※以下は2010年に書いた感想に一部加筆したものです。
「北の国から」の杉田成道監督、役所広司主演『最後の忠臣蔵』。2010年作品。
「赤穂浪士」大石内蔵助の側用人であり、吉良邸へ討ち入りの直前に逐電(逃亡)したひとりの武士、瀬尾孫左衛門(役所広司)と彼が守り育てた主君の忘れ形見である娘、可音(かね)とのふれあいと別れを描く。
全面的にネタバレあり。
「忠臣蔵」という題材、そして同じく役所広司主演の『十三人の刺客』(感想はこちら)のイメージから、何やら勇ましい内容を想像してたら全然違った。
これは活劇ではないのでお間違いなきよう。
さて、まず「忠臣蔵」とはなんぞや。
江戸城殿中にて、浅野内匠頭(たくみのかみ)というおっさんが吉良上野介というじいさんに刀で斬りつけた。浅野はただちに切腹を命じられ、吉良はお咎めなし。それを不服とした浅野の家臣、大石内蔵助以下四十七士が吉良邸に討ち入りじいさんの首を獲った。
以上。
仔細はWikipediaでも参考にしていただくとして、さて一番悪いのは誰か。
浅野が吉良に斬りつけた理由はさだかではない(市川崑が1994年に撮った『忠臣蔵 四十七人の刺客』でも、西村晃が演じる吉良は高倉健演じる大石に事件の真相を告げる前に殺されてしまう)。
殿中での抜刀が無条件で禁じられている以上、刀傷沙汰を起こした浅野に一切の責任があるのは明白だと思うが、そう簡単にはいかないようで、かくしてことは「忠臣蔵」のもととなる「元禄赤穂事件」へと発展する。
この映画を観ている間中、頭の中でもやもやしていてどうしても拭えない疑問があった。
赤穂藩の家臣たちはなぜこれほどまでの犠牲を払わねばならなかったのか。
それほど価値のある事件といえるだろうか?
たとえば先ほどの映画『十三人の刺客』で稲垣吾郎が演じた暴君のようなわかりやすい悪役は、この「忠臣蔵」には存在しない。
吉良が悪者のように描かれてはいるが(性格が悪かったという話だが、だから殺されなければならないという法はない)、けっきょくそれは四十七士の討ち入りを正当化するための大幅な脚色に思えてならない。
お家取り潰しとなって路頭に迷いおさまりがつかなくなった赤穂藩の家臣たちは逆ギレして吉良をぶっ殺した。
ようするに、乱心して衝動的に傷害事件を起こした主君のためにお家そのものと家臣一同すべての者が多大な迷惑をこうむった話、というだけのことではないのか。
そこにいかなる美談があるというのだろうか。
この『最後の忠臣蔵』の主人公、瀬尾孫左衛門は主君大石内蔵助の命により、大石の忘れ形見である可音を公儀から守るために討ち入りに加わらず、人知れず京へ逃れて身を隠す。
ちょっとツンデレな、やんごとなきお姫様(おひいさま)は生き延びて、やがて町人のもとへ嫁いでいく。
これは、僕のようなしもじもの者と一体なんの関係がある物語なんだろうか。
かつて山田洋次監督の『たそがれ清兵衛』に対して、同じく映画監督の井筒和幸が「侍というのは日本の人口のほんの一握りの“エリート”だったわけで、そんなエリートの話を描いて俺たちとなんの関係があるんだ」というような意味のことを言っていたのを思い出す。
たしかに、日本人もガイジンさんも「サムライ」が大好きだが、彼らは特殊な価値観のもとに生きていた人々である。
けっして普遍的な存在でもなければ「日本人の心」などという、わかったようなわからないような代物を背負った人種でもない。
人は普通、生きようと思う。
それが本能ともいえる。
しかし、その本能と正反対の生き方をしようとしたのが武士なのだろう。
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」
ジム・ジャームッシュの『ゴースト・ドッグ』でも引用されていた「葉隠」の中のこの一文は、けっして玉砕や自決を賛美するものではないそうだし、この映画『最後の忠臣蔵』の中で直接触れられているわけでもないが、つまりはそういうことを描いた作品だったんだろうと思うんである。
『ゴースト・ドッグ』(1999) 監督:ジム・ジャームッシュ 主演:フォレスト・ウィテカー
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なぜ孫左は死なねばならなかったのか。
この映画はむやみに自死や「忠義」を賞賛しているわけではない。
安田成美が演じる“ゆう”が孫左に語る。
「男をこの世につなぎ止めるのは、おなごの髪のひとすじ」
何かといえば死にたがる男に対して、“おなご”である彼女は彼をなんとかこの世に引きとめようとする。
臥所で女を抱き、生きる道を選ぶこともできたのだ。
しかし、孫左は「輪廻の涯ての」主君らのもとへ往くことを選ぶ。
これは愚かな選択だろうか。
自分がこの世での役目を終えたと感じた時、自らその命を断つという選択肢。
それは「美しい」とか「神秘的」などということではなく、ただ、わかるかわからないかだけなのだと思う。
生き残ること、なんとしても生き続けることが絶対的な価値のあることだと信じる者にはけっして理解できない生き方、いや「死に方」だろう。
「忠義」のために命を捨てる、などというとなんとも理解しがたいものの考え方に思えるが、誰にでも生きる指標、人生における柱となるものは必要であり、人によってそれが「神」であったり「愛する者」であったり、「野心」や「金」であるように、彼ら「武士」にとっては何よりも代えがたいものが主君への「忠義」だったということ。
自分はなんのために生きるのか。
主君の忘れ形見を守り通しながら、実はその幼き命によって“生かされて”きた男。
彼女に“想われて”いた者は、誰よりも彼女のことを想っていた。
俺とはなんの関係もない、何百年も昔のまるでよその国の話に思えた物語において、現代ではただの無駄死に、命を粗末にして!と糾弾されかねない行為にかすかに共感をおぼえたのだった。
想い入れたもののために生き、そのために死ぬ。
それは盲目的な狂信でもなければバカ殿への単なる追従でもない。
何度も言うが、これは普遍的な価値観ではないし「日本人の心」などでもない。
自らの意志による「選択」なのだ。
出演者たちの細やかな演技。
とりわけ可音役の桜庭ななみ(『サマーウォーズ』ではヒロインの声をアテてる)の気高き武家の娘らしい凛々しさには、時代を越えた美しさがあった。
海の向こうでは、キアヌ・リーヴス主演で「忠臣蔵」を映画化しようなどというもくろみがあるようだけど、はたしてあちらのかたがたにこの物語はどう映ったのだろう(『47RONIN』の感想はこちら)。
細かいことだけど(しかし予告篇でもしっかり映っている)、冒頭での討ち入り場面で、石でできているはずの橋が人の重みでへたっている。あれは撮りなおすべきだったんではないかと思います。
あと、吉良上野介役を名斬られ役の“サイレント・サムライ”福本清三が演じていた。ここでも殺されてる、とちょっと笑ってしまいました。
※福本清三さんのご冥福をお祈りいたします。21.1.1
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