな外見と孤高なたたずまいがハマっていて、このキャラクターのファンが多いのもうなづける。

ヴィジュアル的にはこのスウェーデン版のノオミ・ラパスもハリウッド版のルーニー・マーラもどちらも顔にいくつもピアスを付けたパンク・ファッションに身を包んでいる。

そしてひっきりなしにタバコを吸っている。

また、人づきあいが苦手でときおり気まぐれに見える行動をとるという特徴も共通している。

ただ、スウェーデン版とハリウッド版ではときどき彼女たちのキャラクター描写にかすかな違いが見られる。

まず地下鉄の構内でリスベットがパソコンを破損するシーンがあるが、その理由やシーンの役割が異なる。

ハリウッド版ではひったくりにパソコンの入ったカバンをうばわれそうになったリスベットが応戦して相手を叩きのめし、颯爽と地下鉄に乗り込む。

スウェーデン版のリスベットは、数人のチンピラにすれ違いざまに暴力を振るわれ腹を蹴られてうずくまり、割れたビンで必死に追い払う。

彼女の目には殴られたあとのあざができている。

ハリウッド版のこのシーンではひったくりそのものに特に深い意味はなく、PCの破損の理由付けとリスベットの男勝りの強さを見せつける効果をねらっているが、スウェーデン版では早速この作品のテーマである「弱者への暴力」が描かれている。

マイノリティ(少数派)である彼女はいつどこで自分のような人間のことが気に食わない連中に襲われるかわからない。ノオミ・ラパスのリスベットはそんな不安をつねに抱えて生きている。


少女時代に父親への傷害事件を起こして精神科に入れられたリスベットは、成人しても一人前の責任能力がないとみなされている。

彼女に同情的だった先任の後見人が病いで倒れたために代わりの後見人が就くが、あたらしく彼女の財産を管理することになったその弁護士がとんでもないサディストで、彼女に小遣いをやるかわりに性的な行為を強要する。

あげくのはてに、無理矢理ベッドに縛りつけて後ろから犯す。

地位もあり社会的な責任も負っている人間がそんなバカなと思うが、非現実的なことではない。

現実でも、たとえば養護施設などでの性的虐待のニュースが報道されるたびに僕は怒りと戦慄をおぼえるのだが、この場面はまさにそれを連想させる。

世のなかには、法律で禁じられているからダメなのではなくて倫理的に人間としてやってはいけないことがあるわけだが、彼ら犯罪者は平然とその壁を乗り越える。

完全に相手を見くびっているのだ。

けっきょく、リスベットはスタンガンで変態弁護士に逆襲、前もって準備していたヴィデオカメラで撮影した暴行現場の映像をネットに流すと脅してみずからの正当な権利を勝ち取る。

不当に痛めつけられた経験のある者には、まさに溜飲が下がる場面である。

このシークエンスはハリウッド版にもあってルーニー・マーラも熱演しているが、ノオミ・ラパスの演技には必死でつっぱって生きている者の矜持が垣間見えてちょっと胸が熱くなる。

ハリウッド版リスベットには身内がいるのかどうかさだかではなく、親代わりだったがいまは入院中の先任の後見人を見舞う場面があるのみだが、スウェーデン版リスベットはラスト近くで施設にいる老いた母親に会いに行く。

ここでの母親との会話も、リスベットというキャラクターをより深く理解するヒントになる。

ハリウッド版のリスベットは、意識的に省いているのか、彼女の過去の生い立ちについての描写がない。

ストーリーはおなじながらハリウッド版では失踪したハリエットがうけていた性的虐待の直接的な描写もないために、どうしてもその事実が台詞による説明だけになっていて、「弱者、あるいは女性に対する理不尽な暴力」というテーマ*2がボヤけ気味なのだ。

どうやらデヴィッド・フィンチャーはそこを掘り下げる気はなかったらしい。

僕がハリウッド版に「なにが描きたいのかよくわからない」と感じた理由のひとつでもある。

そういう意味ではスウェーデン版はもうちょっとわかりやすいのだが、しかしこれはこういうジャンルなので致し方ないとはいえ、描かれるのがどうしても「特殊な性的嗜好の持ち主の変態的な犯罪」に限定されてしまっていて、弱者や少数者への抑圧や一般の社会に潜む暴力の恐怖という普遍性から次第に映画が遠のいてしまう。

もちろんこの映画はあくまで「娯楽作品」なので別に社会問題への批判をストレートに描く必要はないのだが、しかしたとえば似たような連続猟奇殺人事件をあつかった『羊たちの沈黙』で主人公のトラウマと犯罪者に蹂躙される女性たちの姿を巧みに交差させ、男社会のなかでの女性のあつかわれ方がさりげなく描かれていたように、この『ドラゴン・タトゥーの女』でも少数者の代表格でもあるリスベットをはじめ、登場する女性たちに差別や偏見、暴力に対する怒りを担わせることは十分可能だったのではないかと思う。

別に女性にかぎらず、なんのために出てきたのかよくわからないキャラクターが多すぎるのだ。

ヴェンネルストレムがミレニアムに内通者を差し向けるくだりは、最初はミカエルやエリカ以外の社員たちがより深く描かれるのかと思ったのだが、どうもその描かれ方があまりに中途半端なので、なくてもいっこうにかまわない場面だった。

劇場公開版ではヴェンネルストレムの描写はインタヴュー場面以外ほとんどないため彼がシロなのかクロなのかは判然とせず、ラストでのミカエルの一方的な勝利ぶりにやはりモヤモヤとした違和感があったのだが、この<完全版>ではヴェンネルストレムは完全なクロとして描かれている。

ジャーナリストの悪徳実業家への逆襲、というのはちょっとわかりやす過ぎて鼻白んでしまった。

ただ、この映画に含まれる問題提起やサイコ・サスペンス、ラヴストーリーなどのさまざまな要素が物語を一種複雑なように見せていて、それがこの作品の魅力とはいえるかもしれない。

おなじスウェーデン映画『ぼくのエリ 200歳の少女』(感想はこちら)とそのハリウッド版の『モールス』(感想はこちら)については両者を比較してスウェーデン版の方に軍配を上げたんだけど(どちらも好きな作品ですが)、この『ドラゴン・タトゥーの女』についてはどちらが勝っているかといったことはいわず、ともかく両者を観くらべることでそれぞれの優れた部分が見えてきて、物語をよりいっそう楽しむ助けとなってくれたことを報告しておきます。

それぞれに素晴らしい場面があり、見事な演技がある。

真犯人を演じる俳優たちの演技の違いを見るのも楽しい。

続篇の2部と3部を観るかどうかはちょっと迷ってますが。


第1部のタイトルであるこの“ドラゴン・タトゥーの女”というのは、いうまでもなくリスベットのことだ。

彼女は背中にドラゴンのタトゥーを入れている。

続篇を観てないのでその後の展開は知りませんが、この“ドラゴンのタトゥー”には、すくなくともこの映画のなかで明確な意味付けはされていない。

タトゥーというのは、みずからの身体に傷を入れたものだ。

なぜそんなことをするのかは人によって違うだろうが、僕は「自傷行為」の一種だと考えている。

痛みや怒りを抱えた者は、ときにそれを忘れるためにみずからの身体に別の痛みを作り出す。

痛みを抱えた女性キャラクターのリスベットに惹かれる人が多いのは納得がいく。

なぜなら彼女は、痛みを抱えた“わたしたち”の象徴でもあるのだから。


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*1:最新作はコリン・ファレル主演の『デッドマン・ダウン』。ヒロインを「ミレニアム」シリーズにつづいてノオミ・ラパスが演じている。

*2:原作者は実際に女性が乱暴されている現場に出くわしながら逃亡したことを悔やみ続けて「ミレニアム」を書いたという。そして“リスベット”という名はその被害者女性のものであった。