中島哲也監督、深田恭子、土屋アンナ、宮迫博之、樹木希林、岡田義徳、篠原涼子、荒川良々、阿部サダヲ、小池栄子、矢沢心、まちゃまちゃ、真木よう子、生瀬勝久、本田博太郎ほか出演の『下妻物語』。2004年作品。
原作は嶽本野ばらの同名小説。
公開から20周年を記念して初のデジタル上映が7月に東京であって、好評につき他の地域でも10/18(金) から公開されることに。
僕が住んでるところではわずか1週間の上映だったようで、すでに終わってしまっていますが、なんとか鑑賞してきました。
以前、感想を書いているので、今回は20年ぶりに劇場で観た、ということの記録として記事に残しておきます。
作品についての説明やこの映画との出会いとか初公開時の想い出、この作品への個人的な思い入れなどは↑の感想で書いたので省きまして、今回、ほんとに久しぶりに観て(以前のBSでの視聴からもすでに10年以上経っている)感じたことなどを綴っていきますね。
その後、中島監督による別の作品での主演女優さんへのパワハラが被害者本人からの告白で明らかになったりしていて、だからそれを擁護するつもりは一切ありませんが、どうしてもこの作品は自分にとって大切な1本なので、20年ぶりでのスクリーンでの再会は嬉しかった。
僕はロリータファッションともヤンキー文化とも下妻市とも無縁の一介のおっさんですが(もちろん20年前はもっと若かったわけだが)、それでも好きなんですよね、この映画が。
過度にデフォルメされた演出やマンガのような展開は観る人によっては好みが激しく分かれるかもしれませんが、熱烈なファンも存在するし、こうやって20年後にリヴァイヴァル公開されてお客さんたちがいっぱい詰めかけていることからもその人気の高さがうかがえる。
偶然ながら、今放送中の朝ドラ「おむすび」の舞台は2004年から始まっていて、それはこの映画の公開年なんですよね。
ギャルとロリータが共存していた(?)時代。それにしても、20年というのはスゴくないですか?そこそこいい年数ですからね。だって、2004年の20年前は1984年ですよ!^_^; あたいまだ小学生だったよ。
ちなみに、2004年って岩井俊二監督、鈴木杏、蒼井優出演の『花とアリス』も長篇版が劇場公開されています。あちらもシスターフッドを描いた物語でしたが、おじさん監督たちが撮った少女たちのシスターフッド物が、出演者である女優さんたちのおかげで女性たちからも支持される名作として今も愛され続けている。
それから、「おむすび」の主人公の姉“アユ”役の仲里依紗さんが声を担当したアニメ版『時をかける少女』の公開は2年後の2006年。それも公開当時に観たなぁ(あ、また想い出語りを始めてしまった)。
「おむすび」でもよく映し出される当時のガラケーもそうだし、『花とアリス』で主人公が使うパソコンも、なんかファンシーでオモチャっぽくて可愛いんだよね。どちらのアイテムも『下妻物語』にも出てくる。20年前なんてついこないだ、などと言ってみても、それでもやはりバカにできない時間なんだよな。当時生まれた人たちが今、成人してるわけだし。
そう考えると、深キョンもアンナ姐さんも、それからこの映画の出演者の多くは今でも芸能界で頑張ってらっしゃるし、阿部サダヲや荒川良々の芸風…じゃなくて演技スタイルがあの頃からまったく変わっていないのも面白い。
劇中で「神様って、いてはんねんなぁ。悪いことしてる人間にはキッチリ罰与えてくれはんねん。桃子……あきらめたらアカン。真面目に生きてたら、きっとええことあるからなぁ~」って言ってたあのおっさんは闇営業で表舞台から姿を消してしまいましたが。
あえて名前出しますが、宮迫さんは当時、やはり僕が好きな映画『岸和田少年愚連隊』や西川美和監督の『蛇イチゴ』、それから仲里依紗さんと親子を演じた『純喫茶磯辺』(感想はこちら)、僕もエキストラで参加して阿部サダヲさんや子役時代の神木隆之介さんを撮影現場で見た『妖怪大戦争』(2005年版) など俳優として活躍していたし、お笑いの世界でもユニークな存在として僕はわりと好きな人だったから、ああいうことをしでかしたのはほんとに残念です。
この映画の上映前に12月に公開される『はたらく細胞』の予告をやってましたが、阿部サダヲさんと深田恭子さんが出演していて(仲里依紗さんも出てるし、劇中で松本若菜さんがロリータっぽい服を着ている)、20年後の彼らの姿に時を超えた不思議な感覚を覚えたのだった。もちろん、お二人とも20年分年齢を重ねてらっしゃるんだけれども、『はたらく細胞』でも深田さんはピンク色のドレスを着ていて、『下妻物語』で主人公の桃子が「美しいもの」を愛でていたように、彼女自身がほんとに美しいままで生きている!と。
さて、「マンガのような」と表現したように(原作小説は読んでいないから、あくまでも映画についてだけ述べますが)女子高校生の生活を写実的に描いた作品ではないので、ありえないような展開のオンパレードな物語ではあるのだけれど、それでもロリータファッション好きのロココ少女とバイク好きのレディース女子、という主流からは外れた属性のふたりが、互いに趣味も価値観もまったく異なりながらもどこかで繋がれてやがて“ダチ”になっていく姿は、普遍性をもって観る者の目には映ると思うんですよね。
人は独りで生まれて独りで死んでいくの、と言っていた桃子が初めて自分から「会いたいよ」と電話したイチゴは「いいぜ、どこでも行ってやるぜ」と言って駆けつけるし、そのイチゴのピンチには桃子は原チャリをトバして助太刀に向かう。
この映画は、そういう友情が育まれていく過程をちゃんとエピソードを積み重ねることで意外と丁寧に描いているんですよね。
だからこそ、この先さらに10年、20年経っても古くなることもなく(最初から写実的なリアリズムを無視してぶっとんでたから)愛されていくんだろうと思います。
桃子はロリータファッションに身を包んだまま老いて死んでいく自分の姿を想像するんだけど、俺はこの映画を観ながら死んでいく自分を想像するよ。
今はまだ認めないけど、20年後には確実に僕はおじいちゃんになってるもんな。
まぁ、最初からデフォルメされまくってる見た目も“キャラ”っぽい登場人物たちが織りなす狂騒劇なので、内容についていちいちモノ申してもしかたがないとは思いますが、たとえば、桃子が「家が貧しくてご飯が食べられない子」や「難病で余命いくばくもない子」などのウソで父親からまんまとお金をせしめる場面があるけど、貧困が限りなく可視化された現在、そして現実に難病で苦しむ人がいることを意識せざるを得ない今、該当シーンは全然笑えもせず(別にあの当時だって笑えたわけではないが)、桃子には「根性ねじ曲がってまーす」どころではない非常識さを感じずにはいられないし、刺しゅうしてもらうためのお金が必要なイチゴに対して「ソープで働かないと」などという言葉をカジュアルに口にするとこなんかもドン引きではある。
もはやジョークになってないんだよね。そこんとこは大いに時代を感じました。
あと、深キョンもアンナさんも美人さんだけど、体育の授業でバスケのシュートをキメて「よっしゃー!!」とガッツポーズをとる女子や、TVの討論番組で(桃子の脳内映像だが)桃子のことを「かわいそう!あなたってかわいそう!」と憐れむ若い女性など、見た目がいわゆる美人ではなくて妙にリアルな外見、体型の人たちをあえて選んでいるのもルッキズムばんばんで嫌味ですよね。
逆に言えば、あの彼女たちの方が現実の「女子」たちに近い、とも言えるんだが。
これまた外見だとか体型のことをとやかく言うと不快になられるかたもいらっしゃるかもしれませんが、でもこれは貶してるんじゃなくて、この映画の深キョンの意外とヴォリュームのある体型が妙に印象に残ってるんですよ。二の腕にも太腿にもしっかりお肉がついてて(おそらく現在の彼女の方がスリムなのではないか)、そんな超健康体に見える深キョンがフリフリのドレスを着ている姿はやはりなかなかのインパクトだった。
対するイチゴ役の土屋アンナさんがスラっとした体躯なので、余計ふたりの外見の違いが強調されてて。どこからどこまでも違う彼女たちがツルみ始める面白さがある。
ヴェル○ーチやユニヴァー○ル・スタジオ・ジャパンのバッタもんのくだりもくだらないけど、「ジャージの国」とか、やたらと駄菓子が好きな祖母とか、そして「ジャスコ」ネタなど、笑えるかどうかはともかくそういう小ネタたち(今、“水野晴郎”や“シベリア超特急”と言っても通じない人もかなりいるでしょうし)がこの映画を単なるファンタジーではなくてどこかで現実に繋がっている物語として、そして20年後の現在観るとしっかり「2004年」という時代の空気も映し出している。
桃子は、ヴェル○ーチのバッタもんを買いにきた「イチコ」と名乗っていた相手が実は本名が「イチゴ」なのだと知ってからは、ずっと彼女のことを「イチゴ」と呼ぶ。
本人が呼ばれたくない名前を無理に呼ばれない自由だってあるけれど、最初は怒って桃子にチョーパン食らわしていたイチゴも、やがては本名で呼ばれることに抵抗を感じなくなる。
また、イチゴは尊敬するレディースの総長・亜樹美(この人が阿部サダヲ演じるフランスパンみたいなリーゼントの男に惚れて結婚する、というのはいまだに納得いかないが^_^;)に言われた「女は人前で涙を見せちゃダメなんだよ。ナメられちまうからな」という言葉を胸に刻んで自分でも実践しているが、これだって人には「人前で涙を流す」自由はある。
朝ドラ「虎に翼」(しばしば例に挙げてうっとーしかったらすみませんが、あのドラマで描かれていたことはいろんな創作物に援用できるので)でも、主人公・寅子の同期の山田よねが人前で泣いてしまう先輩の女性に厳しい言葉を浴びせるが、やがてはそういう選択肢だってあること、あるいは他者が弱さを含んだ「ありのまま」の自分を出すことも受け入れていくようになる。
「イチゴ」という名前が嫌だから「イチコ」と名乗り、そう呼ぶことを他の人にも求めるのも、女性だろうが男性だろうが人前で泣くことだって、それを選ぶことも自由ではある。
かつての桃子のように「独りで立つ」ことも、あるいは「イチコ」として生きることも、逆に「ダチとツルむ」ことも「本名のイチゴ」でいることも、すべて多様性溢れる世界で許されるべきなんだよな。
ルールに縛られることが嫌で“尾崎”が好きなイチゴが、昔と変わってしまった所属チーム「舗爾威帝劉(ポニーテール)」から抜けて自らの道を進んでいくのも、桃子が憧れだったロリィタ・ブランドの「BABY, THE STARS SHINE BRIGHT」から就職の誘いをもらいながら迷っているのも、私たちの先には選択肢はいくつもあること、それを選ぶのは他の誰かではなく自分であることを物語っている。
桃子とイチゴが選んだものも、それは彼女たち自身の意志で選んだものだからこそ尊いのだし、大切にすべきものでもある。
「トラつば」もシスターフッドが描かれたドラマだったし、この映画も公開から20年経って2024年の現在の視点でいろいろと語られていい作品だと思います。
初公開時に観た時のような衝撃は走らなかったけれど(土屋アンナさんの姐御っぽい“キャラ”も、もはやモノマネされるぐらい浸透したし)、それでも20年前のあの時にタイムスリップしたような懐かしさとせつなさを感じたのでした。
またこれからも何度でも観たい映画です。