※以下は、2010年に書いた感想に一部加筆したものです。
中島哲也監督、松たか子、岡田将生、木村佳乃、橋本愛、芦田愛菜出演の『告白』。2010年作品。R15+。
原作は湊かなえの同名小説。
ある中学校のプールで女性教師・森口(松たか子)の娘、愛美(芦田愛菜)が事故死した。教師を辞めることになった彼女は担任を務める生徒たちの前で、娘はこのクラスの生徒に殺されたこと、そしてその犯人たちに復讐を仕掛けたことを告げる。
『下妻物語』(感想はこちら)が大好きなのにもかかわらず、おなじ中島監督による「泣ける感動作品」と評判だった前作『パコと魔法の絵本』はまったく映画に入り込めなくて、「もう今後はティム・バートンもどきのピカピカ映像は観なくていいや」と思っていました。
それが今回の『告白』ではガラッと雰囲気が変わったご様子。
原作については知らないけど、何やらシリアスな話のようで。
と、次第に作品の片鱗が見えてくるにしたがって再び興味を持ちはじめたのでした。
さて、これまで松たか子が出演した映画をすべて観ているわけじゃないけど、なんとなく『THE 有頂天ホテル』の時のチャキチャキした役が一番しっくりきてたような。『HERO』は観てないんでよく知りませんが。
これまでは若干キャラが竹内結子とカブッてる気がしてたんだけど、やがて独自の路線を歩みはじめる。
永瀬正敏主演の『隠し剣 鬼の爪』では気の毒な女性の役だったけど、そしてあの映画の松さんも魅力的ではあったけれど、なんというか、やっぱり力強いイメージの方が勝っているのか幸薄い感じがあまりしなくて。
なので、浅野忠信と夫婦を演じた『ヴィヨンの妻』(感想はこちら)の時もちょっと戸惑いました。
はたしてこれは…役柄に合ってるのかそうでないのかどっちなんだろう、と。
舞台となった時代もあるんだろうけど、ときに涙を流しながらも最後の最後にブチギレるわけでもなく、絵に描いたようなロクデナシの夫にただひたすら献身的に尽くす妻、というのはどうもピンとこないんで判断しかねました。
その立ち居振る舞いや表情にちょっとエロスを感じたりもしましたが。
多分とても健康的なので男に劣情をもよおさせる要素が希薄なんでは(なんか物凄く遠回しに悪口いってるみたいだが)。
この『告白』は公開当時には「松たか子の演技がスゴい」「彼女の新機軸」などと評判になったけれど、そして松さんが熱演だったのは間違いないのだが、たとえば舞台「ラ・マンチャの男」で演じた情熱的なヒロイン役などですでに彼女の「熱演」は観ていたので、この「家政婦のミタ」の松嶋菜々子のようなふだんは感情をおもてに出さない、かと思えば突然スイッチが入ったように涙を流したりする一種の“アンドロイド的演技”(むろん、この映画の方が先だが)は、僕にとっては松たか子という女優が持つ数多くの演技のレパートリーのひとつ、ぐらいの印象だった。
どう考えてもミタさんのような家政婦が現実にはいないのと同様に、この映画で松たか子が演じた女性教師は「リアルな人間」というよりは、極端に誇張、戯画化されたキャラクターとして僕の眼には映った。
「演技」というなら、昨年の『夢売るふたり』(感想はこちら)での役の方がよほど複雑なことをしているようにおもえる。
とはいえ、完全なロボットというわけではなく、まるで復讐マシーンのようだった主人公がときおり見せる人間的な表情など、彼女の演技は観客をまったく飽きさせないのだけれど。
そんなわけで、長々と書き連ねてようやく『告白』の感想へ。
以下、ネタバレあり。
一種の「ホラー映画」であることは間違いないだろうと。
ちょっと森田芳光監督の『黒い家』をおもわせるような場面もある。
何が怖いって、真剣に芝居してる松さんのアップの顔が時々「王様のレストラン」の“千石さん(ビヤーン)”松本幸四郎にソックリな一瞬があって、親子だから当たり前なんだけど女性としての彼女に魅力を感じてる僕なんかにはこれはなかなか恐怖でした。
…とまぁ、くだらない冗談はさておき。
ただ作品のトーンはけっこう重いし、内容が内容だけに人によってはかなりダメージ食らうかもしれない。
まだ「天才子役」ともてはやされる前の芦田愛菜が、愛らしい笑顔で主人公の幼い娘を演じている。
また現在も映画やTVドラマで活躍中の橋本愛が中学生を演じていて、そのまっすぐ前を見すえる大きく特徴的な瞳と意志の強そうな面差しが印象に残った。
この映画の主人公はもちろん松たか子で、女優としてスクリーンでは今まで見せなかった面をあらたに開拓してるという点で重要な作品だとも思うんだけど、といっても『嫌われ松子の一生』の中谷美紀のように全篇出ずっぱりというわけじゃない。
この映画の真の主役は、まるでジャニーズJr.のような(って、よく知らないけど)男の子だか女の子だかわかんないような顔立ちをした、まだ十分に声変わりもしていない少年たち。
彼らの時々裏返る不安定な声は僕にはじつに不快なノイズに聴こえて耳障りでした。
観てる途中で…これはなんだか“岩井俊二が撮った『バトル・ロワイアル』”みたいな映画だなぁ、と思った。
なんで岩井俊二かというと、それは中学生たちの描き方。
大人たちや観客の気分をことごとく逆撫でして不愉快にさせる彼らの言動に、岩井俊二がかつて描いた子どもたちの姿が重なった。
音楽と映像の使い方もおなじようにCMやPV出身の監督らしさに溢れている。
Radiohead - Last Flowers
www.youtube.com
まず、教師を演じる松たか子や岡田将生たちの妙にリアリティを欠いた喋り方や物腰(母親役の木村佳乃も熱演だったけど…あの人あんなハスキーヴォイスだったっけ。なんか声が嗄れてませんか?)から、どうやらこれが現実の学校や生徒像を単純にそのまま写しとったものではないことが薄々感じられてくる。
昨年劇場公開された、おなじような題材をあつかった内藤瑛亮監督の『先生を流産させる会』(感想はこちら)と観くらべてみるとなかなか面白い。
観終わったあとよくよく思い返してみると、まるで中学生が考えた妄想みたいなお話だし。
生徒を演じてるのが実際の中学生ぐらいの年頃の子役たちで、不自然な台詞廻しをなるべく避けてて深作欣二監督の『バトロワ』よりも子役への演出の力はこちらが断然上だとは思うけど、誰一人として本当に血が通っていると思える登場人物はいない。
信じられないほど安直な小道具として使用されるHIVウィルスには「オイオイ」とツッコミを入れたくなるし、いくらなんでもあんな面白いぐらい簡単に人が次々と死んでいくか?とも思う。
どんだけ頭がいいのか知らないけど、鉄筋コンクリートの建物ごとふっとぶようなあんな爆撃並みの破壊力を持つ大量の火薬を一体どっからどーやって手に入れたんだよ、とか。
とにかくすべてにおいて発想が幼稚。
これはやはり厨二病をこじらせた奴の妄想だろう。
それでもそういう厨二病的発想もふくめてこの映画に出てくる生徒たちの存在がどこか「リアル」に感じられるのは、誰もが通過する“あの時期”の気が狂いそうになるほど切羽詰まった怖れと苛立ちを抽出した、ある「切実さ」が描きだされているからじゃないだろうか。
これは現実の模写ではなくて「命の重み」についての寓話なんだ、と理解しながらも、まだあどけなさが残る少年少女たちが見せる身勝手ぶり、すぐ群れるくせに自己中心的で他者を思いやることもない、あるいは誰かがわずかに見せた人への誠意や共感を踏みにじる行為が描かれると、どうしようもない不快感が募ってくる。
残念ながら、「なーんてね」とかいって笑いながら相手を見下して、つねに自分は人より優位に立っていると必死になって信じ込もうとする、こういう輩は実在するので。もっともそれは中学生にかぎらないが。
学校で教師をからかうように、まるで観客を挑発するかのように「犯人」が“少年法”云々について得意げに語りだすと、観てるこちらの怒りもMAXに。
…でも、じつはそういう怒りはこの映画の作り手のねらいにまんまと引っかかっているということでもある。
これは多分「少年犯罪」を描いた映画じゃないんだよね。
だからこの映画を観て、現実社会に頻発する未成年の犯罪とからめて「少年法」の是非をあれこれ議論したりすることは、無意味ではないにしてもどこか的外れな気がする。
少年たちの行為が浅はかだというなら、では松たか子が演じる森口先生の常軌を逸した行為に正当性はあるのか?ということ。
娘を殺した犯人以外の生徒たちを巻き添えにする権利など彼女にはない以上、ようするにやってることは一方的に「これからみなさんに殺し合いをしてもらいます」と宣言する『バトル・ロワイアル』の教師キタノと同じでしょう。
プールに投げ込まれる幼女の映像は本当に痛ましいが、娘が殺されたという劇中での事実は、じつは松たか子=森口先生が僕ら観客に「問いかけ」をするためのきっかけに過ぎない。
もっといってしまうと、これは森口先生とクソガキをバトらせるための口実だ。
少年Aに向かって森口先生の口から吐かれる一言「…バカですか?」という台詞にはけっこうな破壊力がある。
観客の中には、この台詞に溜飲が下がったという感想もいくつかあった。
神出鬼没の森口先生は、「復讐者」という仮面をつけた“トリックスター”なのである。
ここで描かれる殺人はすべて「喩え」であり、だからこそ傷つき死んでゆく子どもたち(おとなもいますが)は僕たち観客の代わりに屠られた犠牲なのだ。
ちょうど映画の中で殺されていた動物たちのように。
そんなわけで、この映画はよく出来た「ホラー」だったと思うのです。
つまりエンターテインメントなのだ。
この映画には「体罰教師」は登場しないが、いまだったら暴力容認教師とあのクソガキをぶつけてみたらどうだろう、などと不謹慎なことを考えてしまう。
クライマックスの「大スペクタクル」は、陰鬱で凄惨だったこの映画を根底から吹き飛ばし観る者にカタルシスをもたらす。
このシーンがあるからこそ、そこに至る気が滅入るような過程にも付き合っていられる。
それにしても、復讐のために直接に本人ではなくてその近親者をねらう、という発想そのものが恐ろしい。
かけがえのない存在を失って流す涙や後悔の気持ちがまだあるなら(残念ながら現実ではそれすら持たない者もいるので)、人として生きていく価値はあるのだ。
なーんてね。
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