※以下は2011年の劇場公開時に書いた感想に一部加筆したものです。
ジャコ・ヴァン・ドルマル監督、ジャレッド・レト主演の『ミスター・ノーバディ』。
2009年作品。日本公開2011年。
2092年、“ニモ・ノーバディ”という変わった名前をもつ主人公は118歳で、すでに人類は不死となった時代に唯一死を迎えることができる男だった。超高齢のニモの人生をさぐろうと医師やジャーナリストが彼に話を聞く。しかし、彼は9歳のときに“究極の選択”を迫られて以来、記憶が分裂していた。
日本公開の前年、ネットでこの映画の米国版予告篇を観て「おおっ、ジャコ・ヴァン・ドルマルの新作!?」と興奮した。
しかも主演のジャレッド・レトをはじめ、ダイアン・クルーガー、サラ・ポーリー、リス・エヴァンスなど、ハリウッドの有名俳優たちが出演。
どうやら初の英語作品らしい。
なんかVFX使って未来の風景とかが出てきてるし。
これは観たい!
しかし映画は2009年の作品。
その時点ではまだ日本公開のアナウンスもなかったので、まさかこのまま未公開…?と不安になったのだった。
なにしろ1991年の初監督作品『トト・ザ・ヒーロー』(感想はこちら)以来、20年間でこの最新作を入れて長篇映画はわずか3本という超寡作の人である。
これを観逃したら次は新作をいつ観られるかわからない。
正直この予告篇をみつけるまでは、この監督さんの新作はもうないかも、と思ってたほど。
なので日本でも無事公開されると知ったときは小躍りした。
で、まだ公開がはじまる前に、すでに観た人の数少ないレヴューを読んでみたのだが。
「長い」「話にまとまりがない」と一刀両断。
…え、マジか。
96年の『八日目』から13年ぶりの最新作が「まとまりがない」って、そんだけ!?
なんかちょっとショックだ。
たしかに制作されてから2年も経つのに話題になった形跡はない。
かなりの製作費をかけたにもかかわらず、どうやら海外ではそれほどヒットしなかったようだ。不安はつのる。
それでもあらためて劇場で日本版の予告篇を観たら、そのエモーショナルな映像と耳に残る音楽でますます観たくなった。
そして、ようやく公開。
以下、ネタバレあり。
上映時間は2時間20分近く。ストーリーをまとめるのはなかなか難しい。
いや、老人になったニモがいうように実際は単純なのかもしれないが、主人公が選択した(かもしれない)世界が3つか4つぐらい並行して描かれるので、やはり1回観たきりでは話を整理しきれない。
『シン・レッド・ライン』(ジャレッド・レトも出演している)のエンドロールの曲が使われています。
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少年ニモは両親が別れる際に、父親と母親のどちらについていくか選ばなければならなくなる。
母親についていった自分。
父親と残った自分。
それぞれの選択肢から、またあらたな出会いが生まれていく。
母親についていったニモは、母の新しい恋人の連れ子アンナとともに暮らすことに。
一つ屋根の下で血のつながらない少年少女が同居という、まるであだち充の漫画的めくるめく夢の展開が繰り広げられる。
しかし、やがてふたりの仲が親たちに知れて彼らは離ればなれに。
このパートはかなりの時間を割いてじっくり描かれていて、もう「こんな人生を送りたかった」ドルマル節炸裂である。
のちに成長してジャレッド・レトとダイアン・クルーガーになる、15歳のニモとアンナを演じているトビー・レグボとジュノー・テンプル(ジュリアン・テンプルの娘)が初々しくていい。
一方、父親のもとに残ったニモは、9歳の頃に近所に住んでいたエリースと再会する。
エリースは成長してサラ・ポーリーとなり、ニモは見事彼女と結婚。
しかし再会したときから若干情緒不安定気味だったエリースは、やがてウツを発病して子どもの誕生日会で無理してハシャいでみせたり、どしゃ降りの雨の中で泣きわめいたりと、さらに「ジュリアン・ムーア化」(似てるなぁ、サラ・ポーリー)が促進されていくのだった。
また、選択肢からさらに細かい選択肢が枝分かれしてゆき、その矛盾だらけの記憶に老ニモにインタヴューしているジャーナリストも混乱する。
ニモが出会った3人の妻たちの中では東洋系のジーンのパートが短すぎる気がしたが、彼女がニモに「あなたはいつもうわの空で…」と悲しそうにつぶやく場面に、なにかとても胸が熱くなったのだった。
妻や子どもたちの名前さえおぼえておらず、自分がなぜそこにいるのかもわからずに不思議そうな目で妻を見る夫。
ニモに手紙で自分の人生のむなしさを綴られてしまうジーンがあまりにも哀れ過ぎる。
ドルマル監督の真意はわからないが、なぜあのようなシーンを作ったのか、とても気になった。
『トト・ザ・ヒーロー』『八日目』でドルマル作品ではいまやおなじみのパスカル・デュケンヌがワンシーンだけ出ている。
また、ニモが生まれる前に、天国みたいなところでこれから生まれる子どもたちを選ぶふたりの天使たちを演じているのは、監督の娘さんたち。
彼女たちは『八日目』でダニエル・オートゥイユの幼い娘たちを演じていた。あぁ、美しゅうなって…。
なんとなくこの辺の身内感覚、そして主人公の子ども時代のノスタルジックな色合いなどはちょっとジャン=ピエール・ジュネの映画を思わせもする。
Buddy Holly - Everyday
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また未来世界は『フィフス・エレメント』や『2001年宇宙の旅』っぽい場面があったり。
なんかこう書くと他の映画からのパクリばかりみたいに思われるかもしれないけど、この監督の特徴はやはり「こうであったかもしれない人生」あるいは「こうありたかった人生」にこだわり続けていることじゃないだろうか。
9歳のニモはいう。
「選択しなければ、すべての可能性が残る」。
たしかに。
ただし、「時間」が存在しなければの話だが。
時間が経つことで可能性はどんどん狭まってゆき、ついにほとんどが死滅してしまう。
まるで受精しなかった精子のように。
おそらくニモにとって最愛の女性であるアンナとの出会いでさえ、彼の一言の内容によっては存在しなかったかもしれないのだ。
エリースにはフラれてそのままバイクで事故って、ドラえもんを夢見る植物人間状態ののび太みたいな一生を送ったかもしれない。
よーするに、“バタフライ効果”。
「北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」の、あのたとえである。
「僕」はもしかしたら生まれなかったのかもしれない。
本当は僕はここにいないのかもしれない。
ここにきて、映画に描かれたかがやかしく甘酸っぱく、哀しく美しい記憶は、全部「存在していないのかもしれない」という可能性が示唆される。
ジャーナリストの目の前で崩壊していく2092年の未来世界。
「なんだ、夢オチかよ」と思うだろうか。
でもニモはいう。
「わたしにとって、その可能性はみな価値のあるものだ」と。
たしかに観てる途中で「けっこう長いな」と思った。
ちょっとシンドさも感じた。
でも「このままずっと続いてもいいな」とも思った。
きっとジャコ・ヴァン・ドルマルは、初監督のときに最高傑作を撮ってしまったのだ。
以後の作品はその変奏曲だと僕は解釈している。
失礼極まりないが、偉大な映画監督とは得てしてそういうものだ。
すべてが収斂していくクライマックスにはカタルシスを感じた。客席で鼻をすすってる人もいた。
公開初日に観に来た人たちは、おそらく僕と同じく『トト・ザ・ヒーロー』や『八日目』が好きなんだろう。
彼らと一緒に観られてよかった。
それにしても、この監督さんはどうしてこういつも心を刺すような映画を撮るんだ。
オレの心の中を透視できるのか?
自分の人生はむなしかった、と哀しみに耽るのは容易いが、できれば「出会ったかもしれない人々」「起こったかもしれない出来事」に思いを馳せながら生きていけたら、と思う。
そしてこれからの人生で、僕はジャコ・ヴァン・ドルマルの映画を何本観られるのだろうか。