映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

もう一つのブログとともに主に映画の感想を書いています。

『時をかける少女』(2010年版)


※以下は、2010年に書いた感想に一部加筆したものです。


谷口正晃監督、仲里依紗主演『時をかける少女』。2010年作品。

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大学受験に合格したあかり(仲里依紗)は、母・和子(安田成美)の代わりに彼女の大切な人、深町一夫(石丸幹二)に会うために時を翔(かけ)る。


仲里依紗主演の映画を観に行くのは2008年の『純喫茶磯辺』(感想はこちら)以来。

アニメ版は観てるけど、でもその出来がよかっただけにこの実写版『時かけ』制作のニュースを見た時は、安易な便乗リメイクだと勘違いして「あー、やめときゃいいのに」と思いました。

でも予告篇観たら素直に「観たいな」と思って。


開映時間ギリギリに劇中の仲里依紗みたいに猛ダッシュで地下鉄の駅→チケットショップ→劇場と走って回ったら息が切れてしまった。

そんな土曜日の映画館。


いきものがかり版「時をかける少女」を聴いて、ユーミン作詞・作曲のこの歌は名曲なんだと再確認。

ただし、この映画の本当の主題歌は、やはりいきものがかりの「ノスタルジア」。

僕は今回この曲を初めて聴いたので映画のために作られた歌なのかと思っていたのだけれど、そうではなかったようで。でも作品の雰囲気にピッタリの良い曲ですね。 

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観はじめてから、大林宣彦監督、原田知世主演のオリジナル版のストーリーを見事に忘れていることに気づいた。

エンドロールで原田知世が歌ってたのを憶えてるぐらいで、「深町君」がどなただったのかもほとんど記憶になかったりして(ケン・ソゴルに消されたのか)。

時をかける少女』(1983) 監督:大林宣彦 出演:原田知世 高柳良一 尾美としのり
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しまった、ほぼ完全なる続篇だったのね。

でもこの作品が初めてでもちゃんとフォローしてくれてるから大丈夫。

お母さん役がもしもオリジナル版とおなじ原田知世だったらファンは感涙モノだったんだろうけど、安田成美もスラッとした植物系美女ぶりが雰囲気出てました(女子高生時代を演じる石橋杏奈もgooood!!)。


以下ネタバレあり。


仲里依紗が今回“タイムリープ”するのは1974年(昭和49年)。

しかし仲里依紗はいつも走ってるなぁ。

どんなに走ろうが翔ぼうが高所から落ちようがパンツはぜったい見えない(ってゆーか穿いてたよな、スパッツ)魔法のスカートからのぞく里依紗ちゃんのムッチムチの太ももに目尻を下げながら観てたら、…こ、これは。


和製バック・トゥ・ザ・フューチャーって感じで(まさにそういうストーリー)、絶妙なタイミングでフレーム・インしてくるブルース・リーの映画のポスターや『未来惑星ザルドス』のチラシとか8ミリ映画制作の様子など(フィルムを扱いながらタバコ吸ってはいけません。編集技師だったら師匠にぶっ殺されます)、もう観てるこっちの心の琴線に触れる場面がいっぱい。

でもこれはどこぞの「昔はよかった」っていう映画じゃない。

久々に映画観て胸がキュ~ンとしました(オッサンですが)。


時を越えた恋、というありえない物語になぜこれほど心揺さぶられるのか。

それは人に記憶が、想い出があるから。

時を隔てた出会いや別れは、もう戻ってはこない「あのひと時」を思い出させる。

失われたものが美しくかけがえのないものに思えて、逆に自分が生きてる今が色褪せてつまらなく感じられたらそれは哀しいことだけど…。

8ミリフィルムの中に写し込まれた誰も知らない後ろ姿にスクリーンが滲んだ。


たしかにストーリーにはいたるところに綻びがある。

タイムリープできるクスリを母親が作ってしまう、というのもけっこうムチャな話だし、そもそもなぜ深町と再会するのに1972年に戻らなければならないのかもハッキリしない。2010年ではどうしてダメなのか。

72年に戻るはずが74年に着いてしまってもたいした影響はないし。

あかりが1974年に会ったばかりで縁もゆかりもない大学生の涼太(中尾明慶)にやたらと気安く話しかけてあっというまにくっついてしまう強引な展開、そしてクライマックスではここでタイムリープしなくてどーする!って時にそのチャンスをみずから捨ててしまうというように、ツッコミどころをあげていったらきりがない。

それをもってこの作品を「ダメ」と断じる人がいてもおかしくはない。

でも底抜けに明るくてひたむきな仲里依紗中尾明慶の素朴な魅力がそんな粗から映画を救っている。


いろいろと無理のある話なのは重々承知のうえで、でもこの映画には別の部分で捨てがたい魅力があるのだ。

これはかつてケン・ソゴルという“時の神さま”に見初められた女性とその娘の話、と考えると、なんとなく腑に落ちないだろうか。

主人公のあかりには幼い頃に別れた父親(青木崇高)がいて劇中でも彼はけっこう重要な役割を果たすのだが、そのわりにはどうもその扱いが軽く存在感が薄い。


なぜかといえば、あかりの実の父親は深町一夫ことケン・ソゴルなのではないか、という含みがあるから。

もちろん、それは深町とあかりの母親・和子とのあいだに実際に性交渉があったとかそういう下世話な話ではなくて、ケン・ソゴルという「未来人」というのは、いわばギリシャ神話の神々のような存在なのではないか、ということ。

神話の中で神さまはしばしば人間の女性に恋をするものですから。


この“神さま”はかつて少女に恋をして、彼女の記憶を消して立ち去ったがうかつにも写真から自分の姿を消し忘れる。

だからハッキリいってすべての元凶はコイツなんだが、自分のことは棚において後始末にやってくる。

つまり、さんざん人々を翻弄しておいて、主人公の前に姿を現わして「いかなる理由があろうと過去を変えてはならない」などと理不尽なことをいう未来人ケン・ソゴルとは、「時間」というものの不可逆性、記憶の不思議さや「運命」とよばれるものなどが擬人化された姿なのではないか。


記憶が無くなっても懐かしい匂いと恋人への想いを忘れなかったかつての少女に対して、時間を旅する男ケン・ソゴルにとって彼女との出会いはまるでたくさんある想い出の中のひとつのようだ。

地上の人々は神々の前では無力で、いつも天上人たちの事情や気まぐれに振り回される。

それでも人間が神々との交感に惹かれるのは、神々が人間の力ではどうにもならない力を持っているからに他ならない。その魅力には抗えない。

初めて逢ったのにそうは思えない。なぜかわからないけど涙が出てくる。

そんな時、人は「もしかしたら時の神さまに記憶を消されたのかもしれない」と考えて今では知りえぬ物語に想いを馳せる。


時を越えたありえない恋。

それは、運命に翻弄されてなすすべもない人間たちがときにふれる奇跡のような瞬間を描いたもののように感じられた。

ラヴェンダーの匂いとともになぜかふと懐かしい気持ちになったら、もしかしたらそれは“時の神さま”と出会ったせいなのかもしれない。

そんなふうに僕はこの映画を観た。


大林宣彦版細田守アニメ版それぞれに思い入れのある方々は言いたいこともあるだろうし、アニメ版は劇場で観て良かったと思うけど、それでも個人的には今風のイケメン高校生よりも70年代の8ミリ映画青年の方が断然肩入れできるので。

アニメ版の切なさと今回の映画のそれは違う種類のものだと思う。

その違いとは、まさしく“時の神”ケン・ソゴルの存在の有無ではなかっただろうか。


この映画で共演した仲里依紗中尾明慶は、今月結婚を発表。

映画公開から3年が経ち、ふたりのもとに“素敵な未来”はおとずれたようだ。

どうぞ末永くお幸せに。


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