映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

もう一つのブログとともに主に映画の感想を書いています。

『その街のこども 劇場版』


監督:井上剛、出演:森山未來佐藤江梨子の『その街のこども 劇場版』。
2011年作品。

www.youtube.com

2010年1月16日。東京で建設会社に勤める勇治(森山未來)は、出張で職場の先輩(津田寛治)と新幹線で広島に向かう途中におもわず新神戸駅で降りてしまい、おなじ車両に乗っていた美夏(佐藤江梨子)と行動をともにすることになる。彼らはふたりとも1995年の阪神淡路大震災を経験して、それぞれ10数年ぶりに神戸をおとずれたのだった。


もともとNHKで2010年に放映されたTVドラマだったのが、反響が大きかったので再編集して劇場で公開したということですが。

TVドラマの再編集版を「映画」と称していいものかどうかはなんともいいがたいけど(撮影もヴィデオだし)、「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」のなかの「ザ・シネマハスラー」でとりあげられていて宇多丸師匠の評価も高かったし、薦めてくれた人もいたので興味をもっていました。

ただレンタル屋さんでDVDをさがしても見当たらず、ずっと観られずにいた。

それが先日店内を物色してたら(なんか泥棒みたいだな)みつけたので借りてきました。

「ザ・シネマハスラー」での解説から、これが95年の阪神淡路大震災をあつかった映画であることは知っていた。

偶然ではあるんだけれど、昨年の3.11を経たこの時期にそういう作品を観るというのも、それ以前に観るのとはなにか違う感覚をおぼえるのではないか、という思いはした。

作品自体は東日本大震災よりも以前に作られたのだけれど。

以下、ネタバレあり。


正直なところ、はじまってから最後までずっとつづく森山未來演じる勇治とサトエリ演じる美夏のセミ・ドキュメンタリー風演出になじめず、関西弁っぽいしゃべり方のサトエリが延々と自分のことを話すくだりとか早送りしたいぐらいの苛立ちをおぼえたのだった。

こういうの苦手だ…。

わずか83分の作品なのに途中で何度も中断して、観終わるのにものすごく時間がかかってしまった。

この会ったばかりのふたりの「逆ナン」がどーとかいう退屈な会話からはじまり震災の体験談をたがいに語り合うひとときがとても貴重な時間である、といいたげなのはわかるのだが。

しかし早いとこ話を先に進めろよ、と。

森山未來佐藤江梨子が、商店街や住宅地など、ひたすら神戸の街を歩きつづける。

観ているうちに、ストーリーがどうこうという作品ではないことはわかったけど。


サトエリがしゃべる関西弁を、僕はちょっとビミョーに感じてしまって。

彼女はじっさいに中学生の頃に神戸に住んでたそうだから、ああいうしゃべり方してたのかもしれないけど。

この映画の森山未來佐藤江梨子の会話を「リアル」と評してる人がけっこういらっしゃるみたいだけど、僕はそうは思いませんでした。

いや、方言が正確かどうかとかいうことだけではなく。

登場人物が台詞っぽくない一見アドリブのような口調で(役者が台詞を噛んだりキャメラの影が映り込んでいるショットをあえて使っている)会話のリズムもなにもないままダラダラしゃべってるのをそのまま撮ったらそれが「リアル」に見えるかといえば、かならずしもそういうことではないんじゃないかと。

僕はこういう手法を「エセ・リアリズム描写」だと思っている。

だからじっさいの被災者である俳優が出演していて、ところどころドキュメンタリーっぽい手法も使ってはいるけどあきらかにドキュメンタリーではない、なんとも気持ちの悪いドラマでした。

無音の場面がけっこうあったりして、これをもし劇場で観てたらキツかったな、と思った。


そんなわけで、冒頭からはやくも「これは観つづけるのけっこう苦痛かもしれん」と感じながら観ていた。

言葉もそうだけど、もうこの作品の演出方法や人物造形が僕は好みじゃなかったとしかいえない。

とにかくこのヒロインは、やたらと自分のことを語りたがるのだ。

そしてこれみよがしに震災の話題を出す。

大切な存在をうしなったり癒えようのない傷を負った人々が大勢いる一方で、あれから15年経って神戸も復興し、当たり前だが誰もがつねに震災のことだけを考えて生きているわけではない。

神戸に行ったから震災の話、というのもなんだかとってつけたようで、勇治と美夏の出会いもいっしょに行動することになる経緯も不自然に感じられて、なんか険悪なムードになってたと思ったら次の瞬間には相手に媚びるような話し方をする、と思ったらまた不機嫌に…と、情緒不安定なのか?というぐらいコロコロと態度が変わるこの美夏という女性になかなか好感がもてなかった。

美夏には翌朝行かなければならない場所があって、その理由を勇治に話しかけていいよどむなど、ほんと観てて「めんどくさっ」と思わずにはいられなかった。

それは大変失礼な言い草だけど、このキャラクターを演じている佐藤江梨子という女優がもつ「めんどくさそうな女」というイメージによるところも大きいかもしれない。

なにしろ先日、彼女がもはやサイコとしかいいようのないヒロインを演じていた『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(感想はこちら)を観たばかりなので。

居酒屋でしきりに震災の話を振ってくる美夏に対して、勇治は冷ややかな態度で「地震とか神戸とか、思い入れないっちゃないんかもしれないですね。それに俺、むしろ神戸嫌いですもん」と答える。

もちろん、その言葉にはさまざまな想いがこもっている。

15年間、彼が故郷に帰らなかったのにも理由がある。

手持ちでフラフラしたキャメラワークにイラつかされながら観ていると、「焼き芋を一個1000円で売っていた店」の話から、勇治の事情がじょじょにあきらかになっていく。

美夏は勇治の他人を見下すような言葉に不快感をもよおして、金を置いて席を立つ。

これらは現実に震災を経験した俳優ふたりが演じているだけに、なんともいえない居心地の悪さがあった。

僕のような部外者が知ったようなこといえない雰囲気というか(じゅうぶんいってますが)。

とりあえずサトエリのバストサイズは90、お尻は91なのか~。ほっほぉ~。…ってウソなのかよっ。


けっきょく、おなじコインロッカーに荷物を入れていたためにまた美夏と顔を合わせることになった勇治は、ホテル代もタクシー代もない美夏につきあって(だったらさっきの飲み代をおごってやれよ、と思うが)彼女の祖母が住む御影までいっしょに夜道を歩くことになる。

チャリンコをパクろうとしたり、たこ焼き屋に立ち寄ったり、そのあいだにたがいのことについての会話が交わされる。

美夏はいまでも貨物列車の轟音にもおびえる。

そして被災後東京に移り住み、やがて父親とおなじように建築関係の会社に就職した勇治は、震災を商売に利用しているだけで耐震設計には無頓着な職場の先輩の姿を日々目にしてきた。

あの震災はこの作品のなかで何度も「百年に一度の大地震」と強調されているが、そのわずか16年後の2011年、この映画が公開された2ヵ月後に、それを上回るマグニチュード9.0の地震が日本を襲ったことを知っている身としては、あの建築会社の社員の責任感も緊張感のカケラもない発言にはおおいに震撼させられる。

映画が開始して30分ほど経っていいかげんしんどくなりかけてきたあたりで、ようやくストーリーが動きだしたのだった。


父親のせいで故郷にいられなくなったことをいまも怒りとともに思いだす勇治。

勇治が自分を「はみご(仲間はずれ)」にした同級生や先生たちをうらみ、彼らを「ひがんでいる」と見下すように語っていたのは、彼のなかにずっとやましさがあったからだ。

地震をきっかけに仲がこじれてしまった友人の家にベビーカーが置いてあるのを見た勇治は、なんともいえない苛立ちの表情を見せて、これまで溜め込んできたものを美夏の前で吐き出す。

ひがんでいるのは彼の方だった。

そして美夏は震災で亡くなった親友の鎮魂のために、翌朝の1月17日に追悼集会がおこなわれる東遊園地を目指していた。

地震はほんまにわかれへん」という美夏の言葉は、いまだからこそ胸に突き刺さる。

自分なんかよりもよっぽどいい子だったあの子がなぜ死んでしまったのか。

彼女はあれからずっと心のなかで自問自答してきたのだろう。

あれほど「めんどくさそうな女」に思えたサトエリ=美夏が、いつしか共感できる人物に感じられてきた。


ドラマを描くのではなく、台詞に頼りすぎなきらいはたしかにある。

ふたりが延々ディスカッションをしながら歩きつづけるのにつきあっているとさすがに疲れてきて、「とっとと目的地に着けよ」と思ったりもした。

特に最初に気になったように、美夏のパートはほぼ彼女の台詞によってのみ語られている。

震災当時の様子を役者のお芝居で再現するのは逆に現実に起こった惨禍を矮小化してしまう危険もあって、だからこそあえて言葉だけで語らせているのだろうけれど。

だからこれは、美夏の言葉によって観る者がその状況を想像し、痛みと悲しみをともにする物語なのだ。

それは現実に被災者の体験を聞いているような錯覚をおぼえさせもする。

この作品はNHK大阪放送局によって制作されて、神戸在住の人々、じっさいに被災した人たちも多くかかわっているし、またこの作品を必要とする人々がいたからこそ劇場で公開もされたのだろう。

神戸に住んでいても幼かったために震災当時のことをおぼえていなかったり、震災後に生まれて震災自体を経験していない子どもたちもすでに大勢いる。

だからこそ、あの記憶を風化させないために被災した多くの人々がみずからの体験を語り継ごうとしている。

それは単なる過去に起こった出来事ではないのだから。

そして、昨年の東日本大震災もまたいずれそうなっていくのだ。

それは語り継がれるべき教訓であると同時に、もはや自然災害のおそろしさといったものを越えた、ときに人々のうえにふりかかる理不尽としかいいようがない多くの苦しみについて考えることでもある。

どうしても「映画」としての体裁が自分の好みに合わないこともあって批判的な感想になってしまったけれど、でもこの映画は、いまだからこそより多くの人たちに観られる意義がある作品だと思いました。


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