ギレルモ・デル・トロ製作総指揮、フアン・アントニオ・バヨナ監督の『永遠のこどもたち』。スペイン=メキシコ映画。2007年作品。日本公開2008年。
劇場では観てなくて今回DVDではじめて観たんだけど、タイトルは知ってたし子どもがかぶってる不気味な顔が描かれたマスクのデザインには見覚えがあった。
海岸沿いの孤児院で育ったラウラ(ベレン・ルエダ)は、今は閉鎖されたその建物を買い取り、夫(フェルナンド・カヨ)と息子シモン(ロジェール・プリンセプ)と3人で住みはじめる。彼女はここでかつての自分のような身寄りのない子どもたちを引き取って世話をしようとしていた。ある日、シモンとともに洞窟から家に帰ると、ソーシャルワーカーを名乗る老女がたずねてくる。
以下、ネタバレあり。
この映画の原題の“El Orfanato”とは、そのものずばり「孤児院」のこと。
劇中ほとんどは主人公が住むこの屋敷が舞台となる。あとは海辺や町がちょっと映し出されるぐらい。
この映画は一応「ホラー」といえるだろう。
超常現象が描かれるし、トマスという少年がかぶっているマスクはパッと見、かなりグロテスク。
ただ、お化け屋敷的なコワさを期待するとそれほどではないかも。
それでも幼い子どもをもつ親にはこれ以上ない恐怖が描かれるし、ダークなファンタジーといった要素もある。
なにがファンタジーなのかというと、「ピーター・パン」の話がキーワードとなるのだ。
ピーター・パンは永遠に大人にならない少年である。
そして、そんな彼に出会う少女ウェンディは、いつしか大人になって“ネヴァーランド”には行けなくなる。
そのことを心にとどめたうえでこの映画を観ると、ラストでいいようのない哀しみと、しかし同時にこのうえない美しい光景に胸を打たれずにはいられない。
さて、ソーシャルワーカーを名乗っていた老女ベニグナは、夜、ひそかに敷地内の小屋のなかに潜んでいたのをラウラにみつかり、逃亡する。
このベニグナ婆さんの顔が、度がキツい眼鏡をしてて目がデカく映り過ぎててまるでケント・デリカットみたい。
絶妙に不快感を煽る顔である。
ラウラの息子シモンは一人遊びが好きで、いつも“空想の友だち”と話をしている。
しかし洞窟のなかで“誰か”と出会ってから、彼の言動は度を越しはじめた。
洞窟の“友だち”を呼ぶためにシモンが帰りの道すがら目印に落としていった貝殻が、玄関の前に積まれていた。
このあたりから、屋敷に不可解な現象が起こりはじめる。
この建物にはなにやら因縁がありそうだ。
日本の実話系怪奇譚にも通じるものがあって、これは比較的わかりやすい。
シモンは一見無邪気で可愛らしいが、しかし親に理解できないことに没頭していたり、ワガママをいったり、けっして可愛くない面もあらわにする。
“宝物さがし”に夢中になるシモンは、それをとがめるラウラに母親ならば子どもからぜったいにいわれたくない一言を口にする。
「本当のお母さんじゃないんだろう。うそつき!」
それは彼が“友だち”から聞いたことだという。
「子ども」が一転して不気味な存在に見えてくる恐ろしさが巧みに描き出されている。
そんなシモンが、ラウラの家でパーティがあった日に忽然と姿を消す。
パーティの客たちは障害をもった人たちが多く、なぜかみんな薄気味悪いマスクをつけている。
正直このあたりの描写は不愉快。
ラウラはシモンがいないことに気づき、息子をさがすが見当たらない。
そんな彼女の前に、不気味なマスクをかぶった子どもが現われる。
シモンかと思ってそのマスクを剥がそうとした瞬間、その子どもは彼女を突き飛ばしてケガを負わせる。
その後、同じマスクをした少年が過去に死んでいたことがわかる。
あの少年ははたしてシモンだったのか、それとも、かつてこの孤児院にいてほかの子どもたちの凄惨なイジメによって死んだ少年トマスの亡霊だったのか。
老女ベニグナは、実は死んだトマスの母親であった。
ラウラは手を尽くして探し回ったが、シモンはみつからなかった。
そして半年以上の月日が経ち、万策尽きたラウラはついに霊媒師に助けを求める。
その霊媒師を演じるのが…ジェラルディン・チャップリン!
この人、最近ではベニチオ・デル・トロ主演の『ウルフマン』でもロマの妖しげな霊媒師を演じていた。
なんかその手のおっかない老婆役専門になってるんだろうか^_^;
まだ70代前だというのに顔中のシワが凄くて、申し訳ないけどかなり化け物っぽくなってる。
若い頃は普通に綺麗だったんだけどな。
スペイン映画への出演がわりと多いけど(たしかカルロス・サウラ監督、アナ・トレント主演の『カラスの飼育』にも出てたかな)、スペイン語に堪能だったんだっけ。
彼女がこの恐怖映画に一種の風格を与えているのはたしかだと思う。
「幽霊話」の特徴として、なぜ主人公がこんな目に遭わなければならないのかわからない、というのがある。
ラウラは、なにか罪を犯したからヒドい目に遭うのではない。
それどころか、彼女は純粋にかつて自分が育った場所で子どもたちをひとりでも多く救いたい、と心から願っていたのだ。
それなのにほとんど理不尽としかいいようのないこの仕打ち。
この映画を観ていて思ったのは、やはりこれは子どもに対する親の不安がテーマになっているのではないか、ということだった。
結婚もしてないし育児経験もない身でわかったようなことをいうのも気が引けるが、それでもニュースで見聞きする、子どもたちに関する痛ましい事件のことを思い出さずにはいられなかった。
民俗学で語られる「神隠し」や「子とり」といった現象の多くが、実際には人身売買や間引きのことであったように、現代には現代の「子どもがいなくなる」理由が存在する。
私たちは普段は意識していないが、子どもという存在は本当に危うい状態で生きている。
いなくなったシモンはどこへ行ったのか。
最後に母親のラウラはあまりに残酷な事実を知ることになる。
幼い命はいとも簡単に失われてしまう。
息子を失ったラウラは、あおったクスリで朦朧とする意識のなか、息子とその“友だち”=「大人になれなかった子どもたち」が「僕たちの面倒をみて」といっているのを聞く。
…そうだ、私は大人になったウェンディなんだ。
これからはずっとあなたたちの世話をしてあげる。
彼女の願いはかなったのだ。
哀しすぎる結末だろう。
ちょっとギレルモ・デル・トロ監督の『パンズ・ラビリンス』(感想はこちら)のラストを思わせもする。
映像的にショッキングな場面はそんなにないし、「怖くなかった」という人もいるだろうと思う。
ただ、僕は以上のようにゾッとして非常に後味が悪かったです。
イイ意味でね。
優れた映画というのは、やはり観た者の心に傷を残すものなのかもしれない。
この映画は、なにやら「母の愛の強さ」がテーマ、みたいに宣伝されたようだけど、違うと思う(父親がまったくあてにならない、というのはそのとおりだが)。
そんな綺麗なお話じゃない。
だから「怖い」のだ。