映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

もう一つのブログとともに主に映画の感想を書いています。

『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』


ギレルモ・デル・トロ監督、ロン・パールマン主演『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』。

ヘルボーイ」シリーズ第2弾。ネタバレなし。

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遠い昔、無敵の軍隊ゴールデン・アーミーによって人間との戦いに勝利したエルフの王子ヌアダは、現代のこの世界にふたたびゴールデン・アーミーをよみがえらせるために画策する。ヘルボーイは仲間たちとともにヌアダと復活した黄金軍団に立ち向かう。


2008年の作品(日本では2009年正月公開)だけど、たしか僕の住んでるところではシネコンでやってなくて単館系での上映だったこともあって、観逃していました。

1944年(『パンズ・ラビリンス』→感想はこちらと同じ年でもある)、魔界の穴からやってきた悪魔の子どもは「ヘルボーイ」と名づけられて、成長したのち「超常現象調査防衛局」所属のエージェントとして悪魔たちを相手に戦う。

なんか「ドロロンえん魔くん」みたいな話だな。


ちなみに、まだこの作品が映画化される何年も前に作られた『ブリスター!』という日本映画で、主人公を演じる伊藤英明が追い求める幻のアメコミヒーローのフィギュアが登場するんだけど、それの名前が「ヘルバンカー」といってデザインがまんまヘルボーイだった。

もちろん許可とってるんだろうけど(だよね?)。

前作では主人公の出生の秘密や“念動発火”能力を持つリズ、“サイコメトリー”能力を持つ半魚人のエイブなどの仲間たちとともに彼が人間の世界にやってきた原因を作った敵との戦いが描かれて、ビールとチョコバー、葉巻が好物のヘルボーイとか、ユニークなキャラクターたちがわりと好きでした。

今回新登場で昔の潜水服みたいなスーツの中にエクトプラズム状態で入っているヨハン・クラウスは見てるだけで楽しいし、トロル市場のシーンなんかは、ちょっと『スターウォーズ』の一場面みたいでイイなぁと(すでに3年前の劇場公開時にライムスター宇多丸さんが同じこと語ってて若干悔しかったが)。

缶ビール片手にヘルボーイとエイブがまったりしてるとこなんかもアクション映画っぽくなくて「なんだこのノリ」と可笑しかった。

物憂げでキュートなヒロインのリズを演じるセルマ・ブレアは、トッド・ソロンズ監督の『ストーリーテリング』で大胆な役を演じてて印象に残ってるんだけど、この「ヘルボーイ」シリーズでも演じてる本人の実年齢は娘というほど若くないにもかかわらず、不思議と年齢不詳な魅力がある。

このリズと“レッド”ヘルボーイカップルは、観てる間中もどかしくてたまらないんだけど。


デル・トロ監督は「ヘルボーイ」の原作者マイク・ミニョーラの大ファンで、ウェズリー・スナイプス主演の『ブレイド2』でもミニョーラをコンセプト・アーティスト(美術監修)として招いている。

映画会社から反対されながらも、『薔薇の名前』のノートルダム男や『ロスト・チルドレン』などの変な顔俳優ロン・パールマンを主演にすることにこだわったのも、彼の顔と雰囲気が原作漫画のキャラクターにソックリだったから(もともと彼がヘルボーイのモデルだったかも)。

CGだけではなくて、着ぐるみのスーツに人が入る“かぶり物”のクリーチャーへの愛着も感じられる。

エンドロールを確認すると、半魚人とガス人間を演じているスーツアクターたちはそれぞれが他のかぶり物キャラも何人か兼任している。

ただまぁ、こういうタイプの映画にありがちなんだけど、お話の内容はわりとどうでもよくて(ほんとはとても重要だと思うんだが)、敵や味方の面白キャラたちが縦横無尽に暴れまくるさまを楽しめばいいということで、今回もそんな感じ。

だからストーリーについてどうのこうのと文句をいうのはあまり意味がないかもしれないんだけど、やっぱり個人的にいろいろ思うところもあるので。


前作には帝政ロシアの末期に実在した“怪僧ラスプ−チン”、かつてダイアン・ソーンが映画で演じた収容所の女所長から名前とキャラクターをいただいたイルザ、そして防毒マスクみたいなのを被ったナチスの将校姿のゼンマイ仕掛けの怪人と、実に魅力的な悪役たちが出てきてまるで『魔界転生』みたいな“アナザー・ワールド”な世界観に興味を引かれたんだけど、今回ヘルボーイたちと敵対するのはルーク・ゴス演じる妖精の国の王子。

このヌアダ王子がふたたび人間の前に姿をあらわした理由は、「人間たちが世界を汚(けが)したから」だという。

この、人間と妖精、あるいは魔物たちとの戦い、といって思い出すのはご存知『ロード・オブ・ザ・リング』。

全3部作、1本が3時間以上あるあのシリーズはどれも映画館で観たけど、残念ながらとにかく延々戦闘場面が続いてた、という印象しかない。

3作目のラストでこの世界から立ち去っていくエルフたちの姿にちょっとウルッとはきたけど。

つまり、かつて大地に棲んでいた妖精や魔物たちが、やがて人間たちにとって代わられてゆく哀しみや寂しさを描いていたのだということ。


おそらくこの映画『ヘルボーイ2』の敵役であるエルフの王子のキャラクターにもそういう感傷が込められているんだろうし、そこをちゃんと描けば感動的なストーリーにもなったと思うんだけど、「人間たちが世界を汚した」というのがどのようなことなのか、またエルフたちが棲んでいた頃の世界がどれほど素晴らしいものだったのかという具体的な描写がないので、この王子の怒りに共感しにくく、したがって彼のどこか悲しい最期にも心が動かされることはなかった。

あんな強かったのに急にやられちゃうし。

あれはやっぱりもっとシナリオを練ってほしかったところ。


いや、こういう映画は理屈じゃなくて画がかっこ良ければそれでいいんだよ、といわれるかもしれないけど、ではヴィジュアルで圧倒されたかというとそれも微妙で。

人間を滅ぼす力を持ったロボットの大群「黄金軍団」も、『トランスフォーマー』などを観てしまったあとだと、卵型のゴールドライタンみたいなそのデザインやCGのクオリティに苦しいものを感じてしまう。

CGが実際に人間が演じてる“かぶり物”の面白さに負けてしまってるんだよね。

クライマックスで、ヘルボーイ一行とヌアダ王子が対峙する後ろで所在なげに立ち尽くしてる様子はちょっと可愛かったけど。


なんかさっきから「残念」なところばかりあげつらってますが、よーするに、多分監督が映画で描きたいものと僕が観たいものの間にズレがあるんだと思う。

パンズ・ラビリンス』(感想はこちら)を観ても思ったけど、ギレルモ・デル・トロ監督はきっと虫とか粘液とか血しぶきとかが大好きなんだろうなぁ、って。

ミミック』で巨大ゴキブリ描いてたぐらいだから。

どうしてもそういうものへの偏愛が、映画のバランスを崩してる気はするんだよなぁ。

そこがいいんじゃない!って人もいるんだろうけど。


でも僕は少なくとも“スーパーヒーロー物”を撮るなら、「そういうのが好きな奴だけが観ればいい」ってんじゃなくて、「なぜスーパーヒーローを描くのか」という視点が必要だと思う。

というのも、優れたヒーロー物の多くには“ス−パーヒーロー”についての「考察」が含まれているから(ヌアダ王子がヘルボーイたちにいう「人間たちは今にお前たちに飽きて見捨てるだろう」という台詞は、次々と実写映画化されてるアメコミヒーローそのものを表わしてるようで実に興味深くはあったが)。


1978年のリチャード・ドナー監督の『スーパーマン』、そしてその続篇といえるブライアン・シンガー監督による2006年の『スーパーマン リターンズ』には、“スーパーヒーロー”の存在意義、なぜ人々はスーパーマンを必要とするのかが描かれていた。

最近の『キック・アス』はボンクラ高校生が「なぜみんなスーパーヒーローになろうとしないのか」と考えた末、自分がヒーローになろうと奮闘する話。

ティム・バートン監督の『バットマン』は「ヒーローというのは実はコスプレした変態オヤジです」という映画(^_^)

『アイアンマン』みたいに、「かっこ良けりゃいーんだよ!そ−です、あだすがアイアンマンです」ってお姫様ポーズで飛んでっちゃう作品もあるが。


なぜ子どもだけではなくて、いい年こいた大人がこういう荒唐無稽で絵空事の映画を喜んで観るのか。

もちろん基本は「理屈じゃなくて、ただ好きだから」なんだけど、僕はこれはとても深いテーマだと思うんだよね。

だからそれに触れたスーパーヒーロー物が観たい。

デル・トロさんは“わかってる”監督だと思うんで。

この人にはザック・スナイダー監督の最新作『エンジェル ウォーズ』(感想はこちら)のような、異界で女の子たちが戦うような映画を撮ってほしいなぁ。


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