マーク・ロマネク監督、キャリー・マリガン主演の『わたしを離さないで』。
2010年作品。日本公開2011年。
1978年イギリス。キャシー、ルース、トミーは寄宿学校「ヘールシャム」でほかの生徒たちとともに生活している。学校から外に出ることは許されずスポーツや創作活動にいそしむ彼らは、やがて教師から自分たちが生きている目的を知らされるのだった。
公開時に気になってたんだけど、観逃していました。
一言でいうと、なんとも奇妙な映画でした。
なにがどう奇妙なのか、うまく伝える自信がないのだけれど。
以下、ネタバレあり。
予告篇では、一見すると近過去を舞台にした普通の人間ドラマとも思えた。
ところが、映画を観はじめるとすぐに出てくる字幕には「1967年、人類の平均寿命は100歳を超えた」とある。
最初から「これは普通のドラマではありません」といっているのだ。
そしてヘールシャムの校長は子どもたちに「この学校の生徒は特別なのです」という。
はっきりと単語としては出てこないが、これはクローン人間の物語である。
先ほどの字幕でそれはほのめかされるし、主人公たちの正体は彼らを教えるルーシー先生によって比較的早めに明かされる。
寄宿学校での子どもたちの生活は質素で、時代は1970年代後半の設定なのに、まるで第二次世界大戦前を思わせる古風な生活様式。
純粋培養されたような子どもたちは従順で疑いを知らない。
学校の外に出ると恐ろしい目に遭う、という噂を信じ、教師たちに対しても反抗的な態度をとることはない。
校長を演じているのはシャーロット・ランプリング。
表情から感情がなかなか読み取れないその不思議でちょっと怖い雰囲気は昔から変わらないが、お顔を拝見するとさすがにお年を召されたなぁ、と思う。
原作小説は読んでないんですが(読んだことがある映画の原作などほとんどない)、どうやらこの主人公たちのヘールシャムでの少年少女時代のパートは原作ではもっと長いらしいんだけど、映画ではメインになるのは成長してからの彼らのエピソード。
主人公キャシーをキャリー・マリガン、ルースをキーラ・ナイトレイ、トミーを『ソーシャル・ネットワーク』や『アメイジング・スパイダーマン』(感想はこちら)のアンドリュー・ガーフィールドが演じている。
キャリー・マリガンは僕はこの作品ではじめて見た女優さんだけど…スゴいなぁ。
彼女の演技を見られただけでもこの映画を観た価値はあったな、と(その後、彼女が出演した『ドライヴ』を鑑賞。感想はこちら)。
なんていうのか、いわゆる「熱演」とかそういうわかりやすい演技ではなくて、ひとつひとつのこまやかな表情の変化、たたずまいが素晴らしくて。
しかし顔がトリンドル玲奈にしか見えないんだが…(^_^;)
キーラ・ナイトレイの前で涙を流す場面なんかも、こういうのをほんとに「巧い演技」というんだろう。
どこの誰とはいわないが、人前やキャメラの前で涙が流せるとかどーとか、そんなのは演技が巧いかどうかなんていうこと以前の話。
『パイレーツ・オブ・カリビアン』で世界的に有名になったキーラ・ナイトレイは美人女優だけど、この映画での彼女はやつれて見えて役柄そのまま(アゴが成長しすぎ、と評してる人がいて笑った)。
実際、痩せすぎなので拒食症なのでは?といわれたりしてるけど、本人は否定している。
彼女もまた単なる綺麗どころではなく、友人が好きな人に先に言い寄って付き合ってしまうズルさや痛みをかかえた登場人物を見事に演じきっている。
デヴィッド・クローネンバーグ監督の新作『危険なメソッド』でヴィゴ・モーテンセンやミヒャエル・ファスベンダーと共演しているけど、劇場では観られず。早くDVDにならないかな。
『(500)日のサマー』の監督による新スパイダーマンに主演したアンドリュー・ガーフィールドは、今回はかんしゃく持ちだが気の優しいトミーを演じて『ソーシャル〜』のときとはまた違った魅力を見せている。
さて、映画はこの3人の三角関係を描く。
キャリー・マリガン演じるキャシーは子どものときからトミーに好意をもっていたが、トミーはルースと付き合いはじめる。
キャシーはふたりの恋愛はすぐ終わると思っていたのだが、18歳になりコテージに移ってもトミーとルースは恋人同士のままで、キャシーは感情を心の奥底に沈めたままそんなふたりと行動をともにする。
この映画にはしばしばキャシーのモノローグが流れるが、しかし彼女がなにを考えているのか、本当のところはよくわからない。
どこかすべてをあきらめきったような、なにも期待しないようにしているかのようなつねに憂いを帯びた表情。
さっき「三角関係」と書いたけれど、ここには恋の駆け引きなどないし、そもそもトミーがほんとに好きだったのが誰なのかははじめから明白なので、シーソーゲームのハラハラ感もない。
実際は恋愛模様は主眼ではなく、これは「はじめから自分たちは若くして死んでゆくとわかっていて、それを受け入れていく者たちの物語」なのだ。
彼女たちクローンは、普通の人間たちに臓器を“提供”するために生まれ、育てられてきたのだった。
臓器提供は幾度も繰り返されて、遠からず彼らは命を失うことになる。
だが、どうも彼らの行動が不可解でしかたがないのだ。
この映画では臓器摘出手術で弱っていく彼らの姿がさながら「難病モノ」のように描かれるのだが、しかし彼らは身体を切り刻まれ臓器を抜き取られる以前は健康そのものだったのだし、たとえば『ブレードランナー』の人造人間レプリカントのように寿命が極端に短いというわけでもない。
にもかかわらず、彼らはそのような非人道的な行為をほぼ無抵抗に受け入れる。
これはまるで屠畜される動物のようだが、彼らは“提供”を暴力的に強制されている様子もないし、その行動も特に制限されていない。
なぜ拒否しないのか。なぜ逃げないのか。
なによりまずこの疑問がよぎる。
寄宿学校を出てはじめてダイナーに入ったとき、彼らは自分でメニューを見て注文することもできない。
では彼らは自分の意思がない、すべてに付和雷同的な存在かというと、ルースは自分の「オリジナル」を必死に捜すし、それが果たせず落胆してトミーにあたりさえする。
キャシーはみずからの意思で、死んでゆく仲間たちを見舞う“介護人”になる。
無気力なわけでもなげやりなわけでもなく、死への恐怖はあるし葛藤もする。愛する者が死んでいくことに悲しみも感じているのに、なぜか彼らはレプリカントや『アイランド』のクローンたちのように人間に対して反乱を起こさない。
原作を読んだ人によれば、少年時代のトミーがキャシーにあげた、この映画のタイトルにもなっている「わたしを離さないで」という歌の入ったカセットテープの非常に重要なエピソードが映画ではカットされてしまっているそうで、それはたしかに残念だな、と思う。
そして主人公たちがどうして人間に反抗もせず、逃げもしないのかについて興味深い考察もされている。
つまり、生まれたときから親もなく、自分たちの健康な臓器を他者に分け与えることが彼らの生きている理由であり、彼らの存在意義なのだ、と教え込まれてきたのなら、そしてそれが彼らの唯一のアイデンティティなのであれば、疑問ももてないのではないか。
なぜならそれを拒んだらみずからが存在する意味を失うから。
…といったようなことだろうか。
しかし、なるほどね、とは思ったけれど、やはり納得できたとはいえない。
だってあんなに苦しんでるんだもの。
飼育されている豚や牛が人間に反乱を起こさないのは(僕はブタさんやウシさんの言葉は理解できないので彼らの正確な気持ちはもちろんわかりませんが)、彼らにはおそらく「自分は誰なのか。なんのために生きているのか」という葛藤や死という抽象的な概念への恐れがないからでしょう。
動物たちは飢えとか寒さとか具体的な痛みやストレス、肉体的な危険がなければ苦しまないのだ(孤独死する動物もいるようですが)。
でもクローンたちはそうじゃない。
「なぜ自分たちは他人のために黙って犠牲にならなければならないのか」という疑問が芽生えたり、「死にたくない。生きたい」と思ってそれを実行する者がいたって不思議じゃないでしょうに。
そして、なにより彼らは“もしか”という「希望」をもつのだ。
男の子と女の子が本当に恋をしていると証明できれば、数年の“提供猶予”が与えられていっしょに暮せる、という根拠のない噂を信じて。
それは「心」がある証拠だし、“提供猶予”の噂のことは校長やほかの教師たちだって知っていたのだから、クローンたちがただの肉のかたまりではないことはよくわかっているはず。
といって、ではこの映画は洗脳や抑圧を描こうとしているのかというと、そういうふうにも思えない。
寄宿学校で校長は子どもたちに彼らが「特別な存在」であることを教え、健全な生活をするよう教育するが、それ以上にムリヤリ彼らになにかを強要する描写はない。
しかも18歳になったらコテージに同い年の異性と住めて、車でどこへ行こうと自由。
それだけの自由を享受しながら、それでも従順をつらぬくのはどういうわけか。
どこへ行こうとも、まるで最初から臓器の“提供”もそれによる死もまぬがれないことだと彼らは思っているようだ。
この映画にはクローンではない普通の人間の若者は登場しない。
ダイナーでのほかの客たちの反応からして、この映画の「人類の平均寿命が100歳になった世界」ではクローン以外の若者は存在しないという設定なのかもしれない。
だからどこに逃げても彼らがクローンであることはバレてしまうということなのか。
説明はないのでわかりませんが。
何度もいうように、なぜかクローンたちは「どうして自分たちはこんな目に遭わなければならないのか」という疑問をもたない。
洗脳や抑圧を描くのであれば、かならず疑問をもつ者が現われなければ成り立たないでしょう。
僕が「奇妙」と感じ、それをうまく伝える自信がないのは、このあたりの「なにを描こうとしているのかよくわからない」つかみどころのなさが原因でもある。
この映画について「押井守監督の『スカイ・クロラ』に似ている」と書いていた人もいた。
『スカイ・クロラ』(2008) 声の出演:菊地凛子 加瀬亮 栗山千明 谷原章介
www.youtube.com
以前、ライムスター宇多丸さんがこの『スカイ・クロラ』を「存在しない問題を作り出して悩む映画」と評していてちょっと面白かったんだけど、なんだかこの『わたしを離さないで』にも同じようなことがいえないだろうか、と思った。
困ったことに僕は『スカイ・クロラ』を観てないんで、これまで以上に自分の感想に説得力がなくなってきてますが。
いや、どちらかといえば僕自身は抵抗せずに黙って殺されていく側の人間なんで、手を伸ばせば得られるかもしれないのにそうしないもどかしさ、優柔不断さ、それどころかそういう選択肢があることに気づいてすらいないかもしれない愚かさなどについては、なんとなく理解はできるんだけど。
できるんだけど、やっぱり釈然としないんだよなぁ。
トミーのルースやキャシーに対する優柔不断さは、なにかこの映画のテーマにかさなるところがあるような気もしたけど、これもなにを云わんとしてるのかよくわからない。
トミーは必死に自分には「心」があることをアピールするが、人間たちはクローンに心があろうがなかろうが、そんなことには興味がなかった。
心があってもなくても彼らが臓器の提供者でありつづけることにかわりはなく、愛し合うふたりがそれを証明できても“提供猶予”が与えられることはない。彼らの「希望」は打ち砕かれる。
「自分はなんのために生まれてきて、なぜ生きているのか」
みんながみんなそうとはいわないが、でも人間というのはそういう疑問や悩みをもつ生き物である。
しかし、なぜかその疑問や悩みをもたない者たちが、それでも生を希求しながら死を受け入れていく、そんな「奇妙」な映画でした。
ちなみに予告篇のテロップ“映画史上かつて描かれたことのない<秘密>”というのは嘘八百です。いいかげんにしてほしいですね。
関連記事
『未来を花束にして』
『プロミシング・ヤング・ウーマン』
『エクス・マキナ』
『ブレードランナー 2049』
『コレット』
『アンダー・ザ・シルバーレイク』