※以下は2011年に書いた感想に一部加筆したものです。
スティーヴン・スピルバーグ製作、J・J・エイブラムス監督作品『SUPER 8/スーパーエイト』。
1979年。母親を事故で亡くした少年ジョーは、保安官補の父親と暮らしながら仲間たちと映画祭に向けて8ミリで自主映画を撮っている。ある夜、映画の撮影中にすぐそばを走っていた貨物列車に自動車が衝突、大事故になる。
【caution:警告】ネタバレあり。
ちまたですでにいわれているように、これはスピルバーグの映画に“オマージュ”をささげた作品。
ちなみに映画の舞台となる1979年はスピさんの『1941』が全米で封切られた年。第二次世界大戦で日本軍がアメリカに攻めてくるという、ジョン・ベルーシ主演で三船敏郎も出演したコメディ映画だったこの作品は、しかし当時破竹の勢いだったスピルバーグの監督作品とは思えないぐらい壮絶にコケた。
それ以降、スピルバーグは自分では正攻法の「コメディ」を撮っていない。
“スーパー8”というのは8ミリフィルムの規格のひとつ。8ミリフィルムってのは、ヴィデオカメラが普及する以前におもにアマチュアのあいだで使われていた映像媒体。フィルムの幅が8mmなのでこう呼ぶ。
日本では別の規格である“シングル8”の方がよく使われた。
8ミリフィルムは日本では90年代頃まで自主映画で多く使われていたが、ヴィデオ、とくに2000年代以降、安価で画質の良いデジタル・ヴィデオが市販されて普及するといよいよ利用者も減り、メーカーのサーヴィスも次々と打ち切られて、残念ながら最近国内でのフィルムの販売・現像サーヴィスの終了が発表された。
8ミリ自主映画については語りたいことが山ほどあるけど、ハリウッド映画『スーパーエイト』とは関係ない話になってしまうので、別の機会に譲ってこれ以上は触れないことにします。
この『スーパーエイト』についてどなたかが「スピルバーグにシッポ振ってるだけの映画。あたらしい表現がまったく見られない」と評してて、それはこの映画を観終わったあとではたしかに間違ってはいないのかもしれないと思う。
実際、この映画には「見たこともないあたらしい映像表現」はない。
『ジョーズ』『未知との遭遇』『インディ・ジョーンズ』『E.T.』…スピルバーグの映画で育った世代の観客は号泣モノのシーンがいくつもあるが、彼の作品になんの思い入れもない人が観たら「それほどでも」とか「けっこう退屈」なんて感想も出てくるかもしれない。
『未知との遭遇』(1977) 主演:リチャード・ドレイファス テリー・ガー
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でも、スピルバーグと彼の映画にこれほど真摯に“オマージュ”をささげた作品って、今まであっただろうか。
「あたらしい表現」を観たければ、それは別の作品に求めればいい。
すでにキャリア40年を越えるハリウッド娯楽映画の巨匠に、はじめて正面から向き合った映画、それがこの『スーパーエイト』なんじゃないか。
スピルバーグの薫陶を受けたり彼にあこがれて業界入りした映画人は多いが、実のところこの監督の手法を正当に受け継いだ作品、監督というのはなかなか思い浮かばない。
喧伝されてるとおり、この映画は彼の『未知との遭遇』と『E.T.』を足して2で割ったような作品で、それに『宇宙戦争』が加わった感じ。
僕は80年代スピルバーグ作品直撃世代だけど、ただ「スピルバーグ」という名前を意識する以前から自分が興味をもった映画の多くに彼がかかわっていたというのが実際のところで、製作総指揮の『グレムリン』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『グーニーズ』など、気がつけば「スピルバーグ印」の映画を観ていた。
ちょうどいつのまにかジャッキー・チェンの映画を観てたように。
僕よりちょっと上の世代の人たちにとって、たとえば今は亡き手塚治虫や藤子・F・不二雄が父親的存在であったように、僕にとってはスピルバーグや宮崎駿が父親の代わりをはたしてくれた人たちだったりする。
そういうことは連綿と続いている。
母子家庭で孤独な少年だったスピルバーグ*1にとってはクロサワやヒッチコック、キューブリックがそうだったように。
…なんか、本家スピルバーグさんのことばっかで映画にぜんぜん触れてませんが、まぁ、ようするに「スピルバーグ愛」に満ちた映画だということです。
監督のエイブラムスにとって、スピルバーグは自分を育ててくれた“父親”のような存在であり、この映画が「父と子」の映画なのももちろん大きな意味がある。
男の子と女の子、それぞれの父親との関係が描かれてるのもなかなか平等でいいですな。
ヒロインを演じるのは現在人気急上昇中のエル・ファニング。
ちょっと前まで、まるでアメリカ版“メイちゃん”みたいな鼻ペチャでデコチンのおチビちゃんだったのが『スーパーエイト』の撮影中には身長168cmに到達。すでに背の高さはお姉ちゃんも越えて、2011年現在13歳にして172cmぐらいあるという…年頃とはいえ、アチラの子どもたちはなんでこんなにデカくなるんでしょうか。
まぁ、お父さんやお母さんもデカいからだろうけど。
今ではファッション誌のモデルとしても活躍中。
ソフィア・コッポラ監督でスティーヴン・ドーフと父娘役で共演した『SOMEWHERE』(2010)は未見。
どうもS・コッポラ(『ゴッドファーザー』や『地獄の黙示録』でおなじみフランシス・フォード・コッポラの実娘)のことは、『ロスト・イン・トランスレーション』で「日本人をコケにしやがった」という勝手な先入観があって(観てないくせに)食わず嫌いしちゃってて。
※2012年にはフランシス・フォード・コッポラ監督、ヴァル・キルマーと共演の『Virginia/ヴァージニア』(2011)が日本で劇場公開された。
お姉さんのダコタは『ランナウェイズ』(感想はこちら)で背伸びしてる10代の少女を好演してて(ついこの前、高校卒業。…エッ!あのダコたんが、もう10代後半!?)、今けっこう難しい年頃を頑張って乗り越えてるとこなんだなぁ、なんて思ってるんだけど、まるで浅田舞・真央姉妹とか、ロザンナ&パトリシア・アークエット姉妹みたいに「妹が姉を超える」姉妹バトルが繰り広げられるんではないかという、オヤジの下世話な興味がフツフツと湧いたりなんかしておるんですが。
…嗚呼、いまだに映画について何も語っていない。
あのね、この映画の中で軍関係者が隠してる“何か”とかは、実はどうでもいいんだよね。
エイブラムスが製作を担当した『クローバーフィールド』(彼の名前が宣伝で大きく使われるために監督作品と勘違いされてしまうことがあるが、『クローバー〜』を監督したのは『ぼくのエリ』のアメリカ版リメイク『モールス』の監督でもあるマット・リーヴス)といい、監督作品『スター・トレック』といい、どうも彼は『千と千尋の神隠し』の“暴走カオナシ”みたいな多足歩行のモンスターがお好みのようで、ぶっちゃけ「それ、前にどっかで観たからもういいよ」と思ったりもするんだけど。
この映画で残念なのは、モンスターにまるっきり魅力がないこと。
CGを駆使した多関節のキモ顔モンスターよりも、今ならむしろ「えっ!!」と絶句するぐらいのローテクでのどかな“着ぐるみ”チックな造形の怪獣の方が意表を突いてて面白いんじゃないかい?
エイブラムスにそのへんのこだわりは感じられない。
モンスターに対するヲタクっぽい偏愛ぶりならば、たとえば“スピルバーグ・チルドレン”の監督、ジョー・ダンテなどの方が断然上だと思う。
で、あまりにマニアック、ヲタク向け過ぎて『グレムリン2』のときみたいに大コケして干される、みたいな。
それは冗談だけど、今あげたジョー・ダンテや『ジュラシック・パーク3』『遠い空の向こうに』『キャプテン・アメリカ』(感想はこちら)のジョー・ジョンストンなど、スピルバーグの直弟子にあたる監督たちよりも、むしろM・ナイト・シャマランやJ・J・エイブラムスのような、もうちょっと若い世代の監督たち、スピルバーグの映画を直接映画館で体験して育った“孫弟子”たちの方が師匠の本質を受け継いでるように感じられるところなんか、実に興味深いんだが。
隔世遺伝って奴ですか。
良質なジュヴナイル映画を観た気分で映画館をあとにしました。
ただ、構成的に多少いびつさを感じないわけでもなかった。
主人公のジョーが“アレ”と「通じ合う」場面なんかはかなり唐突な感じだったし、エル・ファニング演じるアリスとその父親、またジョーと保安官補の父親、そして事故死した妻をめぐるふたりの父親同士の確執と和解など、ご都合主義的な部分がなきにしもあらず。
スピルバーグの『E.T.』は、母子家庭の少年が失われた父親との絆を宇宙から飛来した異星人との出会いと別れによって疑似体験するさまを実に丁寧に描いていたと思うんだけど(僕が個人的に一番好きなスピルバーグ作品は『E.T.』)、それと比べると『スーパーエイト』の主人公ジョーの想いは残念ながら若干薄い。
『E.T.』(1982) 出演:ヘンリー・トーマス ドリュー・バリモア ピーター・コヨーテ
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政府に捕らえられてヒドい目に遭わされてついに暴れだすあのモンスターに、寂しさの中で仲間たちと好きな映画作りにいそしむ少年の心情がかさね合わされてるのはもちろんわかる。
友だちの家では家族がいっぱいいてにぎやかで楽しそう。おばさんやおじさんも優しくしてくれる。
そんな細かい描写がよく効いている。
でもその後町ひとつが壊滅するという、まるで特撮少年の妄想めいたあまりに物凄い展開になるので、いつしか親子のドラマがおざなりになってしまう。
VFX(視覚効果)満載のSF的な見せ場とかモンスターの大暴れなんてのは、もっとささやかでもよかったんじゃないか。
あの子どもたちが自主映画を撮ろうと奮闘したり、父親たちが必死に我が子との絆を取り戻そうとする人間ドラマの方をもっと観たかった。
似たような題材の『リトル・ランボーズ』(感想はこちら)みたいに。
そんなんじゃ退屈だ、大爆発やドンパチがなきゃヤだ、って意見もあるだろうけど。
でも『E.T.』だってそんなにド派手なVFX場面があったわけじゃないし、あの作品のファンタスティックな映像が際立ったのは、丁寧な日常描写と子どもたちのナチュラルな演技を引き出した的確な演出のおかげだったんだよね。
この『スーパーエイト』にもその片鱗は見られる。
ジョーを演じるジョエル・コートニーがいい。
時代を越えた“少年”の顔をしている。あの髪型も。
この映画の舞台になっているのは1979年だけど、美術や衣裳などであの当時の様子を再現しつつも、いい意味で時代を感じさせない。
現在のアメリカの田舎町、といわれても自然に受け入れられそう。
カイル・チャンドラーが演じるジョーの父親は、息子に対しては不器用にふるまうがいざとなればしっかりと抱きしめることができる、これぞ「アメリカ人の父親」といった感じで、俺もこんな力強い親父が欲しかったなぁ~、なんて思わせる。
なんだかんだと文句を垂れたけど、それでもスピルバーグが成し遂げたSFや特撮と人間ドラマの融合にかぎりなく近づいた映画だと思う。
ラストはまさに『E.T.』だったし。
エイブラムスさんは、『M:i:III』とか『スター・トレック』じゃピンとこなかったけど、あぁ、いろんな引き出しがある監督なんだ、と思いましたよ。
「人の死」が記号的に描かれて、大切な人が死んでも次のシーンでは主人公はケロッと忘れてるような映画(そうしないとアクション物なんかは話が先に進まないからしょうがないんだが)が多くを占めるここ何年ものハリウッド娯楽映画の中で、「大好きだった母親の死」について最後までこだわるようなストーリーは、実はとても貴重なんではないか。
自分たちが撮る自主映画に出演してくれることになった女の子への恋心。
ほかの作業で忙しい監督にかわって、スタッフのひとりであるジョーがヒロイン役のアリスに一所懸命キャラクターの説明をする。
演技は未経験のはずの彼女がおもわぬ“女優ぶり”を見せたときの、一同唖然とするような瞬間(でも出来上がった映画の中ではちゃんと“大根”に撮れてる)。
みんなが協力し合って“モノ”を作り上げるときの、涙が出そうになるあのいいようのない高揚感。
映画とか、音楽とか、スポーツでもなんでもいいけど、何かそういう“一体感”を味わったことがある者なら、グッとくる場面。
「もうどうでもいいよ」って途中で映画の完成をあきらめようとしてる監督に、「完成させようよ」というジョー。
好きな子を自分でキャスティングしたのに、手伝いだったはずのジョーにその子を獲られてしまうデブの監督には心の中で号泣。
「何がムカつくって、お前たちが“両想い”ってことだ。俺があの子を好きだったのに。でもわかってる。俺はあの子には好きになってもらえないんだ。だってデブだし」ってつぶやく監督のチャールズ。
…あぁ、お前は俺だ!!
久々に“子どもたちが主人公”の映画を観た。
完璧な映画とはいわない。実際には泣いてない。
でも、こういう映画はもっとあっていいな、と思った。
エンドロールで流れる彼らが作り上げた「自主映画」を最後までちゃんと観るように(あのゾンビを一所懸命演じる子どもたちに、これまた涙)。
どんなに他愛なかろうが中身がなかろうが、仲間やいろんな人たちを巻き込んだ以上は「作品」をちゃんと「完成させる」というのは作り手の最低限の義務だし、それを成し遂げたとき、出来がどんなんであろうが彼らの努力の結晶は何物にも変えがたい価値がある。
生きてるうちにたった1つでもなにか精一杯打ち込んだモノを作り上げることができたら、自分の人生はムダではなかったと思えるのかもしれない。
E.T. 2 (笑)
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『ゴジラ』(1954年版)
『メアリーの総て』
『マレフィセント』
『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』
*1:追記:実際には母子家庭ではなかったことが、のちに撮られた自伝的映画『フェイブルマンズ』で描かれていた。