映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

※2019年の“はてなダイアリー”終了に伴い、2018年9月にブログを移行しました。

『おとなのけんか』


ロマン・ポランスキー監督、ジョディ・フォスターケイト・ウィンスレットクリストフ・ヴァルツジョン・C・ライリー出演の『おとなのけんか』。2011年作品。日本公開2012年。

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ブルックリンの公園で、11歳のザカリーは同い年のイーサンを棒で殴ってケガをさせる。イーサンの両親ペネロペ(ジョディ・フォスター)とマイケル(ジョン・C・ライリー)は、ザカリーの両親ナンシー(ケイト・ウィンスレット)とアラン(クリストフ・ヴァルツ)を家に招く。はじめはおだやかだった話し合いは、やがて親たちの本音のぶつかり合いに発展していく。


すでに観た人たちには評判がいいようだし、ポランスキーがコメディを撮ったというのも新鮮な感じで興味はあったんだけど、劇場公開時に観られなかった。

この映画はまず、食事しながら観ないこと。その理由は観ればわかる。

以下、ネタバレあり。


原題の“Carnage(カーネイジ)”とは「虐殺」のこと。

もしくは「修羅場」。

スパイダーマン」にもまんま“カーネイジ”という名の強敵がいるけど、つまりそういう物々しい単語。

この「虐殺」というのは、劇中でジョディ・フォスター演じるペネロペが共著で出した本に書かれたアフリカの虐殺のことであり、「修羅場」というのはいうまでもなく2組の夫婦のいさかいのことである。

そして、それはザカリーのイーサンへの暴力と掛けられてもいる。

ちょっとした皮肉めいたタイトルになっているわけだ。

これは「子どものケンカ」が発端となっておこる、親同士のちょっとしたイザコザを描いた喜劇である。

しかし、前半ではそれこそ被害者の親と加害者の親のスリリングなやりとりがみられるものの、やがて話題が横滑りしていって「子どもたちのケンカ」そっちのけで夫婦間の問題について、あるいは自己愛や世間体などについての本音のぶちまけ合いになっていく。

つまり、これは子どものケンカについての映画ではなく、ましてや現在日本中で問題化しているイジメなどとはまったく関係がないお話。

79分というタイトな上映時間、登場人物は上記の4人だけ。

舞台となるのはイーサンの家のなか。

当事者である子どもたちは冒頭とエンドロールにロングショットで登場するだけで、本篇にはからまない。

「子どもが前歯2本を折るケガ」なんてアメリカじゃ即訴訟だと思ってたけど、なかにはこうやっておだやかに話し合いをする人たちもいるんですね。

で、最初は被害者のイーサンの親であるペネロペとマイケルはつとめて紳士的に加害者の両親に接するのだが、ここでクリストフ・ヴァルツ演じる加害者の父親アランのいけ好かなさがじわじわとペネロペたち、および観客の神経を逆なでしはじめる。

会話の途中でしょっちゅう携帯電話で話し、加害者の親として当然見せるべき誠意に欠けた言動をくりかえす。

彼のせいで、いったんは丸くおさまりそうだった話がこじれることに。

また、そんな夫をたしなめる一見常識的な態度のナンシー(ケイト・ウィンスレット)だが、彼女もまたマイケルたちに感謝の言葉はいいこそすれ、けっして謝罪の言葉は口にしない。

なぜなら、のちに彼女自身が語るように、ナンシーはこの一件で自分たちの息子が一方的に悪いとは思っていないから。

息子が暴力をふるったのは悪いが、それはイーサンが彼を仲間はずれにしたからだというのだ。

こういう理屈はよく聞く。

僕が小学生だったときも、担任から「ときには肉体的な暴力よりも“言葉の暴力”の方が罪が深いことがある」といわれたことがある。

これはようするに「言葉でも人は傷つくのだから、むやみに人を傷つけることをいうべきではない」ということがいいたかったんだろうけど、僕は正直「先生、一度でもボコられたことあんの?」と思ったのだった。

こっちは前歯を折られて相手は無傷なのに「ケンカ両成敗」なんてことあるのか?と。

両者がともに身体に傷を負ったというならわかるけど。

でもこういう考え方はすくなくとも僕が学生だった頃まではけっこうまかり通っていて、だから子ども同士のケンカに親がしゃしゃり出るのはみっともない、と考えられていた。

そういうのを「子どものケンカに親が出る」といったのだ。

現在ではむしろちょっとしたことにも親がガンガンしゃしゃり出てきて、相手の親や教師、学校相手に息巻くこともめずらしくないので(って結婚してないからよく知りませんが)、隔世の感がある。


個人的には、殴り合ってケガをすることも子どもには必要だと思う(程度にもよるが)。

そうでないと、逆に殴られる側の痛みがわからないから。

ただ、いまの日本は「殴り合って仲良くなる」なんていう牧歌的な世界とはくらべものにならないほど深刻な状態なわけで、マイケルやアランが笑いながら懐古している「ガキ大将と子分たち」ののどかな風景は時代とズレまくっている。

ペネロペが息子が痛み止めの薬を飲みながら眠っていることを憤りとともに語るのは当然だ。

ほんとかどうか知らないが、アメリカ人というのは仮に自分たちが悪くてもぜったいに非を認めない、とはよく聞く。

非を認めたらとことん責任を取らされるからだ。

日本人がよくやるように土下座して泣いて謝ったって、相手は許してくれない。

そういう事情もあるのかもしれないが、とにかく「謝らない」ナンシーとアランに、次第にイライラがつのっていったのだった。


前半はこんな感じで、どうしたって被害者の両親に分があり、これがその後どう転がっていくのか気になった。

しかし、やがて話の論点が微妙にズレはじめる。

両者が話しあううちに「それ、この一件と関係ないだろ」という話題がどんどん出てきて、いつしか2組の夫婦のあいだのさまざまな問題があらわになっていく。

そして中盤にナンシーが粗相をする場面(大笑いしてしまいました)から、両者の会話は徹底的に迷走していく。

どうやら彼らがほんとに語りあっているのは「欺瞞(ぎまん)」についてらしい。

アメリカから遠く離れたアフリカでの虐殺について熱く語るペネロペにむかって、アランは彼女の欺瞞性を突く。

むきになって反論するペネロペ。

かと思えば、夫のマイケルの日和見的な態度に噛みつく。


そうこうするうちに、夫同士はスコッチ片手に妙に意気投合しはじめて妻たちとのあいだが険悪になってきたり。

最初はただただ礼儀知らずな男に見えた(事実、無礼なのだが)アランが憎めない男に見えてくる一方で、一番マトモに思えたペネロペは次第にいってることが支離滅裂になっていく。

こういう混乱というのはさまざまな夫婦たちのあいだであることなのかどうか知らないが、観ている僕はだんだん彼らがいまなにを問題にしているのかさえわからなくなっていったのだった。


これはとてもリアルなコメディなのかもしれないし、ちょっとウディ・アレンの映画のような雰囲気も感じる。

ウディ・アレンもまた、一見おだやかで大人な態度の人々が裏に隠している欺瞞性を皮肉った作品をいくつも撮っているので。

ただねぇ…正直なところ僕にはこの映画の面白さがよくわからなかった。

ジョディ・フォスターが泣きだすとこなんかも、いったい彼女がなにを泣いてるのかもわかんなくなってきて。

ペネロペは本を書き、芸術に興味がある。

しかし夫のマイケルは平凡な男で、どうやら彼女はそんな夫に不満が溜まっているらしい。

あるいはすぐに「〜すべき」といって正論を振りかざす彼女をまわりが責めるので、そのことに憤慨して涙を流したのだろう。

同様に、片時もケータイを手放さず家庭のことには無関心の夫にうんざりしているナンシー。

そのナンシーが夫の大切にしているものをダメにしてしまう場面は痛快ではあるが、だったらもっと前にやっとけよ、とも思った。


そういった夫に対する妻の不満、そして夫たちからの反論が飛び交い、そういうのが「わかるわかる」という人もいるかもしれないし、だからこそ彼らの迷走ぶりに笑えもするんだろうけど、こういっちゃなんだが、夫が退屈だとか妻がめんどくさいとか、この映画で4人の登場人物たちがボヤいたりわめいたりしてることなんて、独り身の僕からすればぜんぶ贅沢な悩みだ。

だいたい親しい友人でもない他人の前で自分の連れ合いを罵れる神経というのが僕にはわからない。

具合悪そうな女性をトイレに連れていくこともなく、彼女がゲ○吐いても介抱ひとつしないとか。背中ぐらいさすってやれよ。

マイケルがナンシーとアランにふるまう母親直伝の“コブラー”というのは果物が入った焼き菓子のことだそうだけど、この映画のおかげでこれからもいっさい食う気がしなくなった。

それより子どものケンカの件はどうなったんだよ。

なんだか話がまるで関係ない方向に向かっていくので、ちょっと唖然としてしまった。

そして映画の本篇が終わると、エンドロールで親たちのケンカをよそに公園で仲良く遊んでいるイーサンとザカリーが映しだされる。

人を食ったようなオチ、というわけですな。


「家族の欺瞞」についての作品、というのはアメリカ映画にはしばしばみられる。

でも僕にはどれもいまひとつピンとこないのだ。

本音を隠して大人としてふるまえる、というのは立派なことで(それができないから僕のような人間はいつも苦労している)、誰だって本音と建前を使い分けている。

本音しかいわない奴は幼児とおなじだし、建前だけではいつか爆発する。

だから適度にガス抜きしてるんでしょ?みんな。

この映画では、そのきっかけがたまたま子ども同士のケンカだった、ってことだ。

それ以上のなにかが描かれているようには思えない。

伴侶が極端に問題のある人間だったり、因習にしばられてなにひとつ自分の意見を述べられないというような環境ならともかく、妻や夫がたがいに自由に語りあえるような家庭なら、子どものケンカをダシに使わなくてもふだんからそうすればいいじゃん。


この映画の面白さがわからなすぎてくやしいので、1回目は字幕版で観たのを2回目には日本語吹替版で観てみたけど、感想はさして変わらず。


顔がどんどんヤバくなっていくジョディ・フォスターとか、『イングロリアス・バスターズ』でもみせていた最高にムカつく演技を披露してくれるクリストフ・ヴァルツ、いい感じに年齢をかさねて若い頃よりもむしろ現在のように母親役の方が説得力があるケイト・ウィンスレット、そしていつもは知的レヴェルが小中学生並みのキャラクターを演じて爆笑させてくれるジョン・C・ライリーも、リベラルなふりして馬脚をあらわす凡人の夫を好演している。

だからさくっと観られたんですが、それでもやっぱり腑に落ちなかったんだよな。

子どもたちのケンカ自体は「どうでもいいこと」にされてることが。


最近イジメ問題の報道をよく目にするけど、殴られたら自殺しちゃうとか仕返しにいきなりナイフで刺しちゃうとか、そういう殺伐とした現実の世界のかずかずの事件が頭に浮かんで、「前歯2本折られた」というのがたわいないただの子どものケンカには思えなくて。

冒頭での、引き画でザカリーが棒でイーサンを殴る光景が目に焼きついて離れない(どう見たってあれは「故意」だろう)。

子どものケンカを単なるストーリーのきっかけに使うだけなら、せいぜい「頭にたんこぶ作った」程度でよかったのでは?

前歯2本イッたらじゅうぶん傷害だよ。

アランは「耳をうしなうよりマシだろ」とかいってるけど、そういう問題か?

大人がもし相手にいわれたことが気に食わなくて殴って前歯2本ぶち折ったら、普通に捕まるでしょ。

映画のなかでは、歯の神経は死んでない…かも、みたいなこといってるが、それがどうした。

悪びれもせずに「まだ11歳だから自分がやったことの重大さがわかってない」って、そんな言い訳があるか?

いってることが非常識すぎて耳をうたがうんだが。

ペネロペたちはこんな奴とダラダラいい合ってないで、さっさと訴えりゃいいだろう。


いちいちこまかいことにこだわって申し訳ないですが、僕は昔、同級生とケンカして前歯折られたことがあって(けっきょく治療費はすべて自腹)、相手のことはいまだに「殺したいリスト」の上位にある。

自分の前歯折った奴といつのまにか仲直りしてるなんて、僕の常識のなかではありえんのだ。

そんな冴えない経験のせいもあってか、本来いい大人たちが部屋のなかで不毛な言い争いを延々くりひろげるさまを笑うはずのこの映画を、じゅうぶんに楽しむことができませんでした。

子どもたちに自分たちのエゴイズムや欲求不満を仮託していがみあう親たちの話を想像してたのに(モンスターペアレンツの問題ってそういうことだと思うし)、残念ながらそういうんではなかったのが不満で。

この作品は舞台劇が原作で、映画同様とても評判がいいらしい。

でも、僕にはその良さが理解できませんでした。


「堅っ苦しくてつまらん感想だなぁ、コメディなのに」と思われるかもしれないが、僕だってこれがお気楽なドタバタ・コメディならば、ガキんちょの前歯が何本飛ぼうがかみさんがどんなに豪快にゲロ吐こうが笑って観てられるけど、これは現実におこりうる話なわけでしょ?

さっき「リアル」って書いたけど、ジョディ・フォスターの壊れ方はあまりに無理矢理すぎるし、自分の息子のことは棚に上げてやたらハムスターにこだわるケイト・ウィンスレットとか、夫や妻たちが男女に分かれて連立組んでたと思ったらその直後に分裂するなど、可笑しいというよりすっごく不自然だったんだけど。

これを「巧い脚本」という人がいるけど、そうかなぁ。

このシチュエーションなら、特に日本人である僕らにはいまもっともっと身につまされる、我が子を盾に「自己愛」を放出する大人たちの空恐ろしい喜劇を描けるんではないだろうかと思うのです。

しかしなんだかんだいって、「大人のケンカ」がわからない僕が一番「子ども」ってことなのかもしれないが。


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