『ザ・セル』のターセム・シン監督による2006年制作の映画『落下の王国』。日本公開は2008年。
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『ザ・セル』(2001) 出演:ジェニファー・ロペス ヴィンス・ヴォーン ヴィンセント・ドノフリオ
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1915年のロサンゼルス。オレンジの木から落ちて左腕を骨折した5歳の少女アレクサンドリア(カティンカ・アンタルー)は、同じ病院でスタントマンの青年ロイ(リー・ペイス)と出会う。彼は映画の撮影中に橋から飛び降りて背骨を傷めベッドに寝たきりだった。ロイはアレクサンドリアにおとぎ話を聞かせる。しかしそれは彼女に薬剤室から自殺のためのモルヒネをもってこさせるためだった。
以下、ネタバレあり。
『英国王のスピーチ』でも効果的に使われていたベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章(そういえば『ノウイング』のクライマックスでも流れてたな)の音色とともに映画ははじまる。
やがてロイとアレクサンドリアが入院している病院での出来事と、ロイが話す異国のおとぎ話が並行して描かれる。
…というと、なんとなく『パンズ・ラビリンス』(感想はこちら)とか、あるいは『エンジェル ウォーズ』(感想はこちら)みたいなのを想像するかもしれないけど、あそこまでVFXを全面に出していなくて、ロケ撮影による風景の映像(無論、VFXは使っているが)を生かしたアート・フィルムに仕上がっている。
ちょうど美術館の屋外展示物を観ているようでもある。
とにかくこの映画のフィルムの色合いにはとても心打たれる。
豪華絢爛な衣裳を担当しているのは、『ザ・セル』につづいて石岡瑛子。
特に「総督オウディアス」の手下である兵士たちの衣裳がカッコエエ。
たしかに衣裳や美術は『ザ・セル』を思わせるが、僕はなんとなく90年代に観た何本かの映画を思い浮かべていた。
ピーター・グリーナウェイの『プロスペローの本』、サリー・ポッターの『オルランド』etc.。
『オルランド』(1992) 出演:ティルダ・スウィントン ビリー・ゼイン
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インド出身のターセム監督の映画はエキゾティックでどこかヨーロッパ映画のような味わいがある(この映画はインド・イギリス・アメリカの合作)。
俳優の顔つきもハリウッド映画のそれとは違うように感じられる。
ストーリー自体は難解ではないものの、わかりやすく見せるというよりはヴィジュアルのインパクトを優先させるために、通常のストーリーテリングに慣れきっているとその飛躍に戸惑う。
ロイとアレクサンドリアの会話では、幼児と喋るときのしばしば会話がかみ合わないトンチンカンなやりとりなど、普通の映画なら省いてしまいがちな細かいディテールをきちんと描いている。
アレクサンドリアが美少女ではなく、前歯の抜けたちょっとぽっちゃりした女の子というのもリアルだ。
これは子ども向けの“ファンタジー映画”ではないし、大人が観ても好みが分かれるところだろうけど、それでも僕はひさびさに「ファンタジーってこういうものだよな」という感覚を味わったのだった。
理屈ではなく感覚でお話がすすんでゆく感じ。
“ファンタジー”とは、いま一度「子どもの心で世界を見る」ことではないだろうか。
子どもは人生経験が圧倒的に不足しているために、「お話」というかぎられた情報の中でも処理しきれないものが数多くある。
そういった、彼らにとって未知のものはそれ自体がなんだかワクワクする存在なのだ。
ロイがでまかせに語る世界のさまざまな国の風景。
そこで映し出されるかずかずの城やピラミッドなどの建造物、棚田やものすごい高さの砂丘など、そしてそのなかにいる人物たちの鮮やかな衣裳をつづけて見ていると、まるで世界には高層ビルも自動車もビジネススーツも存在しないように思えてくる。
それらはロイがいうように壮大な「叙事詩」から抜粋されたもののように感じられて、まだ語られていない物語に観客はアレクサンドリアとともに胸をときめかせるのだ。
ロイは思いつくままに適当にお話をでっち上げているにすぎないのだが、彼の「言葉」によって紡がれた物語はいつしか幼い少女に共有されて、ときに彼女からツッコミさえ入るようになる。
語る者とそれを聞く者の両方によって作り上げられる物語。
しかし、やがて物語は苛酷なものへと変化していく。
そもそもこの物語は最初から、総督オウディアスによって兄弟や愛する者、大切な存在を奪われた者たちが復讐する、という血なまぐさいものだった。
それはこの物語を語っているロイ自身の絶望からきている。
彼は恋人を映画スターにうばわれて、みずからの死を望んでいた。
「総督オウディアス」とはロイから恋人をうばった映画スターのことにほかならない。
物語のなかでロイの分身である“黒山賊”は旅先でさらった姫と恋仲になって結婚しようとするが、司祭の裏切りによって敵にとらわれてしまう。
主人公たちのピンチに助けに現われたのは、“黒山賊”と同じ服を着たアレクサンドリアだった。
彼女の加勢によって一行はかろうじて危機を逃れる。
さて病院では、ロイは二度にわたってアレクサンドリアをだましてモルヒネの瓶を取ってこさせたものの、命を落とすこともなく翌朝目を覚まして「死に損なった!!」といって暴れる。
僕はここで泣いてしまった。
一度でも死のうと思い、実際に死のうとして、しかし死ねなかった者にはロイのこの気持ちがわかるのではないだろうか。
彼が自殺を図った理由は恋人に去られたからだが、もちろん人生に「絶望」する理由は人によってさまざまだ。
それにしても身勝手な考えである。
この男は幼い少女が彼になついて無邪気にお話を聞きたがるのを利用した。
彼がこの世から去ったあとに残される者のことなど考えもせずに。
ロイのためにふたたびクスリを盗もうとして薬剤室の棚から落下し怪我を負ったアレクサンドリアは、ベッドに横たわりながらロイに「お話をして。お話が聞きたい」とせがむ。
ロイはいう。「僕のお話は最後に幸せにならないんだよ…」
彼が少女に語る物語は次第に「死」の色合いが濃くなって、仲間たちは次々と命を落としていく。
そして黒山賊も…。
彼を死の淵から救ったのは、アレクサンドリアの「死なないで!黒山賊を死なせないで!」という涙ながらの言葉だった。
哀しみに暮れ、自暴自棄になって自死を願った男は、幼い少女の必死の叫びによってよみがえる。
アレクサンドリアは、一見すると普通の子どもだ。
移民の子である彼女は言葉に訛りがあるし、英語のスペルもまだ正しく書けない。5歳児として特別に利発というわけでもない。
しかしこの映画を観ていれば、彼女が言葉や態度には出さないが、大人たちが思っている以上にいろいろと考え、悩み、それでもけなげに明るく元気に生きているのだということがわかる。
彼女の無知や無邪気さがロイを救ったのではなく、彼女はロイの危機を察知して、自分を犠牲にして本気で彼を救おうとしたのだ。
僕はこの少女に救われた自分に気づいた。
映画を観たぐらいで救われる悩みなど悩みのうちに入らない、とのたまった映画評論家がいるが、よけいなお世話だ。
こうやっていつも僕は映画に救われつづけている。
この映画が「映画を観る」シーンで終わるのも泣ける。
サイレント期のチャップリンやキートンたちの映画が映し出されるこのエンディングに、かつて友人がいった「人生とは映画のようなもの」という言葉がよみがえった。
これは、失ったものをあきらめ、あらたに生きることを決意した男の物語。
けっしてメジャー寄りではない作りのこの映画を、ターセム監督は世界中をロケしてまわり4年の歳月をかけて撮ったという話には感服する。
この監督さんはこのままアート系でいくのかと思ってたら、次に撮ったのは意外にも『300 <スリーハンドレッド>』の製作スタッフによるVFX大作『インモータルズ』でした。
大がかりなロケーション撮影を敢行した『落下の王国』に対して、見るからにCG合成を多用したのがわかる作品で僕はちょっとビミョーな印象をうけたので未見ですが、はたしてどのような作品に仕上がっているんでしょうか。
『インモータルズ 神々の戦い』(2011) 出演:ヘンリー・カヴィル ミッキー・ローク
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