監督:森田宏幸、声の出演:池脇千鶴、袴田吉彦、渡辺哲ほか、スタジオジブリのアニメーション映画『猫の恩返し』。2002年作品。
原作は、柊あおいがジブリの依頼で2002年に描き下ろしたコミック「バロン 猫の男爵」。
僕は未読なので映画についてのみ書きます。
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高校生のハル(池脇千鶴)は、通学中にトラックに轢かれそうになった猫を助ける。その夜、猫たちが行列になってハルの家にやってきた。ハルが昼間助けた猫は「猫の国」の王・猫王の息子ルーンだった。翌日、猫たちの迷惑な“お礼”が届けられていた。
公開当時、ほかのジブリ作品同様に映画館で観たんですけどね。そうかぁ、あれからもう10年以上経ってるんだ。
今回『耳をすませば』(感想はこちら)に登場した猫の人形バロンつながりで、金曜ロードSHOW!枠で11年ぶりに観ました。
これまでも何度かTVでやってたのは知ってるけど、ちゃんと最初から最後まで観るのは劇場での鑑賞以来。
百瀬義行監督による短篇作品『ギブリーズ episode2』が同時上映でした。
で、まず最初におことわりしておくと、僕はこの『猫の恩返し』はジブリの長篇アニメのなかでいままででもっとも苦手としてきた作品です。
上映時間はジブリの長篇アニメ作品のなかでは一番短い75分にもかかわらず、観てる途中で何度か本気で映画館を出ようかと思った。
一応最後まで観ましたが、完全に集中力をうしなっていたのでどんな話だったか今回観なおすまでまったくおぼえていませんでした。
『ギブリーズ』の方は面白かったんですが。
なんか激辛カレーの話だったよーな。
当時スターウォーズのepisode IIをやってたのでそれに便乗したタイトルかと思ってたんだけど、ほんとにepisode Iもあるみたいで。
さて、なぜ『猫の恩返し』がキツかったのか。
観る前からこれまでのいわゆる「ジブリ絵」とは違うキャラクターデザインが不安ではあったんだけど、登場キャラクターたちが落書きみたいなデザインだった『ギブリーズ』は楽しめたんだから(それに99年の『ホーホケキョ となりの山田くん』のいしいひさいちの絵柄は特に抵抗はなかったし。ギブリーズのキャラデザもいしいひさいち)、かならずしも「絵柄が違ったからうけつけなかった」ということではないと思う。
やはりストーリーやキャラクターの描写についていけなくなったのです。
今回観て、自分がかつて劇場で耐えがたくなってきたあたりがなんとなく想像できた。
「嫌いなら観なきゃいいのに」と自分でも思うけど、公開当時、あきらかに「失敗作」だと思っていたのが意外と「ジブリ作品のなかでこれが一番好き」という人がけっこういたりして、あれから11年経って感じ方が変わるかも、という気持ちもあって。
結果的には…自分でもヒくぐらいケナしまくってしまったんですが。
そんなわけで、今回は「俺はどうしてこの映画が苦手か」ということを検証するような気持ちで感想を書いていきます。
そのため、この映画を好きなかたにとっては単なる悪口や粗探しにしか感じられないかもしれませんので、ご注意ください。
以下、ネタバレあり。
以前は、これは『耳をすませば』のヒロイン・雫が書いていた物語、という説明があった気がするんだけど、『耳すま』のなかでちょっとだけ映しだされたファンタジーの世界の話とは直接関係はないようで。
僕はずっとバロンの声は『耳すま』のときのように露口茂が演じていたと思いこんでいたんだけど、じっさいには袴田吉彦がアテていた。
監督が若い俳優を希望したんだそうで。う~む。
NHKでやってた「シャーロック・ホームズの冒険」の露口さんのいかにも英国紳士風な声と口調が好きだったので、バロンはぜひ続投してほしかったんだがなぁ。
『耳すま』の感想で書いたけど、僕はどちらかといえば中学生の恋愛なんかよりも、あのバロンの物語の方を観たかったんですよね。
だから、それが実現したはずのこの『猫の恩返し』がどうしてジブリ作品のなかでマイ・ワーストワンになってしまったのか。*1
それはひとえに「俺が観たかったものと違う」ということでした。だってお話が…。
無理なことを言うと、もしもこれが宮崎駿や近藤喜文、あるいは近藤勝也など従来のジブリの絵だったら、まったくおなじストーリーでもまだ楽しめたかもしれない。
ただし、今回観はじめると最初は意外と絵柄については抵抗がなかったのです。
あれ?ふつうに観られるじゃん、と。
ハルが猫のルーン(山田孝之)を助けるところぐらいまでは…。
ラクロスのスティックを使って助けられたルーンは、いきなり人間の言葉を話しだす。
ものすごく唐突なんだけど、なんとなく宮澤賢治の世界のような雰囲気もあって(「セロ弾きのゴーシュ」みたいな)、これもクリア。
夜になって、丹波哲郎が声をアテている猫王がしもべたちとともにあらわれても…う~ん、やっぱりなんだか宮澤賢治とか、日本の昔の童話っぽいな、と。
ただ、じょじょにここらで違和感が。
決定的だったのが、昼間、学校に猫のナトル(濱田マリ)がやってきてハルに話しかけるところ。
もう当たり前みたいにハルはナトルと会話するんだけど、この映画の“リアリティ・ライン”はいったいどこにあるのだろうか。
人間が猫と会話してもたいして不思議じゃない世界なのか、それとも僕らが住む現実の世界のように、そんなことはありえない世界観なのか。
ハルが生きているのはきわめて現実に近い、つまり映画の最初の方で描かれてたような、猫は四本足で歩いて人間の言葉はいっさいしゃべらない世界なのだが、どうも彼女自身は猫と会話できる人だということがのちにわかる。
でも、この現実世界からファンタジーの世界への移行がうまくいってない気がするんだよね。
平然と猫としゃべってるハルに、すごく違和感があった。
そもそもこの映画の主人公を女子高生にした理由はなんだろう。
たとえばこれが小学生だったり、あるいはもっと幼い少女ならば、現実と空想の世界がどこかあいまいに溶け合っているのもまだ納得できる。
『トトロ』(感想はこちら)のように。
でも女子高生ですから^_^;
僕は学校でハルとナトルが、ハル「わたしもいろいろ(注:男のこと)あって」とか、たいして面白くもない会話をしてるのを観ていて、これはどこか頭の大事な部分が重症な少女の話におもえてきたのです。
だって冷静に見れば、猫に真剣に語りかけてる女子高生はあぶないでしょ(;^_^A
好きな男子がいて、でもそいつは別の女子と仲良くしていて、それを見て動揺。
どうやらそれが彼女にとっての当面の悩みのようだ。
…なんかさぁ、『耳すま』でも思ったんだけど、なんでみんなそんな色気づくかね。
男とつきあうとか別れるとか、そんな日常ちゃめしごとなんざ、どーだっていいんだよ!!!
なんでファンタジー映画にそういうサカリのついた猫の交尾みたいなよけいな要素を入れるんだろう。
そりゃ中高生の女子の頭んなかはクラスの男のことでいっぱいなのかもしれないけど、しかしあの年頃の女の子は男のことしか考えてないのか?そんなことはないでしょ?
それにそういう思春期少女のアレやコレやを題材にするんだったら、そこにはあきらかに下半身関係のことだってふくまれるんだから、それをメタファーなりなんなりで隠しつつもちゃんと描かないと、ほんとにスカスカの絵空事にしかならないでしょう。
小学生の女の子じゃなくて女子高生なんだからさ。
ジブリで思春期の女の子をリアルに描くことなんてどだいムリなんだから、それなら『耳すま』のなかの「バロンのくれた物語」のように少女がおとぎの国で冒険する話をメインにすればいいじゃないか。
でもハルが猫の国に行くのは、映画が中盤に差しかかったぐらいなのだ。
いつまで経っても冒険なんかしやしない。
もたもたしてないでとっとと猫の国に行きゃいいのに。
だから、ほんとはこの映画の作り手は空想的な猫の国での冒険なんかよりも、きっと現実世界でのハルを描きたかったんだろう。
それにしてはあっさりしすぎなんですよ。なにひとつ描けていない。
おなじく女子高生を主人公にした細田守監督の『時をかける少女』と観くらべれば、この『猫の恩返し』での日常描写の薄味ぶりがよくわかる。
『時をかける少女』(2006) 声の出演:仲里依紗 石田卓也 板倉光隆 原沙知絵 谷村美月
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ようするにすべてが中途半端なのだ。
『耳すま』は、こまかい日常描写とともにヒロインの「物語を書きたい」という想いがかろうじて映画を貫いていた。
だからあのこっぱずかしい純情恋物語にもなんとかつきあっていられたんだけど(後半、怒りがこみあげてきたが)。
でもハルは全篇をとおしてなにがやりたいのかまるでわからないし、彼女の悩みが片想いしてる男子のことでしかないのは、やっぱりいくらなんでもキャラクターの描きこみ不足じゃないだろうか。
ラクロスだって物語にまったくからまないし。
あぁ、なんかダメ出しがヒートアップしてきた。
なんていうか、これはいかにも中学校や高校の演劇部で女の子が書きそうなシナリオだなぁ、って思いました(ってか、書いてましたよ、みなさんこういうの)。
自分をモデルにした主人公がファンタジーの世界でそこの住人たちといろいろあって、また家にもどってくる。
そういうお話自体は別にいいと思う。
でも“彼女”には家と学校の往復以外の世界での経験が圧倒的に不足しているので、世のなかにいるさまざまなタイプの人々を空想的なキャラクターたちのなかに落としこむことができない。
結果的に実在感が乏しい、どっかの漫画やアニメのキャラのコピーみたいな魅力のない登場人物たちが空虚なドタバタを繰り広げることになる。
ファンタジーって、ほんとはちゃんと作り上げるのはけっこう骨が折れると思うんですよね。
単にしゃべる猫を登場させればファンタジーが成立するわけじゃなくて、彼らが住む世界、そこでのルール、生活様式等そういったもろもろをしっかりと頭のなかで描けてないと、ただのデタラメになってしまう。
「猫の国」とは、どのように成り立っているのか。
そこでのバロンは、どのような存在なのか。ほかの猫たちとの関係は?
そして、女子高生であるハルがどうしてその「猫の国」をおとずれなければならないのか。
なんとなく、じゃなくて物語のうえで明確な理由がなければならないはずなのだ。
そこで彼女はなにを学び、うけとるのか。
幼い頃、子猫だったユキに魚の形をしたクッキーをやって話しかけていたハル。
母親も語っていたその想い出にはどのような意味合いがあるのか。
僕はそれは映画を観ていてもよく読み取れませんでした。
ユキの存在はハルにとってなんだったのだろう。
そんなユキとルーンが結婚することになったのは、ハルにとってどんな意味があったのか。
ハルは母子家庭のようだから、バロンに父性と異性への憧れの両方を抱いているんだろう。
だったら、やっぱりバロンの声はダンディな露口茂がアテるべきだったんじゃないか。
イケメン声の袴田吉彦も悪くはないけど、どうしても若造感が出てしまっている。
「冒険」ってなにかを探したり自分から積極的に行動することだと思うんだけど、バロンはたしかにハルを助けてくれるものの、ハルを息子の嫁にしようと追いかけてくる頭がおかしい猫王から逃げるだけでどうもヒーローとしての魅力に欠けるんだよなぁ。
デブ猫のムタにけっこうおいしいとこもってかれてるし。
いや、それでもこの映画のバロンは人気があるようですが。
これはバロンというキャラクターのせいではなくて、彼が活躍すべきストーリーがちゃんと用意されていないからだ。
ハルとバロンの関係はもっとロマンティックに、そしてもちろん直接的な描写などなくてもよりエロティックに描けたのではないか。
女子高生が主人公ならキスぐらいしたっていいし。
バロンとの出会いと別れ、それはハルのなかの通過儀礼として必要だったと思うんだけど、そのあたりも観ていて僕にはピンときませんでした。
もしも別れないならば、バロンというのは現実の世界でハルにとってはなんなのだろう。
人間の世界にもどって、好きだった男子のことを吹っ切れたのはバロンのおかげなんだろうけれど。
なんかね、つじあやのが歌う主題歌みたいにすべてがホワァ~ンとしてて。
ファンの人たちは、この作品のそういう雰囲気が好きなのかもしれないけど。
…でもなぁ、冒険してないじゃん、と。
猫王がなんであんなにハルを追いかけ回してたのかもよくわかんないし、あのくだり長すぎじゃねーか?
なんかもっと宝石を探しに行くとか、モンスターと戦うとかさぁ、俺が観たかったのはそういう「冒険」なの!!
肝腎なときにいないルーンとかも…せっかくファンタスティックな世界を用意したのに、なんであんなにこじんまりとした話になるんだろう。
あの内容なら30分あればじゅうぶんじゃないか?
僕はこれは作り手の「空想力不足」だと思うんだが。
それと、これも大嫌いな映画の一つ『ブレイブストーリー』(ヒドい言い草(;^_^A)がそうだったんですが、悩みや家庭内に問題を抱えている主人公が空想的な世界に翔ぶ、という話はしばしば作られるけど、ちょっと描写が直接的すぎるんですよ。
ファンタジーの世界の住人たちにダイレクトに教訓だとかテーマだとかを語らせてしまったりする。
まるで高校演劇のようだ、というのはそういうことなんですが。
ファンタジーというのは「たとえ話」であって、現実のさまざまな要素を一度ろ過して空想的な物語に置き換えてみせたものだと思うのだ。
だから、猫の国にきたら人間だったときのことはひとまず忘れて、空想の世界で遊んでほしい。
僕がジブリ(というか宮崎駿の)『カリオストロの城』(感想はこちら)や『ラピュタ』(感想はこちら)が大好きなのは、映画を観ているあいだ、もう我を忘れてその世界に没頭させてくれるからです。
そして映画が終わって映画館から出るとき、「あぁ、自分は現実の世界にもどってきたのだ」と実感する。
そこにどこかせつなさもあって。
どんなに空想の世界で冒険を繰り広げても、いつかは主人公(観客)は現実の世界にもどらなければならない。
空想の世界の住人たちとの別れはつらい。
でもそうやって人はなにかをうけとる。
ファンタジーの醍醐味ってそういうことなんだと思うんだけど、そのへんが『猫の恩返し』の作り手のなかでちゃんと意識されてるのか疑問で。
なにより空想に耽る楽しさをほんとうにわかってるんだろうか、と思ってしまう。
むりやりルーンと結婚させられそうになってハルに猫耳と猫っ鼻が生えちゃうとこなんか、僕は彼女のあの顔はとても可愛かったから、全篇あれで通せばよかったのにって思いました。
あの半分猫キャラの主人公に猫の国で大冒険してほしかったよ。
猫を描いてるんなら、もっとじっさいの猫の動きなんかも観察してキャラクターたちの仕草に取り入れたっていいでしょう。
なんでそういう面白い部分を描かないんだろう。
この映画の作り手には猫に対する思い入れがそれほどあるようには感じられなかった。
たとえば先週やってた『平成狸合戦ぽんぽこ』(感想はこちら)の狸とまでは言わないけれど、せめてバロンの絵にはもっとこだわったらどうだろうか。
僕はこの映画のバロンには、『耳をすませば』のときのようなときめきを感じませんでした。
雫とともに空を舞うバロン。
「いざおともつかまつらん、ラピス・ラズリの鉱脈を探す旅に!」
僕はああいう映画を観たかったのにな。
それと、宮崎吾朗監督が『コクリコ坂』(感想はこちら)のときに「ファンタジーは作り尽くした。しばらくは現実に軸をおいた作品を作っていきたい」とかホザいててほんとに腹が立ったんだけど、それは空想的な世界で遊ぶ楽しさを忘れてしまった人間の身勝手な言葉ですよ。ファンタジーをナメてる。
「作り尽くされた」んだったら、まだ作られていないあらたな「ファンタジーの鉱脈」を探し求めて旅に出ることこそが“ファンタジー”でしょうが。
そしてすぐれたファンタジーには、わざわざ意識して入れなくたって自然と「現実」を反映する要素がふくまれているのだ。
『猫の恩返し』の感想、というよりはなんか最近のジブリへの愚痴やボヤきみたいな文章になってしまいましたが、今回ほんとにひさしぶりにこの作品を観て、10年以上経っててもやっぱり自分の感覚はさほど変わってないな、と思いました。
この作品が大好き、というかたがたも大勢いらっしゃるようだし、そのことについて僕がどうこう文句垂れる資格などないので、もうこれは「好み」の問題ですね、としか言い様がない。
つじあやのによるエンディングテーマは僕も好きですが。
今後、ジブリがファンタジーや冒険娯楽活劇を作ってくれることはあるのだろうか。
それとも、そういうのはピクサーかディズニーにまかせておけばいいってことか?
でも『耳をすませば』でわずかに描かれたバロンと雫の物語は、僕には想像をかき立ててくれるステキなファンタジーの欠けらなのです。
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- 作者:柊 あおい
- 発売日: 2002/05/01
- メディア: コミック