映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

もう一つのブログとともに主に映画の感想を書いています。

『月に囚われた男』


ダンカン・ジョーンズ監督、サム・ロックウェル主演の『月に囚われた男』。

2009年作品。日本公開は2010年。

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近未来。サム・ベル(サム・ロックウェル)はエネルギー資源採掘のため月の裏側にある基地にたった独りで3年間勤務しつづけてきた。しかし、あと2週間で契約が満了というある日、採掘場に向かう途中で事故に遭ってしまう。

以下、ネタバレがあるので映画を観てからお読みください。


ミッション:8ミニッツ』(感想はこちら)の監督作品ということで。

原題は“MOON”。
月に囚われた男”という邦題はなかなかイイなと思った。

これはまさに月に囚われつづけてきた男の話。

サムは月面基地で毎日ひとりきりで過ごし、作業する。

話し相手は人工知能のガーティ(声:ケヴィン・スペイシー)のみ。

通信衛星の故障のために誰ともライヴで交信できず、また木星経由で受信される「ルナ産業」(韓国系の会社らしい。会社のロゴにハングル文字が使われている。80年代なら日系企業だったんだろうけど、いまじゃアメリカのパートナーは韓国にとって代わられてる、ということだな)からのメッセージ以外は外部からの情報もない。

過去の妻からのメッセージ映像を観て寂しさをまぎらわすしかない。

娘のイヴもだいぶ成長した。地球に帰るのが待ち遠しい。

ただ、妻からのメッセージ映像が途中で一瞬途切れたり自分の報告用ヴィデオを録画していると急に別の誰かの映像がまぎれ込んだりと、帰還を目前にしてどこか奇妙な現象が起こりはじめる。

基地のなかや移動中の作業車の窓の外に、いるはずのない少女の幻を見たりもする。


そんなときの突然の事故。

基地の一室で目覚めたサムに会社は「救助隊を送る」と告げて、なぜか彼が基地の外に出るのを禁じた。

サムはガーティをだまして採掘場の事故現場に向かう。

壊れた作業車のなかで彼がみつけたのは、負傷した“彼にソックリな男”だった。

主人公のアイデンティティが揺らぐこの展開は、どこか『ミッション~』を思わせる。


ダンカン・ジョーンズはまだ長篇を2本しか撮っていないけど、この2本から彼の作品の傾向がうかがえて僕はとても興味をそそられる。

大スター、デヴィッド・ボウイの実の息子でありながら、それを極力表には出さずに(監督紹介では書かれまくってるが)映画監督の仕事をつづけてきたダンカン・ジョーンズ

アイデンティティをめぐる問題につねにさいなまれる主人公に、そんな監督自身の心情がかさねられているのでは、と考えるのは穿ちすぎだろうか。


作業車で負傷していた男も、彼を助けた男も、サム・ベルでありながらそうではなかった。

つまり、ふたりは本物のサムのクローンとして作られたのだった。

本物は地球で家族と暮らしている。

彼らクローンの記憶はすべてオリジナルから移植され編集されたもの。

彼らは3年経つと処分され、おなじ顔をして基本的な記憶だけを移植された別のクローンに交換されていたのだった。


この映画が描いている物語は、フィリップ・K・ディックの世界によく似ている。

ブレードランナー』(感想はこちら)、そしてゲイリー・シニーズが主演した『クローン』など。

クローン』(2001) 監督:ゲイリー・フレダー 出演:マデリーン・ストウ ヴィンセント・ドノフリオ
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この作品は、まずなによりも主演のサム・ロックウェルの演技に尽きるだろう。

僕はこれまで『チャーリーズ・エンジェル』や『ギャラクシー・クエスト』『アイアンマン2』など、味のある脇役でしか彼を見たことがなかったので、はじめて主演作品を観てあらためてその演技力に感心した(…と書いたあとで、彼が主演した2002年のジョージ・クルーニー監督デビュー作『コンフェッション』をすでに観てたことを思い出した。失礼)。

この映画はほとんど彼の一人芝居で成り立っている。

はじまって30分ほどでサムはもうひとりのサムに遭遇して、それから映画が終わるまでの1時間ちょっとは、観客はロックウェルの見事な一人二役を観つづけることになる。



自分がじつはほかの人間のコピーだったことを知ってしまった男の悲劇。

これはなにを語っている映画なのだろうか。

「自分」という存在の不確かさを描いたもの。あるいは人間を物のようにあつかう企業や社会の非人間的な行為への批判。

さまざまな受け取り方が可能だ。

では僕はどう感じたか。

会社、あるいは社会が自分をだましている。

なにかそういう考えに囚われてしまったら危険信号である。

これはそんな病んだ心の持ち主を描いた話なんではないか。


押井守監督のアニメーション映画『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』で、自分には家族がいるという記憶を植え付けられた独身男性のエピソードがあったのを思い出した。

彼がいつもながめていた家族の写真には、本当は一匹の飼い犬だけが写っていたのだった。


これはもちろん進歩しすぎた科学技術に対する警鐘などではなくて、「人の心」についての物語だ。

月でエネルギー資源を掘り出すために無数のクローンを作って彼らをだまして働かせつづける企業。

そんなもんロボットにでもやらせた方がはるかに効率的でリスクも少ないはずだ。

月でたったひとりで作業させていたら、事故の危険だって当然あるだろう。

そのたびに救助隊を派遣するのか?

事故に遭って目覚めたあとにサムがトイレに行くと、彼が以前、壁に日数のチェック用にマジックペンで書き込んでいた「ニコちゃんマーク」が消えている。

次に目覚めたクローンは基地に来てまだそれほど時間が経っていないということになっているので、マークが残っていたらおかしいからだ。

妻からの映像メッセージでも、幼い娘の誕生日に触れた箇所がカットされていた。

壁のマークはいったい誰が消したのか。

しかもマークを消しておいて(でもよく見ると壁にニコちゃんマークの跡がうっすらと残っている)、それを書いたマジックペンは無造作にトイレの床に放置したまま。

また、クローンたちを監視するには人工知能のガーティはあまりにも人間的過ぎて、クローンを完全に管理したいはずの企業にしてみればまったく信頼できない。

サムにだまされて(だまされたフリをしたのかもしれないが)あっさり彼を外出させるし、ふたりのサムに基地の内外で好き放題させている。

管理になっていない。

クローンたちに「自分たちは本物ではない、と気づいてくれ」といっているようなものだ。

もっとも、この一連の出来事をすべて「ガーティが仕組んだこと」と考えると、別の観方もできるのだが。

サムが見ていた妻の映像はどうやって作ったのか。

クローンをだますために彼女は演技していたのか?

サムの妻は実際には数年前に死んでいて、娘は15歳になっている。

彼女は父親である“本物のサム・ベル”と暮らしている。

このことはハッキリと描かれているので物語上の事実だ。

つまり、クローンたちは10年ぐらいのあいだ、当人たちはそうとは知らずに何代にもわたって月で働いていたことになる。

3年経ったら地球の家族のもとに帰れると信じて。

見たことも実際に会ったこともないはずの15歳の娘の幻を、なぜクローンのサムが見たのかはわからない。

意図的に細工しているのか、それとも技術的な問題によってなのかは不明だが、クローンたちは目覚めてから3年近く経つと身体に変調をきたして血を流したり髪や歯が抜けたり、まるで放射線障害のような症状が出てくる。

処分されなくても遠からず死ぬのだろう。

地球に向かったもうひとりのサムも長くは生きられまい。

勝手に死んでくれるなら、わざわざ「3日で地球に着く」などとだましてカプセルに入れて殺さなくたっていいはずだ。

よくよく考えてみるまでもなく、穴がありすぎるのだ。


だから、これは『ミッション~』がそうだったように、ミステリの手法で別の事柄を描いた映画なのだと僕は思った。

この映画のラストでは、生き延びたクローンの暴露によって陰謀は暴かれて、すべてが解決する。

それはそれで救いがある終わり方だが、ただ僕はちょっと肩すかしを食らったような気分になった。

ダンカン・ジョーンズ監督が描く題材はどう考えても「ハッピーエンド」にはならないはずなのだ。

気が滅入るようなバッドエンドにすべきだった、というわけじゃないけれど、『ミッション:8ミニッツ』のエンディングに納得がいかなかったように、僕はこの一見「ハッピーエンド」なエンディングをちょっと「残念だなぁ」と感じてしまった。

後半の20~30分は、すべてが予想どおりの展開をたどる。

けれども、主人公(だったはずの)男はひとり死を待ちながら月に残り、次に目覚めたもうひとりはなんとか脱出して地球に向かう。

どうも腑に落ちないんである。

昔から自分の“ドッペルゲンガー(分身)”を見てしまった者にはしばしば不幸な結末が待っているものだ。


先ほど書いたように、「自分はだまされているのでは?」と思い込んだ人間の病理を描いた方がより身につまされただろうと思う。

たとえば、地球で愛娘と幸せに暮らしているはずの“本物のサム”もまた、本当に“本物”なのだろうか?

そういう“無限ループ”の恐怖にまで至ってこそ、フィリップ・K・ディックの域まで達せられるのではないだろうか。

まぁ、これは「そんなのただのお前の好みだろう」といわれればそれまでなんですが。


面白かったし、実際のところ『ミッション~』よりは「残念」な気持ちはしませんでした。

それはやはりサム・ロックウェルの頑張りによるところが大きい。

一人芝居でここまで見せてくれたらひとまず満足、とも思う。

ともかく、ダンカン・ジョーンズ監督は僕にとって気になる映画監督になったのはたしかです。

いずれ彼の紡ぐ物語が「恐怖」と「甘美」をあわせ持ったとき、僕は本気でその作品に酔いしれることができるだろう。


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